ラカンの考え方によれば、人間はその人生で二度大きな「詐術」を経験することによって「正常な大人」になります。一度目は鏡像段階において、「私ではないもの」を「私」だと思い込むことによって「私」を基礎づけること。二度目はエディプスにおいて、おのれの無力と無能を「父」による威嚇《いかく》的介入の結果として「説明」することです。
みもふたもない言い方をすれば、「正常な大人」あるいは「人間」とは、この二度の自己欺瞞をうまくやりおおせたものの別名です。
ですから、精神分析の治療は、ふつうはエディプスの通過に失敗した被分析者を対象とするわけですが(鏡像段階を通過できなかった人には「私」がないので、おそらく分析にまでたどりつくことさえできないでしょう)、その作業は、標準的には、分析家を「父」と同定して、「自分についての物語」をその「父」と共有し、「父」に承認してもらうというかたちで進行することになります。
さきに見たとおり、精神分析では、分析家はひたすら分析主体のことばに耳を傾けます。分析主体のことば以外のデータを排し、その言説の内部にとどまるのです。重要なのは分析主体の言説を理解しているかどうかではありません。語りかけと応答がテンポよく進行すればそれでよいのです。その「コール&レスポンス」が分析的対話の真の推進力なのです。分析家が分析主体に与えるのは「理解」ではなく、「返事」なのです。
とすれば、さきにレヴィ=ストロースの解説で言語的コミュニケーションについて述べたことは精神分析的対話にもほとんどそのままあてはまることになります。
他者との言語的交流とは理解可能な陳述のやりとりではなく、ことばの贈与と嘉納のことであって、内容はとりあえずどうでもよいのです。だって、「ことばそれ自体」に価値があるからです。ことばの贈り物に対してはことばを贈り返す、その贈与と返礼の往還の運動を続けることが何よりもたいせつなのです。
レヴィ=ストロースによれば、メッセージの交換を行いうることは「人間」であるための必須条件です。したがって精神分析の目的は、とにもかくにも、問いかけと応答の往還の運動のうちに分析主体を引きずり込むことにあります。分析主体が知るべきなのは、自分の症候の「真の病因」などではありません。そんなものはどうでもよいのです。大事なのは、この対話を通じて、欲しいもの(いまの場合でしたら、「自分の成り立ちについてのつじつまのあった物語」)を手に入れるためには他者(分析家)を経由しなければならないという人類学的な真理を学習することなのです。自分自身を言語のネットワークの中の「どこか」に定位することなのです。
分析家は分析が終わると、必ずそのたびに被分析者に治療費を請求しなければならない、というのが精神分析のたいせつなルールです。決して無料で治療してはならないというのは大原則です。ラカンの「短時間セッション」は場合によると握手だけで終わることがありましたが、そのときでもラカンは必ず満額の料金を受領しましたし、料金を支払えなかった被分析者に対しては平手打ちを食わせることをためらいませんでした。「お金を払う」ことは非常に重要なのです。なぜなら、被分析者は分析家に治療費を支払うことで、精神分析の診察室において「財貨とサービスのコミュニケーション」である経済活動にも参与することになるからです。
精神分析の目的は、症状の「真の原因」を突き止めることではありません。「治す」ことです。そして、「治る」というのは、コミュニケーション不調に陥っている被分析者を再びコミュニケーションの回路に立ち戻らせること、他の人々とことばをかわし、愛をかわし、財貨とサービスをかわし合う贈与と返礼の往還運動のうちに巻き込むことに他なりません。そして、停滞しているコミュニケーションを、「物語を共有すること」によって再起動させること、それは精神分析に限らず、私たちが他者との人間的「共生」の可能性を求めるとき、つねに採用している戦略なのです。
みもふたもない言い方をすれば、「正常な大人」あるいは「人間」とは、この二度の自己欺瞞をうまくやりおおせたものの別名です。
ですから、精神分析の治療は、ふつうはエディプスの通過に失敗した被分析者を対象とするわけですが(鏡像段階を通過できなかった人には「私」がないので、おそらく分析にまでたどりつくことさえできないでしょう)、その作業は、標準的には、分析家を「父」と同定して、「自分についての物語」をその「父」と共有し、「父」に承認してもらうというかたちで進行することになります。
さきに見たとおり、精神分析では、分析家はひたすら分析主体のことばに耳を傾けます。分析主体のことば以外のデータを排し、その言説の内部にとどまるのです。重要なのは分析主体の言説を理解しているかどうかではありません。語りかけと応答がテンポよく進行すればそれでよいのです。その「コール&レスポンス」が分析的対話の真の推進力なのです。分析家が分析主体に与えるのは「理解」ではなく、「返事」なのです。
とすれば、さきにレヴィ=ストロースの解説で言語的コミュニケーションについて述べたことは精神分析的対話にもほとんどそのままあてはまることになります。
他者との言語的交流とは理解可能な陳述のやりとりではなく、ことばの贈与と嘉納のことであって、内容はとりあえずどうでもよいのです。だって、「ことばそれ自体」に価値があるからです。ことばの贈り物に対してはことばを贈り返す、その贈与と返礼の往還の運動を続けることが何よりもたいせつなのです。
レヴィ=ストロースによれば、メッセージの交換を行いうることは「人間」であるための必須条件です。したがって精神分析の目的は、とにもかくにも、問いかけと応答の往還の運動のうちに分析主体を引きずり込むことにあります。分析主体が知るべきなのは、自分の症候の「真の病因」などではありません。そんなものはどうでもよいのです。大事なのは、この対話を通じて、欲しいもの(いまの場合でしたら、「自分の成り立ちについてのつじつまのあった物語」)を手に入れるためには他者(分析家)を経由しなければならないという人類学的な真理を学習することなのです。自分自身を言語のネットワークの中の「どこか」に定位することなのです。
分析家は分析が終わると、必ずそのたびに被分析者に治療費を請求しなければならない、というのが精神分析のたいせつなルールです。決して無料で治療してはならないというのは大原則です。ラカンの「短時間セッション」は場合によると握手だけで終わることがありましたが、そのときでもラカンは必ず満額の料金を受領しましたし、料金を支払えなかった被分析者に対しては平手打ちを食わせることをためらいませんでした。「お金を払う」ことは非常に重要なのです。なぜなら、被分析者は分析家に治療費を支払うことで、精神分析の診察室において「財貨とサービスのコミュニケーション」である経済活動にも参与することになるからです。
精神分析の目的は、症状の「真の原因」を突き止めることではありません。「治す」ことです。そして、「治る」というのは、コミュニケーション不調に陥っている被分析者を再びコミュニケーションの回路に立ち戻らせること、他の人々とことばをかわし、愛をかわし、財貨とサービスをかわし合う贈与と返礼の往還運動のうちに巻き込むことに他なりません。そして、停滞しているコミュニケーションを、「物語を共有すること」によって再起動させること、それは精神分析に限らず、私たちが他者との人間的「共生」の可能性を求めるとき、つねに採用している戦略なのです。