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ぼくのコドモ時間43

时间: 2019-12-05    进入日语论坛
核心提示:お正月はどんなだったろうタカコさんはまず新聞紙を座敷に敷く。で、台所から持ってきたまな板を置いて、そこで大根を切るのだ。
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お正月はどんなだったろう

タカコさんはまず新聞紙を座敷に敷く。で、台所から持ってきたまな板を置いて、そこで大根を切るのだ。そうしておいて、きのうお米屋さんが届けてくれたのし餅(ちょっと大きめの画用紙くらいなやつ)を、切っていく。大根を切るのは、お餅が包丁に粘りつくのを防ぐためです。
切り込み入れてみて、反り返って見当をつけたり、間をおいて、イザと切りかかったり、その都度、ふきんで包丁をふいたり、大根を切ってみたりで、その様子がどこか儀式めいてます。実際、このお餅を切りそろえる時間というのは、お正月を迎える気分というのを、いっとう盛り上げてくれるのでした。
だんだん細かく切っていって、最終的にはタバコの「光」くらいの大きさにするワケですが、端のほうのハンパな形になったものは、�おやつ�に
コドモは、この早めにやるお正月がとても楽しいのだった。まだお正月じゃないのに、お正月の食べ物を食べてしまう。っていうのがおもしろい。火鉢にしがみついて、形の悪い、ヘンなイソベ巻のできるのを、じっと注目して待ってるわけです。
今日は朝から、窓ふきをしたり、庭掃除をして、たき火をしたり、障子の張りかえの手伝いをしたりした。障子の張りかえも楽しかった。どうせ張りかえるのだから、
「穴をあけてもいいよ」と、許可がおりるのだ。いつもは障子をやぶけば叱られるのに、この日は「やぶってもいい」のである。
バリバリにやぶってしまったあとは、ぬるま湯で、桟《さん》にこびりついたノリと障子紙を、ぞうきんで落としていく。ホコリのにおいが、ぬるま湯に湿って立ちのぼる。
キレイにしたところで、タカコさんが障子紙を張っていく。まっ白に、目のさめるような障子紙が張られて、すみからすみまで、ふき掃除されて、部屋がお正月になったところで、いまリハーサルのお正月が食べられているわけである。端っこのイソベ巻はすぐなくなってしまうけれども、正規のお餅は、決して食べてはいけない。
「年越しのゴハンが食べられなくなっちゃうでしょ」だからだ。どこの風習なのか、ウチでは年越しソバじゃなくて、妙にゴーカな晩ごはんなのだった。ゴーカといっても、貧乏なんだから、つまり通常よりも、という程度。でもそれは、そのころはとてもゴーカに思えたのだ。大《おお》晦日《みそか》の晩、明日は元日というその晩に、なぜだかずいぶんハリコンだゴハンを食べる、というのがウチの方式なのだった。
一度、世間ふうに、おソバ屋さんから出前をとった年があった。食べ終わって、みんな何か物足りなくて、以後、この方式が墨守されることになった。そうしないと、お正月の来るような気がしないからだった。
仕上げには、おそくまで開いている銭湯へ行って、念入りに体を洗うと、小ざっぱりした敷布のふとんに入って、ラジオをききながら眠りにつく、除夜の鐘が遠くから聞こえてきて。枕もとには、お正月に着る新品の服が肌着から一そろい、真新しいゲタやタビまで、セットになって置かれてあるのだ。
ついに、明日はお正月なんだなァ、と思いながらコドモは眠りについたと思う。
目がさめると、お正月である。「あけましておめでとうございます」と何度も言いあう。おろしたてのタビをはき、新品のズボン、新品のセーターを着て、お雑煮を食べる。おしるこを食べて、正規のイソベ巻とアベカワと、キントンやナマスの干し柿を食べ、黒豆を食べて、おトソを飲むと、あれほど期待していたお正月は、突然終わってしまうのだった。
もちろん、カルタをしたり、凧を揚げたり、福笑いをしたり、コマを回したり、スゴロクをしたりするけれども、お正月はいつのまにか過ぎ去っていたらしい。
お正月はいつ来て、いついなくなってしまったのか、いまがきのうまでの去年とは、違ってしまったのはハッキリしてるけれども、なんだかハグレたような気のするのがお正月なのだった。ハグレた気分はそのままで、ちょっとキツイ鼻緒のゲタをはいて、外へ出ていくと、ふつうの、ただの冬休みをして、そんな気分も忘れてしまうのだったが、障子を張ったりお餅を切ったり、鐘を聞いたり、新調の服を着たりゲタをはいたり、いつもはしない遊びをしたりのお正月は、その周りがたしかにあるのに、その中心の種のあたりがいつのまにかなくなっている、何か、ボーッとした気分というのがあるのだった。
あるいは、一年が終わって新しい一年の始まることを、時間のことや人生のことを、そのボーッとした顔のコドモは考えていたのかもしれないが、いまもボーッとした顔のオトナであるボクにはよくわからない。
しかし、オトナになってボーッとしているボクは、どうもコドモの時にボーッと考えたようには考えていない気がする。お正月は、初めから単なる休日になってしまった。障子をやぶる者がいないから張りかえないし、正月用に新品の服を用意することもない。
おせち料理は元日から飽きてしまうし、ただムヤミにさわがしいTVを見ているきりである。お正月はなんにも、特別の日じゃなくなってしまったのだった。
周りからさんざん特別の日につくりあげたお正月をしていた時にだって、お正月のことは、ほんとはわかっていなかったのに、こんな、特別でないお正月に、オトナは何も考えたりはしないのだった。
コブ巻きと、里イモの煮物、干し柿だけなくなった大根と人参のナマスが残る。カズノコが残り(昔はカズノコが安かった)、ゴマメが残り、お雑煮に伊達巻が入らなくなって、お正月は完全に、あとかたもなくなってしまうけれども、いつなくなったのかはわからないのである。コドモは漠然とボーッと時間のことや永遠のことや、宇宙のことを、障子の窓から、誰かの揚げてる凧を見ながら、思っていたかもしれない。
コタツでみかんをむいて、買い置きのお菓子を食べて、ひまなしにおなかをいっぱいにさせながら、竜宮城に行った浦島太郎のことを考えていたかもしれない。
しかし、もうオトナになってしまったボクには、ほんとのところはワカラナイのだ。ひょっとしたらなんにも考えていなかったのかもしれないし、お正月を、お正月として楽しんでいたかもしれないのだ。ただ、なんとなく遠くのほうで、そんな感じのするだけだ。
霜柱がとけて、ぬかるんだ道を歩いて、おろしたてのゲタの汚れていくのを見て、何か考えたような、近所の門松を一つずつ見て回りながら、何かを考えていたような、そんな気がするだけだ。
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