▼マルザボットの大虐殺
九一年五月三日のイタリア各紙は、「マルザボットの大量殺戮者死去」という記事を大々的に報じた。この大量殺戮者とはヴァルテル・レーデルという元ナチ親衛隊少佐のことである。四四年夏、中部イタリアのトスカーナ、エミリア・ロマーニャ両州にかけての十指に近い村落をほとんど全滅させた張本人であった。殺された村民は三千人にも上った。
当時、ドイツ軍はティレニア海のマッサからアドリア海のリミニを結ぶドイツ軍の「ゴシック防衛線」を死守しようと、連合軍の北上に備えて拠点を強化していた。しかしこれら諸地方のパルティザンによる後方攪乱、ドイツ兵へのテロが相次いだ。このためパルティザンが利用すると見られるこれら村落を次々と焼き払い、村民を皆殺しにしたのである。
親衛隊の連隊司令官レーデルはまず手始めに、八月にドイツ兵三人がテロに殺されたスタッツェーマ村を襲い、五百六十人を焼殺した。同じようにヴェラ村で百七人、サン・テレンツォ村五十三人、ベルジォーラ村七十人、ヴィンカ村百七十四人、九月に入ってフリジード村約二百人、マルザボット村ではなんと千八百三十人であった。
このマルザボット村では九月二十八日に大虐殺が始まり、三日間も続けられた。パルティザンがこの村に逃げ込んだとの部下の情報で、レーデルはその日早朝、雨の中を村に突入した。まず農家に火を放ち、逃げる村民を捕えては火の中に放り込んだ。機関銃隊は撃ちまくった。
当時九歳のマリア・トリヴィローリという女の子は、八十二歳の祖父が火の中に投げ込まれるのを見た。そのすぐあと機関銃隊の一斉射撃にあい、自分は倒れた母の死体の下敷きになった。そのおかげで幸い九死に一生を得た一人である。ドイツ兵が赤ん坊を何人も集めては、そこに手投弾を投げるのも目撃した。
三十日になってやっとドイツ軍は引き揚げていった。いぜん雨が降っていたが、マリアは起き上がった。近くに家族の死体もあった。十一人家族のうちマリアだけが生き残った。村ではほかにリヴィア・ペリーニという十四歳の女の子が助かった。彼女は教会の中に逃げた。じっとひそんでいた。ドイツ兵は教会内部に入り込んで、司祭まで殺害した。外ではいつまでも銃声が聞えていたのを覚えている。
戦後にこのナチ親衛隊の蛮行が明るみに出て、ルイジ・エイナウディ大統領は五周年に当る四九年九月三十日マルザボット村を訪れ、レーデルによって消された村々の村民一人ひとりに金勲章を贈った。同時にイタリア軍事法廷はレーデルをオーストリアから呼び戻して裁き、五一年十月、イタリアの最高刑である終身刑を言い渡した。
レーデルはゲシュタポ隊長のカプラーと同じガエタの軍事刑務所に服役、二人は慰め合っていたという。そのレーデルは三十五年後の八五年一月、「善行服役者」ということで多くの反対にも拘らず釈放された。そして六年後に死んだのであった。