連合国も統帥追跡
ムッソリーニ逃亡と知った解放委員会首脳らは、直ちに地方パルティザンに追跡を指示するとともに、スイス国境の警備強化を厳命した。約一時間近く前まで目と鼻の先の県庁内にいたムッソリーニを取り逃したことは残念至極であった。「こんど捕えたら」と、誰もが処刑やむなしの気持に傾いた。
シューステル枢機卿も、いつもの微笑を絶やさぬ表情ながら無念やるかたなかった。解放委員会の「取り逃した」残念さとは違って、「戦争終結の機会を失った」口惜しさからであった。
実はこのシューステルは、前年秋からスイスの首都ベルンの大司教フィリッポ・ベルナルディーニ師と語らい、戦争終結への努力を密かに傾けてきた。ベルナルディーニ師は法王庁の在スイス外交代表であり、スイスにあるアメリカの情報機関とも密接なコンタクトを保っていた。その主な相手は戦略情報局のアレン・ダレスであった。ダレスはもともと外交官で、戦後アメリカ国務長官となった同じく外交官のジョン・F・ダレスの実兄である。約三十人のスタッフを率いてベルンのアメリカ外交団の一部を構成、ナチ・ファシストに対する背後攪乱を四二年から開始していた。
四四年秋から、イタリア中部で勢力を増したパルティザンが在イタリア・ドイツ軍に猛攻勢をかけるにいたり、戦局の前途を予測したシューステル枢機卿も、ミラノの実業界、財界の強い要請を受けて、ダレスに呼応するかのように積極的に終戦工作に乗り出していたのである。
ミラノの大企業家と金融・財界は、いずれ中部イタリアに敷いたドイツのゴシック防御線は崩れ、ミラノに集結するとみていた。その場合、レジスタンス側とナチ・ドイツ軍の戦闘は不可避となり、ミラノが戦場となるのはもちろん、工場地帯の破壊もまぬがれないと見ていた。それでなくとも、ドイツ軍が大挙ミラノに駐留するようなことになれば、連合軍のミラノ空爆は一層激化することは明白であった。それによるイタリア第一の商工業都市のこうむる被害ははかり知れないと読んでいた。
ピレッリ(ゴム)、イタリア商業銀行、クレジット・イタリアーノその他の大企業・金融界の首脳はシューステル枢機卿を前面に、ナチ・ドイツ、ファシスト、それにパルティザンの三者の間をとりもち、戦火を避けるだけでなく、戦争の早期終結、ナチ・ファシスト勢力の降伏促進に手を貸していたのである。ミラノの大企業群は、ヴァチカンの財政面でも重要な存在であった。
枢軸の敗北が決定的となった一九四五年早々、このシューステルとベルナルディーニ、さらにアメリカ側のダレスを結ぶルートはすでに機能していた。三月に入ると、ナチ親衛隊のヴォルフが独自に連合軍への降伏を計画、シューステルの仲介により、スイスでダレス機関と接触していた。同じころ、ムッソリーニも長男ヴィットリオを通じて、シューステルにパルティザンとの交渉の労を依頼したことは既述の通りであった。
こうして第二次大戦の終幕は、秘かにミラノのフォンターナ通りの大司教邸で始まっていたのである。しかし、立場上シューステルはいっさいの経過については口をつぐみ、ヴォルフ将軍もムッソリーニも自らの意図や計画についてはともに語らずにいた。つまり、ナチ側もファシスト側も降伏について「ブラフ合戦」を演じていたことになる。しかも双方とも無条件降伏はやむなしとして、それぞれ単独でそれを受諾する腹を決めていたのが実情であった(注1)。
そうしたデリケートな時期だけに、ムッソリーニの逃亡は、シューステル枢機卿にとって痛恨の極み以外の何ものでもなかった。ムッソリーニは「一戦交える」つもりだと言っていた。枢機卿の不安と心配とがつのった。また統帥の運命に不吉な予感を覚えた。
シューステル枢機卿も、いつもの微笑を絶やさぬ表情ながら無念やるかたなかった。解放委員会の「取り逃した」残念さとは違って、「戦争終結の機会を失った」口惜しさからであった。
実はこのシューステルは、前年秋からスイスの首都ベルンの大司教フィリッポ・ベルナルディーニ師と語らい、戦争終結への努力を密かに傾けてきた。ベルナルディーニ師は法王庁の在スイス外交代表であり、スイスにあるアメリカの情報機関とも密接なコンタクトを保っていた。その主な相手は戦略情報局のアレン・ダレスであった。ダレスはもともと外交官で、戦後アメリカ国務長官となった同じく外交官のジョン・F・ダレスの実兄である。約三十人のスタッフを率いてベルンのアメリカ外交団の一部を構成、ナチ・ファシストに対する背後攪乱を四二年から開始していた。
四四年秋から、イタリア中部で勢力を増したパルティザンが在イタリア・ドイツ軍に猛攻勢をかけるにいたり、戦局の前途を予測したシューステル枢機卿も、ミラノの実業界、財界の強い要請を受けて、ダレスに呼応するかのように積極的に終戦工作に乗り出していたのである。
ミラノの大企業家と金融・財界は、いずれ中部イタリアに敷いたドイツのゴシック防御線は崩れ、ミラノに集結するとみていた。その場合、レジスタンス側とナチ・ドイツ軍の戦闘は不可避となり、ミラノが戦場となるのはもちろん、工場地帯の破壊もまぬがれないと見ていた。それでなくとも、ドイツ軍が大挙ミラノに駐留するようなことになれば、連合軍のミラノ空爆は一層激化することは明白であった。それによるイタリア第一の商工業都市のこうむる被害ははかり知れないと読んでいた。
ピレッリ(ゴム)、イタリア商業銀行、クレジット・イタリアーノその他の大企業・金融界の首脳はシューステル枢機卿を前面に、ナチ・ドイツ、ファシスト、それにパルティザンの三者の間をとりもち、戦火を避けるだけでなく、戦争の早期終結、ナチ・ファシスト勢力の降伏促進に手を貸していたのである。ミラノの大企業群は、ヴァチカンの財政面でも重要な存在であった。
枢軸の敗北が決定的となった一九四五年早々、このシューステルとベルナルディーニ、さらにアメリカ側のダレスを結ぶルートはすでに機能していた。三月に入ると、ナチ親衛隊のヴォルフが独自に連合軍への降伏を計画、シューステルの仲介により、スイスでダレス機関と接触していた。同じころ、ムッソリーニも長男ヴィットリオを通じて、シューステルにパルティザンとの交渉の労を依頼したことは既述の通りであった。
こうして第二次大戦の終幕は、秘かにミラノのフォンターナ通りの大司教邸で始まっていたのである。しかし、立場上シューステルはいっさいの経過については口をつぐみ、ヴォルフ将軍もムッソリーニも自らの意図や計画についてはともに語らずにいた。つまり、ナチ側もファシスト側も降伏について「ブラフ合戦」を演じていたことになる。しかも双方とも無条件降伏はやむなしとして、それぞれ単独でそれを受諾する腹を決めていたのが実情であった(注1)。
そうしたデリケートな時期だけに、ムッソリーニの逃亡は、シューステル枢機卿にとって痛恨の極み以外の何ものでもなかった。ムッソリーニは「一戦交える」つもりだと言っていた。枢機卿の不安と心配とがつのった。また統帥の運命に不吉な予感を覚えた。
その二十五日午後八時、ムッソリーニがミラノを脱出したのと同じ時刻、ベルンのアメリカ公使館では、ダレスが一人の若い情報将校に重要任務を言い渡していた。
「君は一、二日中にミラノに行け。目的はムッソリーニの身柄を確保して、連合軍に引き渡すこと」
この情報将校の名は在スイス・アメリカ軍人のエミリオ・ダダリオ大尉。名前から明らかなように、イタリア系アメリカ人で二十六歳。大学で法律を専攻し、暗号名は「MIM」となっていた。ミラノからムッソリーニが姿を消したとの連絡があったわけではない。そろそろ統帥が「泳ぎ出す」のではないかとのダレスの鋭い嗅覚からであった。こうして連合軍側もいよいよムッソリーニ逮捕に乗り出したのである。イタリアのパルティザンと連合軍のどちらが先に、統帥の身柄を確保するかのツバぜり合いが開始された瞬間であった。
ダダリオ大尉はベルンからイタリア側のポンテ・キアッソを経て、二十七日にミラノ入りした。部下達も皆、私服ではあったがスーツケースの中にアメリカ軍の制服と星条旗をしのばせていた。ミラノ市内ではパルティザンに警戒されたりしたが、ダレスの命令通りレジスタンス軍指揮官のカドルナ将軍と接触することになる。
「君は一、二日中にミラノに行け。目的はムッソリーニの身柄を確保して、連合軍に引き渡すこと」
この情報将校の名は在スイス・アメリカ軍人のエミリオ・ダダリオ大尉。名前から明らかなように、イタリア系アメリカ人で二十六歳。大学で法律を専攻し、暗号名は「MIM」となっていた。ミラノからムッソリーニが姿を消したとの連絡があったわけではない。そろそろ統帥が「泳ぎ出す」のではないかとのダレスの鋭い嗅覚からであった。こうして連合軍側もいよいよムッソリーニ逮捕に乗り出したのである。イタリアのパルティザンと連合軍のどちらが先に、統帥の身柄を確保するかのツバぜり合いが開始された瞬間であった。
ダダリオ大尉はベルンからイタリア側のポンテ・キアッソを経て、二十七日にミラノ入りした。部下達も皆、私服ではあったがスーツケースの中にアメリカ軍の制服と星条旗をしのばせていた。ミラノ市内ではパルティザンに警戒されたりしたが、ダレスの命令通りレジスタンス軍指揮官のカドルナ将軍と接触することになる。
一方、コモ市にたどり着いたムッソリーニは翌二十六日午前四時頃、ともかく北へ進もうと湖畔沿いに北上した。四月末とはいえ、アルプスの麓は肌寒く、あたり一面に霧が立ちこめていた。逃避行の身には幸いでもあった。右側はコモ湖、左側はすぐ山並みが続く。その山中にはパルティザンが陣を張っていた。湖畔の幹線を進むしかなかった。しかしそれは、夜が明ければパルティザンの目に曝されることを意味した。
二十数台の隊列は、東の空が白らみかけた頃、コモから五十六キロのメナッジョの町にたどり着いた。コモ湖のちょうどなかばに面する交通の起点でもあり、ここからグランドラ、ポルレッツァを経てスイスのルガノに通ずる幹線道路も走っている。メナッジョからスイス国境まではわずか二十七キロしかなかった。
内務次官ブッファリーニ=グイディが「ここからルガノに出てはどうか。スイス税関は通してくれると思うが……」とムッソリーニに進言した。折柄強い雨が降り出し、パルティザンの目をかわすこともできるかにみえた。一行はとりあえず、途中のグランドラまで行き、様子を探ることにしたが、そこからさらにブッファリーニ=グイディらがファシスト兵とともに二台の車でポルレッツァ方面に向った。ブッファリーニ=グイディは、この際どうしてもスイスとの国境を越えたがっていた。生き延びる最短距離だからである。
そこへ何と、ミラノから追いかけて来たペタッチらが、アルファ・ロメオを駆って到着した。弟のマルチェッロが運転し、彼の妻と子供達も一緒だった。クラレッタはビーバーの毛皮コートを着て、髪をターバンで包んでいた。
意外な人物らの出現に、ファシスト首脳らはムッソリーニの眼前にもかかわらず、不快感を隠さなかった。ムッソリーニも部下の手前、困惑の表情を示し、その姿をまじまじと眺めるしかなかった。だが、ペタッチらが現われたため、彼はいっそう、気が弱くなったようだ。彼はここでスイス脱出を試みる気になった。
これに対し、同行の親衛隊キスナットとビルツェルが猛然と反対した。「捕ったら大変ですぞ。捕まらないという保証はないのですから」と強く引き留めた。彼らにとっては、捕っても無事脱出できても困るのが本音であった。ムッソリーニはそこでクラレッタに「お前は女性だし、大丈夫だろう。ここからスイスに行くがよい」と促した。しかしこれにも、ナチ将校らは反対した。
雨は降りしきり、いたずらに時間は過ぎて行く。前夜、ムッソリーニは二、三時間しか眠っていなかった。顔は蒼ざめ、疲労の色が濃く、年齢よりもはるかにふけて見えた。
しばらくして、ポルレッツァ街道から一台の車が疾走して来た。ブッファリーニ=グイディらと一緒に出て行った二台のうちの一台であった。
「この道は駄目です。ポルレッツァのイタリア側税関と国境警備隊員は、パルティザン側についてしまっています。内務次官らは捕まってしまいました!」
車から降りるや否や、このファシスト兵は一気にまくし立てた。
ムッソリーニ以下、誰もひと言もいわなかった。
メナッジョに戻り、そこのファシスト軍団の宿舎に落着いた。軍団の兵士達は一人もいなかった。すでに全員、逃走してしまっていたのである。統帥ら一団は閣僚と党幹部、それにペタッチらと車の運転手の計二十八人でしかなかった。宿舎のラジオのスイッチをひねると、自由ミラノ放送がカン高い声でアナウンスしていた。
「われわれの蜂起は成功しました。ミラノは完全にファシストの手から解放されました!」
すでに二十六日の夜が始まっていた。近くのスイスの山々は黒い塊となっていた。閣僚や党首脳は口々に、「これからも統帥を中心に行動する」と誓った。もう逃れられないとあきらめたからではなかった。統帥がいれば脱出に成功するのではとの一縷の希望を抱いていたからである。
それほどムッソリーニへの信頼感は高かったのである。その信頼が全員の死出の旅につながった。
二十数台の隊列は、東の空が白らみかけた頃、コモから五十六キロのメナッジョの町にたどり着いた。コモ湖のちょうどなかばに面する交通の起点でもあり、ここからグランドラ、ポルレッツァを経てスイスのルガノに通ずる幹線道路も走っている。メナッジョからスイス国境まではわずか二十七キロしかなかった。
内務次官ブッファリーニ=グイディが「ここからルガノに出てはどうか。スイス税関は通してくれると思うが……」とムッソリーニに進言した。折柄強い雨が降り出し、パルティザンの目をかわすこともできるかにみえた。一行はとりあえず、途中のグランドラまで行き、様子を探ることにしたが、そこからさらにブッファリーニ=グイディらがファシスト兵とともに二台の車でポルレッツァ方面に向った。ブッファリーニ=グイディは、この際どうしてもスイスとの国境を越えたがっていた。生き延びる最短距離だからである。
そこへ何と、ミラノから追いかけて来たペタッチらが、アルファ・ロメオを駆って到着した。弟のマルチェッロが運転し、彼の妻と子供達も一緒だった。クラレッタはビーバーの毛皮コートを着て、髪をターバンで包んでいた。
意外な人物らの出現に、ファシスト首脳らはムッソリーニの眼前にもかかわらず、不快感を隠さなかった。ムッソリーニも部下の手前、困惑の表情を示し、その姿をまじまじと眺めるしかなかった。だが、ペタッチらが現われたため、彼はいっそう、気が弱くなったようだ。彼はここでスイス脱出を試みる気になった。
これに対し、同行の親衛隊キスナットとビルツェルが猛然と反対した。「捕ったら大変ですぞ。捕まらないという保証はないのですから」と強く引き留めた。彼らにとっては、捕っても無事脱出できても困るのが本音であった。ムッソリーニはそこでクラレッタに「お前は女性だし、大丈夫だろう。ここからスイスに行くがよい」と促した。しかしこれにも、ナチ将校らは反対した。
雨は降りしきり、いたずらに時間は過ぎて行く。前夜、ムッソリーニは二、三時間しか眠っていなかった。顔は蒼ざめ、疲労の色が濃く、年齢よりもはるかにふけて見えた。
しばらくして、ポルレッツァ街道から一台の車が疾走して来た。ブッファリーニ=グイディらと一緒に出て行った二台のうちの一台であった。
「この道は駄目です。ポルレッツァのイタリア側税関と国境警備隊員は、パルティザン側についてしまっています。内務次官らは捕まってしまいました!」
車から降りるや否や、このファシスト兵は一気にまくし立てた。
ムッソリーニ以下、誰もひと言もいわなかった。
メナッジョに戻り、そこのファシスト軍団の宿舎に落着いた。軍団の兵士達は一人もいなかった。すでに全員、逃走してしまっていたのである。統帥ら一団は閣僚と党幹部、それにペタッチらと車の運転手の計二十八人でしかなかった。宿舎のラジオのスイッチをひねると、自由ミラノ放送がカン高い声でアナウンスしていた。
「われわれの蜂起は成功しました。ミラノは完全にファシストの手から解放されました!」
すでに二十六日の夜が始まっていた。近くのスイスの山々は黒い塊となっていた。閣僚や党首脳は口々に、「これからも統帥を中心に行動する」と誓った。もう逃れられないとあきらめたからではなかった。統帥がいれば脱出に成功するのではとの一縷の希望を抱いていたからである。
それほどムッソリーニへの信頼感は高かったのである。その信頼が全員の死出の旅につながった。