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ムッソリーニの処刑31

时间: 2019-11-21    进入日语论坛
核心提示:バリケードに阻まれる 幸いなことに、メナッジョの町にはまだパルティザンは出没していなかった。しかしコモ湖西岸の山岳地帯に
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バリケードに阻まれる
 
 幸いなことに、メナッジョの町にはまだパルティザンは出没していなかった。しかしコモ湖西岸の山岳地帯には、ミラノのペルティーニ、ヴァリアーニ、セレーニの社会党、行動党、共産党の各指導者の指令でパルティザンが厳戒態勢をとっていた。付近の村落や幹線道路も順次、支配下に置き、要衝にはバリケードを築き始めていた。
後年になって分ったことだが、コモ湖東岸のベラッジォからその北のソンドリオ、さらに東に延びるヴァルテッリーナ地方には、その時点ではまだパルティザンの勢力はまばらであった。ムッソリーニ一行が、もしこのコモ湖東岸を北上して行ったら、必ずしもパルティザンに行手を阻まれることはなかったかも知れない。だがこの場合、ファシスト首脳部はコモ湖西岸を北上してスイスに脱出するだろうと睨んだレジスタンス側の眼力に軍配が上げられよう。
 ムッソリーニらにとっては、メナッジョからどう進むにせよ、自分らの守護隊がないことには動こうにも動けない状況であった。どうしてもヴァルテッリーナで戦いたいパヴォリーニは、前々からの主張通り、最低五千人ぐらいの自分の手兵を集められると大見得を切って、コモ市方面へ戻った。
多少の期待をかけて待つ間、ムッソリーニは側近らに黒革の鞄を開けて、中の文書を示してみせた。それは自分に戦争責任はないことを証明する文書だとのことであった。外は強い雨が降りしきっていた。ムッソリーニは一人になって、所在なさそうに持参してきた一冊の本のページをめくった。その本は自称「ミラノ人」スタンダールの『パルムの僧院』であった(注1)。
 ムッソリーニが自分の「無罪」立証の重要文書とともに、『パルムの僧院』一書を携えて、スイスへの脱出行の途についていたことは、これは当時の統帥の心理状態を知るうえで、極めて興味深い事実である。
いうまでもなくこの作品は、スタンダールがこよなく愛したここコモ湖畔やミラノなどを舞台にしている。しかも主人公デル・ドンゴ侯のファブリスは、野心的で波乱万丈の生涯をたどる人物である。ワーテルローの会戦に参加して重傷を負い、戦争の栄光にも幻滅し、あるいは殺人犯として幽閉中に脱獄に成功、ついにはクレリアという女性に真の愛情を見出すという十六世紀風古典的ロマンである。しかもその筋書きと展開には、なにか侵し難い運命主義的なものがただよっている。
ムッソリーニが果して、その運命主義的なものを感じていたかどうかは知るよしもないが、ファブリスという一人の若き貴族の中に自分の姿を投影していたことは容易に想像できよう。ファブリス同様、彼もナポレオン・ボナパルトが青年時代から大好きだったし、ローマでの勢威の絶頂期にナポレオンになぞらえられて得意満面だったこともしばしばあった。
しかもファシズムを創設してこのかたファブリスと同様、投獄の憂目にも遭い、貧困と逆境にあえいだこともあった。政権を握ってからは、世界の表舞台に華々しく登場し、一世を風靡(ふうび)した。想えば有為転変の激動の人生であった。
そしてクラレッタは、ファブリスの愛してやまぬクレリアそのものであった。晴れて結婚できぬ身ながら、デル・ドンゴ侯に献身的に尽すその女心を、ムッソリーニはクラレッタの中にも見出していたに違いない。そしてこのメナッジョまで追いすがってきたクラレッタにいとおしさを胸一杯に覚えていたであろう。
こうしてムッソリーニはいま、ファブリスの軌跡をたどりながら、自分にどのような運命が訪れるのか? と、占っていたのかも知れない。彼は「待ち」の気持になっていたようだ。それにしても、ムッソリーニが美しいコモ湖を舞台にしたこの『パルムの僧院』をミラノを発つに当って持参したことは、コモを通ってファブリスの生れたドンゴにも寄ってスイスに逃れることを想定したからなのだろうか。まさかそこまでは考えてはいなかったであろう。しかし「ドンゴ」という地名がこの書の中にあったことは、何と運命的な予兆であったことか!
 二十六日の夜は静かに更けていった。雨はまだ激しかった。十一時過ぎ、パヴォリーニが車で帰ってきた。ムッソリーニらは、党書記長が多数の手兵を連れて戻ったものと思って外まで出迎えた。しかし、当のファシスト軍団の手兵は一人もいなかった。意気消沈のパヴォリーニだけであった。全員が肩を落とし、黙りこくったままであった。
ところがその数時間後、そのメナッジョの町を時ならぬエンジンの響き、車輪の音が揺るがした。二十七日未明のことである。ムッソリーニらははね起きた。
目の前の道路を武装ドイツ部隊が通過しているではないか。高射砲隊の約二百人の兵が退却中だったのである。装甲車、トラックなど約四十台だったが小型高射砲、重機関銃を装備していた。指揮官はファルマイアー中尉。
この思いがけぬドイツ部隊の出現に、ムッソリーニらファシスト首脳は狂喜せんばかりであった。「これで助かった! 大丈夫だ!」と、誰もが確信した。統帥警護のキスナット、ビルツェル両親衛隊将校は、このドイツ軍に合流することを決め、ファルマイアー中尉の了解を得た。
午前五時、ドイツ部隊は再び北に向け出発した。ファシスト側は車十二台にまとめ、ドイツ部隊の最後尾につき、先頭車に党書記長パヴォリーニら、そのあとにナチ親衛隊のキスナット少佐ら、そのすぐ後にムッソリーニ以下閣僚らが続き、クラレッタ・ペタッチと弟夫妻の車が最後尾に連なった。全隊列は約一キロもの長さになった。このドイツ部隊の総指揮は階級からキスナット少佐が当ることになった。
早朝の薄い光を浴びながら、隊列はドンゴ方面に向った。ドイツ部隊はそこからさらに、ドイツ軍占領下のメラーノ市を目指していた。
 前日の二十六日、自由ミラノ放送が「北イタリアも解放へ立ち上がれ」と放送したのを聞いたパルティザンの第五十二ガリバルディ旅団の隊長ペドロは、部下とともに山を下り、ドンゴの町に入っていた。部下といってもわずか三人でしかなかった。
隊長ペドロはパルティザン仲間の通称で、本名はピエール・ルイジ・ベッリーニ・デッレ・ステッレ。もともとフィレンツェ出身だったが、イタリア休戦後、妹とともにパルティザンに身を投じ、北イタリア山岳地帯に入っていた。一緒にいた仲間は通称ビルで北イタリア・ヴィチェンツァ出身のウルバーノ・ラッザーロが本名の元財務警察官。政治委員で通称ピエトロ・ガッティのミケーレ・モレッティ。それに参謀長格のコモ出身のルイジ・カナーリ。通称ネーリ。この計四人である。
四人はその日のうちに、退却するドイツ軍の退路を遮断する目的で、主要幹線であるコモ湖西岸の自動車道路にバリケードを敷いた。太く長い木の幹一本を道路いっぱいに渡し、その前と後に巨大な岩塊を数個転がしただけの簡単なものだった。そのあたりの道路は、湖畔に沿ってくねくねと曲っているが、その一つであるバリケードを敷いた場所は、ほぼ直角に左にカーブした直後の地点で、前方からは見通しがまったく利かない位置であった。そのあたりはドンゴ村のムッソという集落である。ムッソリーニのムッソと綴りがまったく同じである。なにか不思議な符合であった。
二十七日の朝六時半過ぎ、ムッソ集落の住民からドイツ軍の隊列がやってくるとの通報を受けたドンゴのペドロらは、すぐに現場の方へ向った。ドンゴから約二キロ足らずである。山中にある近道のけもの道を急いだ。
ドイツ軍の隊列は、バリケードに見事に阻まれて、先頭の装甲車は立往生していた。道路は舗装された六メートル幅。左側は切り立った絶壁が十メートルの高さに屏風岩をなしている。右側には七十センチほどの高さの厚い石の壁がガードレールの役目を果している場所であった。
ドイツ側の隊列から見ると、湖面の向うにドンゴの白い家並みがあり、その背景には森と白銀のアルプスの山々が連なっていた。その美しい風光の中に、ペドロらが左の絶壁から落とした巨岩がゴロゴロとバリケードを形作っている。
ペドロらは銃をかまえて、絶壁の上からそっと見下した。ドイツの隊列は、完全に身動きできずにいた。道路上の岩塊は数人がかりでもビクともしない巨岩である。ドイツ軍がすぐには動けないとみたペドロは、仲間を数メートルおきに散開させた。それぞれが少しずつ場所を変えて姿を見せ、パルティザンが大勢いると見せかけるためであった。
ドンゴを出る前、ペドロは二十五キロ北のキアヴェンナの司令部に電話し、ドイツ部隊が接近中であると伝え、援軍を要請しておいた。どのくらいの援軍が応援に来るかは分らなかったが、一キロにも及ぶドイツ軍の兵力に較べたら、ものの数ではないことをペドロは覚悟していた。兵力ばかりか、武器においてもパルティザン側は完全に劣勢であった。正面切って戦闘を交えたら、パルティザンの敗北は明らかであった。
戦法としては、ドイツ軍をここに張りつけ、交渉でドイツ軍を降伏させる以外にないと判断していた。やがてキアヴェンナから応援が到着したが、わずか数名でしかなかった。ペドロは近くの農家から赤い布切れを集めさせ、それを棒の先につけて、崖下のドイツ軍から見えるように、あちこちに立てさせた。その棒の間を、何人かのパルティザンが走り回った。
赤い色は共産党系ガリバルディ旅団であることを示す色である。ドイツ軍もその知識はあるはずだとペドロは考えたのだ。パルティザン達が走り回ったのは、かなりの人数がいるとドイツ軍に思わせるためであった。突然、ドイツ軍側が発砲してきた。崖の上のペドロらを狙ってきたのである。パルティザン側も応戦した。この交戦中、道路に姿を見せたイタリア人の道路工夫が、先頭の装甲車の銃弾を受けて即死した。
その時、ドイツ軍の中から白旗がかかげられ、一人の将校が装甲車の前に進んで出てきた。交戦はわずか数分間のことでしかなかった。いったい何が起ったのか——。
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