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ムッソリーニの処刑34

时间: 2019-11-21    进入日语论坛
核心提示:クラレッタと一緒に監禁 ムッソリーニがこのジェルマジーノに移されたのは、正確には二十七日夜七時前であった。拘禁された財務
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クラレッタと一緒に監禁
 
 ムッソリーニがこのジェルマジーノに移されたのは、正確には二十七日夜七時前であった。拘禁された財務警察監視隊のその舎屋は、もともとスイスとイタリア間のタバコ密輸ルートの取締り官宿舎であった。このあたりの山間の道は「タバコ道路」とも呼ばれていた。それほど両国のタバコ密売人がこのあたりの取締りをかいくぐって暗躍していた。
手持ちぶさたのムッソリーニは、ブッフェッリ軍曹にあれこれ話しかけてヒマをつぶしていたが、そのうちに夕食となった。メニューはまずパスタ、次いで山羊の焼肉と野菜、果物、チーズ、そしてコーヒーであった。雑談は続いたままであった。ブッフェッリの記録によると、ムッソリーニは満腹したようで、消化をよくするためにと、食後に部屋中を歩き回った。その軍曹が書き留めておいたムッソリーニとの会話の一部始終は、およそ次のような内容であった(注1)。
 ムッソリーニ「どうして余はここに捕っているのか?」
ブッフェッリ「閣下はここに留め置かれているのです」
ム「どうして?」
ブ「なぜって、いまさらイタリア人がドイツになんて行くことはないでしょう。それも戦争を続けるためになんて。皆さんはここに留まった方がいい。一九四三年九月に、国王はちゃんと戦争を中止しているんですよ」
ム「というと、君達は仲介者になろうということか。だけど分っているのかなあ、あの一九四〇年六月のことを。あの参戦の日、イタリア国民はこぞって参戦を歓迎していたではないか。余が参戦演説をした時、誰もが喜んで拍手をしていたではないか。ドイツ側に立ったからといって、すべてドイツと合意していたわけではない。ただ、ヒットラーは狂っていた。みんなあいつの仕業だ。彼は人間の力には限りがあることが分っていない。ドイツには『草木は天には生えない』という諺があるのに……」
ブ「でもこんな結果になったのも、みんな閣下のせいだと思っていますよ」
ム「……。だが戦争は終った。われわれファシストをどうするつもりなのだ?」
ブ「知りません。でもこんなことになったのは、誰の責任なんですか? 国民にも多少の責任はありますが……」
 ブッフェッリは「ムッソリーニの発言は、断片的だったが面白かった」と述べているが、このムッソリーニ発言は、気楽さも手伝ってか案外と本音を吐露しているのではないか。ヒットラーを精神異常者として責任転嫁しながらも、われわれファシストをどうするつもりか? と、前途を知りたがっているあたりに、その時のいつわりない心境がうかがわれる。
 その夜、ペドロやビルはムッソリーニの身柄を再度、別の場所に移すことにした。あまりの大物を扱いかねたためでもあるが、ファシストによる奪還をいぜん懸念したからでもあった。そのうえムッソリーニの許に連れていって欲しいとのクラレッタの願いをかなえさせてやりたい気持も働いていた。山小屋同然の監視隊宿舎では気の毒だとも考えたからである。
時刻は二十八日午前一時近かった。ペドロはジェルマジーノにムッソリーニを迎えに訪れた。すでに寝ていたムッソリーニを起すと、「クラレッタ・ペタッチと一緒に民家に行く」と告げた。
外に出るため、若いパルティザンがムッソリーニが着てきたドイツ軍の外套を着せようとすると、彼は拒んだ(注2)。
「ノー、ノー。そんなのはたくさんだ。ドイツ軍のものなど。あの連中の軍服など見るのもいやだ!」
そこで財務警察官の外套を与え、さらに肩から毛布を掛けた。未明の谷間はまだ寒い。さらにペドロは「誰にも分らないよう顔をかくすため、繃帯を頭に巻く」と告げ、目と鼻だけを出して、真白い繃帯で顔をグルグル包んだ。誰かが言った。
「これで負傷したパルティザンになった」
車でドンゴの入口に来ると、パルティザンのネーリことルイジ・カナーリとピエトロ、それに女性パルティザンのジャンナことジュゼッピーナ・トゥイッシの三人が、クラレッタを伴って待っていた。
春の冷い雨が降りしきっていた。ペドロがムッソリーニをクラレッタの前に連れていった。パルティザン達の前だけに、二人は感情を押えながらも、次のような言葉を交した(注3)。
まずペタッチの方がうるんだ低い声で言った。
「今晩は、閣下……」
ややあって、ムッソリーニが答えた。
「今晩は、夫人……。どうして私についてきたの?」
「だって、こうしたかったんですもの。でも繃帯など巻いて、どうされたのですか?」
「いや、何でもない。警戒のためだけさ」
ペドロが「さあ、行きましょう」と促した。
クラレッタは、捕った時のドイツ軍航空兵のオーバーオールから、元の自分の洋服に着換えていた。雨にぬれた二人は、それぞれが連れられて来た車に乗せられた。
行先はネーリと特に昵懇の一農家。ドンゴから約二十キロ湖畔を下ったジュリーノ・ディ・メッツェグラにある。ムッソリーニらが二日前、北上してきた道路を南に戻った。二十分足らずでメッツェグラに着き、そこからは歩いて山道を上る。砂利道でハイヒールのクラレッタは足を痛めた。山の中腹にある一軒家は、確かに人里から遠く、隠れ家としては申し分ない。
午前三時頃、ネーリが戸をたたいた。大きなジャコモ・デ・マリア家の農婦リアが起きてきた。
「この二人を数日間、お泊めしてくれないか」
二人は二階の寝室に通された。窓は一つだけ。地上七メートル。逃げるのは困難で、ペドロ達も安心した。二人の警戒に当る若いパルティザンを残して、ペドロらは雨の中を去った。
 一方、こちらはミラノの国民解放委員会。二十七日夕方、ドンゴのペドロからムッソリーニ逮捕の第一報が届いた。委員会首脳らは慎重であった。密かに緊急幹部会を招集し、「ムッソリーニ逮捕」を内々に知らせた。解放委員会がその手で統帥の身柄を確保するまでは、軽々に公表出来ないからである。ファシストだけでなく、連合軍の注意を引く動きは避けるべきだと配慮したのである。
ところがこの頃から解放委員会内部で不思議なことが起るのである。
まずそのひとつ。この緊急幹部会に参集して来た共産党系幹部が、すでに「統帥逮捕」の事実を知っていたことである。「ヴァレリオ大佐」の名で知られるパルティザンもその一人であった。首脳らが内々に示す前に、その情報をどこからか得ていたのである。ペドロの「公式」の報告より先に、ドンゴの党員から連絡を受けたらしい。
またもうひとつは、二十七日夕方、中部イタリアの在シエナ・アメリカ軍情報機関のマックス・コルヴォ少佐から、次の電報が入ったことである(注4)。
「司令部と解放委員会へ。ムッソリーニに関する正確な状況を知らされたし。その身柄引渡しの用意生じたる時は受け取りの飛行機を向わせる。連合軍司令部」
緊急幹部会招集にせよ、このアメリカ軍からの電報にせよ、その時間にはまだムッソリーニはドンゴ村役場にいた段階である。ヴァレリオ大佐の場合は、「早耳」ということになるが、コルヴォ少佐の場合は、たまたま事態と一致した内容の電報となったとしか解せない。だがこの後者の電報に対して、ミラノの国民解放委員会情報部長ジュゼッペ・チリッロは、二十八日早朝になって、これも不思議なことに次のように返電したのであった(注5)。
「ムッソリーニは二十八日未明、軍事法廷で裁かれたあと、昨年ミラノの愛国者十五人がナチスに処刑されたロレート広場で銃殺された。このため残念ながらムッソリーニの引渡しは不可能である」
この返電内容は、まったく事実に反する。二十八日早朝は、ムッソリーニはクラレッタとともにジュリーノ・ディ・メッツェグラの農家でやっと眠りにつく時刻であった。まだ処刑もされていない。なぜそのような電報を打ったのだろうか。もちろん、ムッソリーニを連合軍に引渡さないためである。つまりすでに銃殺されたこととして、身柄引き渡しをあきらめさせるのが目的であった。解放委員会は既述のように「処刑」を決定していたからである。
 解放委員会のこの方針が正しかったことは、ムッソリーニ逮捕の連絡を受けた晩、早くも立証された。その二十七日夜、在スイス・アメリカ軍のダダリオがカドルナ将軍の執務室を訪れ、ムッソリーニについての情報を求めたからである。ダダリオはコルヴォ少佐の電報のことはまったく知らず、ただ「ムッソリーニは現在、どの方面にいるのか?」を執拗に糺した。カドルナは「まったく分らない」と繰り返し通した。ただ「ムッソリーニについては、逮捕した場合はイタリア人の問題である」と言うことを忘れなかった(注6)。
カドルナとダダリオのこのやり取りを聞いていたヴァレリオ大佐は、ダダリオの態度にただならぬものを感じた。そして「あいつにさらわれてはなるものか。俺が殺(や)ってやる」と、秘かに決意した。
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