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ムッソリーニの処刑27

时间: 2019-11-21    进入日语论坛
核心提示:妻と最後の別れ シューステルからの返事はなく、いらだつムッソリーニは四月十六日閣議を招集、ファシスト政権の本拠をガルダ湖
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妻と最後の別れ
 
 シューステルからの返事はなく、いらだつムッソリーニは四月十六日閣議を招集、ファシスト政権の本拠をガルダ湖畔からミラノに移すことを告げた。
ミラノはファシズム発祥の地でもあった。しかもいま、ドイツ軍も集結している。ミラノの方が安全でもあり、かつアルプス南麓のヴァルテッリーナ砦に行くにも便利であった。ムッソリーニは、ここで最後の戦いを戦うためにも、そしてパルティザン側と接触するためにもミラノに出ることを決意したのである。その方が生き延びる確率は高かった。スイス国境も目と鼻の先だ。
翌日、妻ラケーレにその旨を伝えた。ラケーレはまたしても、不吉な予感にとらわれた。またしても——。
二年ほど前に、二度も自分の許を離れ、そのたびに夫が失脚し、さらに逮捕、幽閉の憂目にあったことを咄嗟(とつさ)に想い出した。
四三年七月二十四日夕刻、ローマのヴェネツィア宮の官邸で開かれるファシズム大評議会に統帥が出かける前、ラケーレは必死で「行かないで! 行ったら危ない」と反対した。「もし行くなら、あの連中を逮捕しておしまいなさいよ」とまで忠告した。ファシスト党幹部の反乱が予見されていたからである。その大評議会で、ムッソリーニはファシスト党統帥の地位を失ったのである。
その翌二十五日夕刻、ムッソリーニは「国王は自分を信任している」と信じ、報告のため国王の休暇先のサヴォイア荘に赴き、ヴィットリオ・エマヌエレ三世に謁見した。その時も、ラケーレは「絶対に行かない方がいい」と言い張ったが、ムッソリーニは聞き入れず、軍部と王室のクーデタのワナにまんまと吸い込まれるように、逮捕拘禁されてしまったのだ。その二ヵ月後にヒットラーの親衛隊が、幽閉先のアペニン山脈中の山荘から統帥を奇跡的に救出してくれたからよかったものの……。
 しかし今は情勢がまったく一変してしまっている。周辺はパルティザンの海となり、住民も反ファシズムに傾いている。連合軍部隊も北進を続け、その先遣部隊は約二百キロ先まで迫っている。ウィーンもニュルンベルクも陥落し、ヒットラーは首都ベルリン死守に追われ、イタリアのことなどにかまってはいられない状況にあった。
ラケーレは「今度こそは統帥の身に危険が及ぶ」と直感した。二十余年君臨してきた独裁者の妻としてのカンからであった。しかしムッソリーニはすでに準備万端ととのえ、出発するばかりとなっていた。その顔には決意が満ちていた。
「あとで連絡する」
ムッソリーニはこう言うと、迷彩をほどこした車に乗り、十数台の党・政府首脳車、ナチ親衛隊やファシスト軍の警備隊とともに薄闇の中に消えて行った。
「ムッソリーニは今日、とうとうガルニャーノを去って行った。『すぐに戻るから』と言って。私はあわてふためいた。ミラノに行かなくてはならない大事な用があると言って、シューステル枢機卿の名前を口にした。私をだまそうとする時にはいつも真面目そうな顔をするのに、こんどはあまりにも真剣そうなのが気懸りだ。私達にもあとで移動するよう指示しながら、その時には一緒だからと最後まで繰り返していた。車に乗ろうとしてちょっと立ち止まり、数歩戻ると、庭や屋敷を眺め、そして私の目をじっと見つめ、いろいろ言いたそうだった。別に多く言葉を交すことはなかった。彼の気持を思って私の心は千々に乱れた」
 夫の生きている姿を見た最後の時を、ラケーレはこのように日記に留めている。
 ムッソリーニがミラノに着いたのは十八日である。途中、パルティザンの襲撃を警戒して、思わぬ時間を要してしまった。それほど都市周辺は情勢が切迫していたのである。ガルダ湖西岸からミラノまでは、約百キロ余りでしかない。ドイツ軍とファシスト軍に守られながらも、この始末であった。先が思いやられた。わずか四ヵ月前とは、ミラノも激変していた。
ミラノ市内モンフォルテ通りの県庁に着いたのは深夜。知事室がムッソリーニの政務室となった。知事ウーゴ・バッシはムッソリーニが任命したファシスト党幹部である。県庁の周囲や中庭には、ドイツ兵、ファシスト兵が大勢たむろしていた。サイドカー、オートバイがせわしく往来し、郊外にはパルティザンの銃声もこだまし、緊迫した空気が流れていた。
 三月に長男ヴィットリオをシューステル枢機卿の許に差し向けたのに、まだ返事も受け取っていなかったムッソリーニはあらためて、知人で実業家のジャン・リッカルド・チェッラを通じ、再度シューステル枢機卿と連絡をとった。ムッソリーニにすれば、国民解放委員会との接触の結果いかんでは、和戦いずれかを即決しなければとも考えたようである。
ムッソリーニはミラノで、ドイツ軍とヴァルテッリーナ作戦について協議した。ドイツ側は乗り気ではなかった。もしそうした作戦が有効であれば、もっと前から十分な戦略物資を準備し、抗戦能力を確保しておくべきだったと指摘した。ファシスト側としては、名誉ある戦争を行ってムッソリーニら首脳が、パルティザンの手ではなく、連合軍の捕虜となる筋書きを考えていた。このため協議は何ら進展もなく、ムッソリーニとしては独自でこの作戦を遂行するしかなかった。
 ドイツ軍がなぜ乗り気でなかったのか。実はその頃、イタリア駐留ナチ親衛隊司令官カール・ヴォルフは、すでに降伏を決断、連合国側との交渉の機をうかがっていたからである。その結果、ヴォルフは四月二十一日秘密裏にスイス入りし、連合国側情報機関と接触、さらにベルリンまで赴いてハインリッヒ・ヒムラー親衛隊隊長と会い、イタリア駐留軍の全権代表の資格を得て、連合国との交渉に当る承諾をとったのであった。
ヴォルフ将軍はこのあと直ちにスイスのルツェルンに行き、アメリカ情報機関の仲介でアメリカ戦略情報局(OSS)の責任者アレン・ダレスと会う。四月二十七日のことである。その結果、四月二十九日午後、ドイツ軍代表がイタリア南部カセルタの連合軍南欧総司令部で正式に降伏調印の運びとなるのだが、ドイツ軍はこのように、ムッソリーニにも隠密に、連合国と降伏交渉を進めていたのであった。
その前後、ファシスト国防相グラツィアーニは、駐イタリアドイツ大使ラーンと今後の対策検討を行ったが、ラーンは対連合国降伏についてはひと言も触れず、グラツィアーニにピストル一挺を手渡しただけであった。そのことが何を意味するのか、グラツィアーニも即座に理解し、ドイツとの同盟関係は終ったと判断したと、当時の側近は明らかにしている。
 四月二十二日、パルティザンが支配したボローニャに連合軍が入城した。二日後にはジェノヴァのパルティザンが武装蜂起して、市はほぼ解放された。次はいよいよミラノの武装蜂起の番となってきた。
こうした事態の緊迫のさなか、ミラノ大司教シューステルから「ムッソリーニが会談したいと言っている」旨の連絡を受けた地下組織の国民解放委員会首脳は、会談を数日延ばしてミラノの一斉蜂起と時を同じくして、ムッソリーニに一気に無条件降伏を迫る肚(はら)であった。
四月二十四日、ミラノの世界的なゴム製造企業ピレッリ工場内のドイツ軍司令部も、工場労働者の攻撃を受けて撤退させられた。ミラノ中心部まで銃声が絶え間なく響くようになった。ムッソリーニはその銃声を聞きながら、自ら一通の手紙をタイプに打っていた。イギリス首相チャーチル宛であった。「閣下、諸情況は残念ながら切迫しています」で始まるその書簡内容の大要は次の通りである。
「私がこれまでイギリス、アメリカとドイツの間の仲介ができなかったことは、誠に遺憾であった。かつて貴下が『イタリアは架け橋である。イタリアが犠牲となることがあってはならない』と、私に述べられたことを想起して欲しい。歴史というものを考える時、私は後悔の念を禁じ得ない。貴下こそは私を分ってくれる人物である。貴下はまたイタリアの兵士の優秀性を称賛する宣伝もしていた。無益かも知れないが、もう一度、歴史における私の立場を想起してもらえれば有難い。いまこそ正確な判断で私を裁き、そして守ってもらいたい。無条件降伏というものは、勝者を誤まらせるがゆえに断じて受け入れられない。
貴下がぜひ私を信頼されんことを。私を許して欲しいとは言わないが、正しい裁きを願う。東方(筆者注・ソ連を指す)の危険性についても、私の意を聞いて欲しい。事のすべては貴下の手の中にあるがゆえに」
 このチャーチル宛ムッソリーニの書簡が存在したことは、一九八三年三月十七日、イタリア国営放送RAIのニュースで発表された。翌十八日のイタリア各紙にも、書簡の写真入りで報ぜられた。イタリア社会共和国の便箋にタイプで打たれ、書いた日付は一九四五年四月二十四日とあり、ベニト・ムッソリーニの署名がなされている。
言おうとしている点は「共産主義の脅威を知っている私は、だからこそファシズム体制をとってきた。共産主義をはびこらさないためにも、私を助けてもらいたい。救えるのはチャーチル首相、貴殿だけだ」との訴えである。いずれ間もなく、連合軍に運よく捕った場合に備えてのものであったとも解される。
この書簡についてローマのメッサジェーロ紙の記事は、「チャーチル宛の未公開のSOS。ムッソリーニは最後まで幻想を捨てていなかった」の見出しをつけているが、肝心のこの書簡がどこに保管されているのか、またこれがチャーチルに届けられたかどうかには触れていない。それにしても敵国の首相に助命を訴える統帥の最期の心境をうかがわせる貴重な資料ではある。
 その夜、ムッソリーニの許にシューステルから「明二十五日午後五時半、大司教邸で解放委員会側と会談の段取りとなった」旨の連絡が入った。双方五人ずつ列席とのことであった。ファシスト側としては、これまで「武装反乱分子」「不正規兵」と見做してきた国民解放委員会つまりパルティザンと初めて同席することになったのである。戦局ばかりか政局も大転換を遂げようとする前夜であった。
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