廊下を慌《あわただ》しく走って行く足音で目が覚めたものだ。
浜八千代は枕《まくら》から頭だけ上げて隣を見た。消してあった筈《はず》のスタンドが点《つ》いている。
「なんだろうね……」
八千代が声をかける前に、腹這《はらば》いになって煙草を吸っていたらしい染子が低く呟《つぶや》いた。
「染ちゃん、ずっと起きてたの」
私は神経質だもんで、枕が代るとなかなか寝つけないんだ、と昨夜、床《とこ》に入る時くり返していた染子の言葉を思い出しながら、八千代はぐっすり眠り込んでいた自分が少しばかり気恥《きはず》かしい。
「それがね、可笑《おか》しいんだよ。お酒|呑《の》んで騒いだせいなのか、昨夜は全くの前後不覚、たった今、喉《のど》が乾いて目がさめて、水を呑んだついでに一服吸いつけたところなんだ」
成程《なるほど》、染子の枕元には宿屋特有の水差しの盆が置いてあって、ガラスのコップが濡《ぬ》れていた。八千代より二歳年下だから、漸《ようや》く二十二という若さなのに、夜具の中で煙草を吸うような自堕落《じだらく》な恰好《かつこう》が案外、身についているのは、十六の年齢からお座敷へ出たという芸者|稼業《かぎよう》の所為《せい》でもあろうか。それでも苦労をしている割合にすれっからした所がなく、善良でお人好しの彼女に、八千代は日本舞踊の同門という以上の安心感で交際《つきあ》っていた。
「久子さんは眠ってるの」
八千代は染子の布団越しにもう一つの布団を覗《のぞ》いた。
「さあ、どうだろう……」
染子が首をねじ向けたとたんに、くるりと寝返りをうって顔を見せた久子が、
「起きてます……」
やんわりと笑った。
「私も廊下の足音で眼がさめたんですよ」
そう言えば久子の布団が一番入口に近い。
十畳に三畳の脇《わき》部屋がついている。笹屋旅館ではまあ上の部の部屋であった。部屋割の時の予定では八千代と染子と二人きりの筈《はず》だったが、八千代が淋《さび》しいからと久子を誘ったものだ。
「本当に、なにかしらね。先刻《さつき》の足音……」
八千代は思い出したように四辺へ耳を澄ませたが、夜明け近い温泉宿はひっそりと鎮《しずま》り返って、僅《わず》かに遠く桂川《かつらがわ》の水音が聞えるだけだ。
「誰《だれ》か、病人でも出たんじゃありませんかしら……」
久子がそっと言いかけたとたん再び廊下に足音が乱れた。階段を転げるように下りて行くのと、まっしぐらに廊下を突き抜けて行くスリッパの音とが重なり合って、その一つが三人の部屋の前で止まった。
「ちょっと、久ちゃん、久子、起きてちょうだい……海東先生が……海東先生が大変なのよ。久子、久ちゃん……」
声は茜《あかね》ますみのものだった。
「お師匠《ししよう》さん……」
久子がとび起きて戸を開け、八千代と染子がそれに続いて戸口へ顔を並べた。
「どうなすったんです、お師匠さん」
茜ますみは浴衣《ゆかた》に丹前を重ねた伊達《だて》巻き姿だった。宿屋の殺風景な男物のどてらの上に締めたピンクの伊達締めが妙に色っぽい。
「あんた達……海東先生がね……」
茜ますみの唇は白っちゃけて頬《ほお》がひきつったように痙攣《けいれん》していた。
「お風呂《ふろ》の中で……死んでらっしゃるんだって……」
三人の娘は咄嗟《とつさ》に声が出なかった。
久子がべったりと廊下に膝《ひざ》を突いてしまった。
「死んでらっしゃるって……誰《だれ》がそんな」
辛うじて八千代は茜ますみを仰いだ。
「なんだか、よく解らないんだよ。今、宿屋の女中さんがそう言って来て……」
その時、廊下をあたふたと駆けて来た浴衣に細紐《ほそひも》一本という恰好《かつこう》が、
「お師匠さん、すぐ来て下さい。お医者さんが……」
茜ますみの内弟子の高山五郎である。つんつるてんの浴衣の裾《すそ》からはみ出した脛《すね》が鶏の足を八千代に連想させた。
あたふたと五郎に引っぱられて行く茜ますみの後姿を見送ってから、三人は誰《だれ》からともなく丹前を羽織り、廊下へ出た。
階段を一階へ下り、更にもう一段下りると家族風呂と書いた札が出ていて、ずらりと並んだ五つのすりガラスの戸が、それぞれ金文字で「バラの湯」「オレンジの湯」「椿《つばき》の湯」「白百合《しらゆり》の湯」「夢の湯」と描かれている。別にバラの花が浮かんでいるわけでもなく、オレンジの汁が湯になっているのでもないが、湯殿のタイルに各々《おのおの》の名にふさわしい絵が描かれ、湯の出口にバラやオレンジを型どった石がアクセサリーとして飾られているのだという事は、昨夜、三人で風呂に入る時に、やれ椿にしよう、白百合がいいと散々、ごて合ったからよく知っている。
「海東先生、どのお風呂ん中で死んでるの」
染子が素《す》っ頓狂《とんきよう》な声で言った。五つの湯殿はどれもひそとして人の気配もない。壁ぎわに影みたいに突っ立っている久子の膝《ひざ》がガクガク慄《ふる》えているのに気づくと、八千代も又、背筋からしきりと悪寒《おかん》が全身を走り出した。
頭上の廊下を走る足音は相変わらず騒々しい。地下のこの一角だけが不気味に落ち着き払っている感じだ。
不意に階段をばたばたと下りて来た人影が、おぼろな灯の下に立ちすくんでいる三人へ、
「きゃあ」
と鋭い悲鳴をあげた。
湯殿のすりガラスが一せいに金属的な反響をびりびり慄わす。
女中の叫び声で染子は八千代に獅噛《しが》みついた。
「女中さん、あの、海東先生は……人が死んでいるって言うのはどこのお風呂ですの」
久子が低い、静かすぎるような声で訊《たず》ねているのを八千代は幻覚の中の声のように聞いた。
「はあ、それは、あのう……」
女中は怯《おび》えた眼で三人をみつめ、それからこわばった苦笑を浮かべた。
「すみません。暗かったもんですから……」
「ああ、私達を幽霊とでも思ったの」
久子の落ち着いた調子は、やっぱり三十女のものだと八千代は急に気強くなった。
「冗談じゃない、藪《やぶ》から棒に悲鳴なんか、あげられちゃあ、こっちの方が驚くじゃないのさ」
染子は八千代の肩から手を放して女中をなじる。自分の醜態ぶりへのてれかくしでもあった。
「すみません、あの……人が死んでいるお風呂なら……ギリシャ風呂の方です」
「ギリシャ風呂……」
三人は再度、顔を見合わせた。
ギリシャ風呂というのは、この修善寺《しゆぜんじ》、笹屋旅館の名物というか売り物にしている巨大な風呂で直径三十メートルという楕円《だえん》形の、まるでプールみたいな浴場だった。真ん中に壺《つぼ》を持ったギリシャの少年の彫刻があって、その壺から湯が吹き出し、落下している。湯の表面は海のようなさざなみが立ち、浴室中はもうもうたる湯気で向い側が見えないというのも、宿の自慢だった。
この風呂は男女混浴なので、八千代達は昨夜、好奇心は充分にありながら、敬遠した。
長い冷たい廊下を女中に導かれて三人は新館の裏にあるギリシャ風呂へ急いだ。
が、これもプールの更衣室みたいな広い脱衣所へ入ってみると、ギリシャ風呂の中は既にかけつけた医師やら警官やら、宿の人々、関係者でごった返している。
「すみません、茜ますみの内弟子です。お師匠《ししよう》さんが内部に居りますので……」
久子が警官の許可を得て浴室へ入って行った後、八千代と染子は同宿の野次馬と一緒にうそ寒い脱衣室に突っ立っていた。
「心臓|麻痺《まひ》らしいぞ」
「いや、脳溢血《のういつけつ》だそうですよ」
「いいえねえ、酒を飲み過ぎて湯にとび込んだらしいんですよ」
無責任なざわめきがそこここにひそひそめいて、八千代は頭の芯《しん》がガンガン鳴り始めた。足が冷たいせいか、しきりに頬《ほお》がほてる。
一つだけ開いている窓のそばへ八千代はふらふらと歩み寄った。夜明けの風が頬に快い。窓枠に寄りかかるような恰好《かつこう》で何気なく脱衣棚を眺めて、ふと八千代は目を据えた。
棚の上にずらりと並んでいるからっぽの衣類|籠《かご》の一つに、骨も地紙も真黒な舞い扇が半開きの儘《まま》、しんとうずくまっている。
伊豆修善寺の温泉宿、笹屋旅館のギリシャ風呂で発見された海東英次の死体は、報らせによって駆《は》せつけて来た所轄署の警察が一緒に連れて来た嘱託警察医によって検視された。
その結果、死因は飲酒後入浴による心臓|麻痺《まひ》と断定し、所轄署では死体を遺族に引き渡す事を許可した。
棺《ひつぎ》に収容された海東英次の死体が、土地のハイヤーで東京に運ばれた日の夕刊は各紙共、第三面のトップにかなりなスペースをさいて邦楽作曲家、海東英次の死を報じた。
その概要は大体、次のようなものである。
邦楽作曲家として新作長唄に功労のある海東英次(56)氏は、昭和三十四年十二月六日、日本舞踊茜流家元、茜ますみとその一門が主催する忘年会に参加し、伊豆修善寺、笹屋旅館に投宿中、浴場内において心臓麻痺のため、急死。
なお、海東氏は昨年秋より妻、咲子さん(51)と別居中のため、とりあえず遺骸《いがい》は渋谷区上通り××番地、茜ますみ舞踊研究所に安置された。葬儀の日取りは未定。
海東英次の葬儀は三日後の十二月九日、青山葬儀場で取り行われた。
若い時分には邦楽解放を叫んで流儀をとび出し、本名で押し通して来た長唄界の異端児だったが、数々の新作長唄の発表と旺盛《おうせい》な政治力で傘下《さんか》に集まる門下生の数も多く、五年前からは邦楽組合の理事に迎えられてもいた。したがって葬儀は盛大で焼香者も邦楽邦舞界の主だった者が顔を揃《そろ》え、葬儀場を飾った花輪も少なくなかった。
喪主席には咲子未亡人が蒼白《あおじろ》くとがった頬《ほお》を固くして、ひっそりとうなだれている他は縁者らしい人もなく、少し離れて焼香者に挨拶《あいさつ》している喪服姿の茜ますみの長身が、ひどく印象的だった。黒の似合う女なのであろう。着物も帯も草履《ぞうり》も黒一色の全身が曇り陽の陰惨な葬儀場の中で、黒い花のようにあでやかだった。香の匂《にお》いの間で茜ますみの周辺だけが華やかに浮き上がっている。
自分の主催した忘年会での突発事故だけに如何にも責任を感じているといった風な、殊勝な態度なのだが、それにもかかわらず葬儀という場所に不似合いな存在に見えるのは、彼女の生来の勝ち気さと派手さが喪服の下から滲《にじ》み出るせいかも知れなかった。
「本当にとんだ事でございましたね……」
「あんまり急な事で、さぞ……」
焼香者の間から洩《も》れる私語は、なんとなく咲子未亡人と茜ますみとを好奇の眼で見くらべていた。黒枠の中におさまっている仏の写真は屈託のない笑顔である事も見ようによっては皮肉だった。海東英次が生前、咲子夫人と別居した原因と噂《うわさ》されているのが、他ならぬ茜ますみであったからだ。
その結果、死因は飲酒後入浴による心臓|麻痺《まひ》と断定し、所轄署では死体を遺族に引き渡す事を許可した。
棺《ひつぎ》に収容された海東英次の死体が、土地のハイヤーで東京に運ばれた日の夕刊は各紙共、第三面のトップにかなりなスペースをさいて邦楽作曲家、海東英次の死を報じた。
その概要は大体、次のようなものである。
邦楽作曲家として新作長唄に功労のある海東英次(56)氏は、昭和三十四年十二月六日、日本舞踊茜流家元、茜ますみとその一門が主催する忘年会に参加し、伊豆修善寺、笹屋旅館に投宿中、浴場内において心臓麻痺のため、急死。
なお、海東氏は昨年秋より妻、咲子さん(51)と別居中のため、とりあえず遺骸《いがい》は渋谷区上通り××番地、茜ますみ舞踊研究所に安置された。葬儀の日取りは未定。
海東英次の葬儀は三日後の十二月九日、青山葬儀場で取り行われた。
若い時分には邦楽解放を叫んで流儀をとび出し、本名で押し通して来た長唄界の異端児だったが、数々の新作長唄の発表と旺盛《おうせい》な政治力で傘下《さんか》に集まる門下生の数も多く、五年前からは邦楽組合の理事に迎えられてもいた。したがって葬儀は盛大で焼香者も邦楽邦舞界の主だった者が顔を揃《そろ》え、葬儀場を飾った花輪も少なくなかった。
喪主席には咲子未亡人が蒼白《あおじろ》くとがった頬《ほお》を固くして、ひっそりとうなだれている他は縁者らしい人もなく、少し離れて焼香者に挨拶《あいさつ》している喪服姿の茜ますみの長身が、ひどく印象的だった。黒の似合う女なのであろう。着物も帯も草履《ぞうり》も黒一色の全身が曇り陽の陰惨な葬儀場の中で、黒い花のようにあでやかだった。香の匂《にお》いの間で茜ますみの周辺だけが華やかに浮き上がっている。
自分の主催した忘年会での突発事故だけに如何にも責任を感じているといった風な、殊勝な態度なのだが、それにもかかわらず葬儀という場所に不似合いな存在に見えるのは、彼女の生来の勝ち気さと派手さが喪服の下から滲《にじ》み出るせいかも知れなかった。
「本当にとんだ事でございましたね……」
「あんまり急な事で、さぞ……」
焼香者の間から洩《も》れる私語は、なんとなく咲子未亡人と茜ますみとを好奇の眼で見くらべていた。黒枠の中におさまっている仏の写真は屈託のない笑顔である事も見ようによっては皮肉だった。海東英次が生前、咲子夫人と別居した原因と噂《うわさ》されているのが、他ならぬ茜ますみであったからだ。
銀座東七丁目にある料亭「浜の家」は東京でも一応、名の通った割烹《かつぽう》店である。この店の魚料理には定評があり、冬は河豚《ふぐ》を表看板にしている。
家族専用の裏玄関を入った所で、出迎えた女中のきよに塩を軽くふってもらって、浜八千代はそそくさと草履《ぞうり》を脱いだ。その沓脱《くつぬぎ》に見馴《みな》れた皮緒の男草履が一足。
「あら、音羽屋の小父《おじ》さん、来てるの」
「はあ、ほんの今しがた。お茶の間です」
答えた女中の顔がなんとなく笑っている。八千代は片眼をつぶって見せた。
「歌舞伎座《かぶきざ》は確か三日が初日だったわね」
「はい」
きよは視線を廊下へ落とす。
「音羽屋の小父さんは今月の忠臣蔵の通し狂言で、持ち役は師直《もろなお》と道行の勘平《かんぺい》と、夜は五段目で切腹する迄《まで》、体は空かない筈《はず》でしょう」
八千代は勝ち誇ったように茶の間の白い障子を眺めた。意識した声の高さは、その閉った障子の向こうに坐《すわ》っている人間に聞かせる心算《つもり》である。
「ええと、今の時間は、ちょうど三時が四十分過ぎ。音羽屋の小父さんなら真っ白にお化粧して、延寿太夫の美声でいい御機嫌《ごきげん》のお軽《かる》勘平道行を踊ってる時間じゃないの。�男の花道�の劇中劇じゃあるまいし、舞台最中に当代随一の人気俳優、尾上勘喜郎が浜の家へかけつけてくる理由がないわね」
「いけませんよ。うちのお嬢さんはお頭《つむ》が特別あつらえなんですからね。音羽屋の坊ちゃん、いい加減にお顔を出して下さいまし」
きよは塩壺《しおつぼ》を抱えた儘《まま》、障子の向こうへ捨て台詞《ぜりふ》を残して台所へ逃げこんでしまった。
それでも障子の内はふん切り悪く静まりかえっている。
「思い切りの悪い人ね。とっとと正体を見せたらどうなの」
さらりと障子を開けて八千代は当てがはずれた顔になった。朱《あか》い絞りの布団をかけた炬燵《こたつ》の上に週刊誌が一冊、拡げたなりに置いてあるが茶の間には人の気配もない。
「あら……」
ふっと戸惑って立ちすくんでいる八千代の頭上から、
「お帰りなさい。浜の家の女流探偵どの」
さわやかに声が笑って、守宮《やもり》みたいに鴨居《かもい》へはりついていた五尺六寸、十五貫が音もなく畳へとび下りた。埃《ほこり》も立たない、猿のような身ごなしである。
「海東先生の告別式の模様はどうだったのさ。ぽかんとしてないで、まあお坐《すわ》りよ。外は寒かっただろう……」
|能条 寛《のうじようひろし》は、男にしては端麗すぎる横顔を八千代へ向けて、紬《つむぎ》の羽織の裾《すそ》を軽くはねると我が家のような気楽さで、さっさと炬燵《こたつ》へ足を入れた。
狭い庭をへだてた調理場の辺りでにぎやかな笑い声が聞こえる。銀座の料理屋はそろそろ客のたてこんでくる時刻なのだろう。
八千代はガラス戸越しにちらと調理場の方を眺め、それから茶の間へ入って障子を閉めた。
古風な桑《くわ》の長火鉢の前へすわって新しく茶の仕度を始める。
「いつ、京都から帰って来たの」
上眼づかいに能条寛の横顔を見た。
「たった今、羽田から真っ直ぐに浜の家へ御到着さ」
「暮だから撮影は追い込みなんでしょう。よく、東京へ舞い戻る暇があったわね」
「ふん、相手役の女優さん待ちでね、今日一ん日だけ空いたんだよ。今夜、又、飛行機で帰るんだ。羽田発八時二十分さ」
寛は小鼻をくしゃくしゃにして微笑した。
「そんな無理して……海東先生のお焼香に来る心算《つもり》だったのね」
今でこそT・S映画の若手人気俳優だが、生まれはれっきとした梨園《りえん》の御曹子《おんぞうし》、つまり東京の歌舞伎《かぶき》では当代一の荒事《あらごと》の名人と言われている尾上勘喜郎の次男なのだから邦楽畑とは縁も深い筈《はず》だ。能条寛は灰皿へ手を伸ばしながら八千代を眺めた。
「どうして俺《おれ》が海東なんかの葬式に出なきゃならないのさ。俺《おれ》の三味線の師匠《ししよう》というじゃなし……そうだなあ親父《おやじ》はとにかく俺は彼と直接、逢《あ》った事もないんだぜ」
「あら、寛は海東先生と面識はないの」
「残念ながら一度も……だって彼は歌舞伎の舞台で三味線弾いてるわけでもないし、いわば邦楽界を足蹴《あしげ》にし、妙てけれんな新曲ばかし作った奴《やつ》だもの、やっちゃんみたいな新しがりの舞踊家さん達ならいざ知らず、俺には有難くも、忝《かたじ》けなくもない存在だからねえ」
「どうせ、そうでしょうよ。封建的な歌舞伎《かぶき》の世界でお育ちになった方に、海東先生の新しさが御理解出来る筈《はず》はありませんものね」
自分のにだけ茶を注いだ湯呑を両掌《りようて》に包んで八千代はつんとそっぽを向いて又、言った。
「じゃ、どうして飛行機なんかでとんで帰って来たの」
「逢《あ》いたくなったからさ」
「誰《だれ》に……」
「炬燵《こたつ》の向こう側でツンケンしているお嬢さんのお顔を拝見しようと存じまして……」
「寛……」
八千代は下唇を存分に突き出した。
「そういう事は貴方《あなた》の後援会で、きゃあきゃあ騒いでる女の子に向かって言うものよ。お門違いでしょう……」
「実はね……」
寛は煙草をもみ消して、ふっと真顔になった。
「どうしても君に直接、聞いてみたい事があったんだよ」
聞いてみたい事がある、と寛が言ったとたんに八千代の顔に或《あ》る種の変化が起こった。彼女は無意識に笑い出し、慌《あわ》てたように口早やな喋《しやべ》り方をはじめた。
「なによ、今更、怖《こわ》い顔なんかして……それよか八千代も貴方に重要な話があったのよ。実はね、今、告別式を済ませて来た海東先生の一件なんだけど……」
「修善寺で酒飲んで、風呂ん中で心臓|麻痺《まひ》の話かい。そんなら京都で新聞を五、六枚も読んだから、とうの昔に御存知さ……」
「まるっきり興味ないの」
「ああ」
「本当にないのね」
「やけに拘《こだわ》るじゃないか、どうしたのさ」
寛は発車寸前、交通信号が赤に変わった時のタクシーの運転手みたいな不機嫌さで言った。
「いいわよ。聞きたくないもの、お聞かせは致しません」
「又、怒る。悪い癖だよ。なんかって言うとすぐプンプクリンのプン。たまに逢《あ》っても話がまるで進みゃあしない」
「だって、寛が意地悪ばっかり言うんだもの」
「まあ、いいよ。お話しよ。聞くからさ」
譲歩は毎度の事である。寛は止むを得ず新しい煙草に手を伸ばした。すかさず八千代がぱっとライターを点《つ》ける。御機嫌が治った証拠だ。
「新聞で読んだのなら、詳しい事は省《はぶ》くわ。寛の記憶にある海東先生急死の事件の注釈だと思って聞いてちょうだい」
八千代は急須《きゆうす》に湯を注ぎ、寛の前の客|茶碗《ぢやわん》を取り上げた。
「笑っちゃあ駄目よ。私は海東先生の死因がね、ただお酒のんでお風呂《ふろ》へ入って心臓ショックで死んだだけじゃないような気がするのよ。なんだか、もう一つ奥があるように思えてならないんだけど……」
寛は口許にあいまいな微笑を噛《か》みしめた。
「すると、やっちゃんは海東英次の死が突発的な自然死によるものじゃない、と言うのかい」
「そうなのよ」
「そう考える理由があるのかい。なにか証拠になるような物とか、死の前の海東氏の言動とか……」
「なんにもないのよ」
八千代は大|真面目《まじめ》で首をふった。
「私の勘なのよ。勘だけなんで困ってるんだ」
「勘ねえ……」
煙草の煙と一緒に笑いを吐き出して、寛は頭に手をやった。
「笑うんなら、お笑いなさいよ。八千代には絶対、自信があるんだ。海東英次先生は殺された。あれは誰《だれ》かの、或《あ》る手段による過失死と見せかけた他殺なのよ。私、その鍵《かぎ》を握っているの」
結局、能条寛は夕飯を「浜の家」の茶の間で済ませ、その儘《まま》、八千代に送られて羽田へ向かう事になった。
「とうとう、青山のお家はお見限りね」
タクシーが動き出すと八千代は夜の町へ視線を投げて呟《つぶや》いた。
「折角、忙しい思いをして東京へ戻っていらしたのに、歌舞伎《かぶき》座のお父様の楽屋にも、青山の御自宅にもお顔を見せないなんて、若旦那も案外親不孝者なんですね」
と、浜の家の玄関を出がけに、母親が笑った言葉の反芻《はんすう》の心算《つもり》である。
「なあに、親孝行は兄貴夫婦におまかせさ。次男坊ってのは、その点、気軽なもんだ」
それでも東京タワーの赤い灯に、なつかし気な眼を向けてから寛は懐中に手を入れた。細長い袱紗《ふくさ》包を取り出して膝《ひざ》の上で拡げた。扇子袋である。八千代が帯地の残りで作ったらしいその袋の紐《ひも》を解く。骨も地紙も黒一色の扇子であった。
「今更、この扇から指紋も取れないだろうしな。やっちゃんの推理は、ちょっとばかりおぼつかない気がするよ」
なにか言いかける八千代を制して、寛は苦笑した。
「そりゃあ、海東先生の死体が浮んだ風呂《ふろ》場の脱衣棚に、こんな真黒な扇があったという情景は、確かに意味あり気だし、ドラマティックに違いない。やっちゃんみたいな推理狂には殊更、刺激的な材料さ。まあ、いいよ。けど、世の中ってもんは映画の筋書みたいなわけには行かないし……偶然って事もある……」
「でも、寛、だから、私はこのお扇子を最初はそんなに意味深長には考えなかったわ。踊りの会員の忘年会ですもの。あの日は夕食前に軽い温習《おさらい》会みたいな事をして、小唄《こうた》振りばかりだけれど、茜流の弟子はみんな一通り踊らされたのよ。だから扇を持って行くのは当り前でしょ。はじめは誰《だれ》かが忘れてったのだと思って一人一人に訊《き》いてみたの。でも持ち主はなかったわ。勿論《もちろん》、笹屋旅館でも一応はその晩の泊まり客に訊いてくれた筈《はず》よ。該当《がいとう》者はやっぱりなかったのよ」
「それで君、猫ババして来たのかい」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。帰りの汽車の中でもう一度、うちのお弟子さん連に尋ねてみる心算《つもり》だったんだわ。けど、考えれば考える程、妙な気持になってね。だって骨も地紙も真黒けなんて扇子、私、まだ見た事がなかったわ。無地の扇はあるけど、黒一色なんて、そんな不吉な感じの扇を踊りに使う筈《はず》ないでしょう」
「そりゃそうだ。まさか芝居の黒子《くろこ》が扇に化けたわけじゃあるまい」
さばさばと笑った寛の、見かけよりはかなり厚い肩を八千代はいやという程ひっぱたいた。
能条寛と浜八千代を乗せたタクシーは品川を過ぎ、鈴ヶ森刑場跡辺りを走っていた。昼間なら道の脇《わき》に「一切業障海皆従妄想生」と刻んだドクロ塚が見える筈だが、暗い路上では見当もつけにくい。
「鈴ヶ森といえば、今月の歌舞伎《かぶき》座で音羽屋の小父さん、長兵衛を演《や》っているんじゃないの」
八千代は車の窓から黒い木蔭を鈴ケ森跡と見て呟《つぶや》いた。
「身は住みなれし隅田川、流れ渡りの気散じは、江戸で名高けェ花川戸、藪《やぶ》うぐいすの京育ち、吉原|雀《すずめ》を羽がいにつけ、江戸で男と立てられた男の中の男一|疋《ぴき》、幡随院《ばんずいいん》の長兵衛という、ケチな野郎でごぜェやす、か、親父、今頃《いまごろ》いい御機嫌で演《や》ってるぜ」
「なによ、見もしないくせに……」
八千代は、芝居の「鈴ヶ森」の幡随院長兵衛の有名な台詞《せりふ》をすらすらっと口に出した能条寛の横顔をそっと盗み見た。やっぱりお玉じゃくしは蛙《かえる》の子だと思う。
「おとなしく歌舞伎の世界におさまってりゃあ、今頃は音羽屋の御曹子《おんぞうし》で、鈴ヶ森の芝居なら親子で長兵衛、権八《ごんぱち》を演れるのに、寛も物好きな人ね」
実際、伝統とか家柄とかを重んじる歌舞伎《かぶき》の社会では、音羽屋という由緒《ゆいしよ》ある俳優の家に次男坊として生まれながら、K大学の経済学部に入学したのはまだしも、新聞記者を志し、剣道と乗馬に凝って地上であばれているのに飽き足らず、遂にグライダー部へ入って学部三年の時にはA新聞主催の全日本滑空選手権大会に出場して上級滑空部門に優勝した。当時の新聞に�梨園《りえん》の御曹子、空を飛ぶ�などと大きく騒がれもした能条寛は一種の異端児扱いをされている。それが縁で、在学中にT・S映画で製作したグライダーの選手を主人公とした活劇ドラマに主演としてスカウトされ、一躍、現代劇にも時代劇にも向くマスクと天性の演技力で、若手映画俳優ナンバーワンにのし上がってしまった。
「おかげでさ、K大は卒業しそこねたし、ジャーナリストにもなりそびれちまって……」
と当人は苦笑するのだが、それでも芸能界の水が肌に合うのか、結構、今の仕事をエンジョイしている風に見える。
彼の母親と浜八千代の母の時江とが清元の稽古《けいこ》友達で、姉妹のような親しさだったから、音羽屋一家と「浜の家」とは歌舞伎《かぶき》俳優と料亭というつながりだけではなく、むしろ親類のような交際が昔から続いている。寛と八千代はいわば幼な馴染《なじみ》であった。年齢は寛の方が一つ上の二十五歳。だから、なにかにつけて寛が兄貴ぶる。それがまた、勝気な八千代には癪《しやく》にさわってたまらないらしい。
「年上だ、年長者だって二言目にはふりまわすけど、本当はたった十一か月先に生まれただけの事じゃないの」
と言う八千代は三月生れ、寛は四月一日、つまり現代風に言うとエイプリルフール(四月馬鹿)が誕生日なのである。
羽田空港入口の検問所の手前には、しゃれた航空会社や電気会社のネオンが鮮やかに浮き上がって見えた。
ターミナルビルへ続く長い道路には海から吹いてくる風が潮の香を漂わせている。
夜の飛行場は宝石箱をひっくり返したように、カバ色、水色、赤などのライトが点々と散らばっていた。
八千代は此処《ここ》の夜景が好きだった。寛を送って来たのも、それを眺める魅力からだと、彼女自身は思っている。
タクシーの止まった所で、寛は白い大きなマスクをかけた。
「夜だから、大抵、大丈夫だけれどね」
人気稼業とは言っても無鉄砲なファンと事あれかしなマスコミの眼はなるべく避けたいのが人情だし、若い女性の見送りというのも見る人が見ればゴシップの好材料である。
「フィンガーまで見送るつもりだったけど、ここから帰るわ。どうせ、飛行機はあっという間のお別れだし、一つもロマンティックじゃあないから……」
八千代はさばさばと笑って言った。彼の立場に対する遠慮でもある。
「寒い時だから、身体に気をつけて、あんまり無理をしないでね。撮影が済んだら大阪なんかで遊んでないで、今度こそ親孝行に早くお帰り遊ばせ」
「ああ、クリスマスまでにはなんとか帰れると思うんだ。じゃ、これ、あずかっとくぜ」
膝《ひざ》の上の扇子《せんす》袋を懐中におさめ、寛はゆっくりとタクシーから下りた。荷物嫌いだから、無論、週刊誌一冊持つわけではない。
「じゃあ、君も気をつけてお帰り……」
軽く手を上げてロビーへ入って行く角|外套《がいとう》の後姿を八千代はタクシーのガラス窓から眺めた。多少、意識しているらしい背が淋《さび》しげである。
「青山の家へ帰らなかった事を、後悔してるのかしら……」
一日きりの休暇で東京へ戻って来ながら、両親に顔を見せなかったという彼の行動にはなんとなく責任の分け前を感じて、八千代は気が重くなった。
その時、八千代の乗っているタクシーの前方に、新しい高級車がすべり込んで来た。
「あら……」
うやうやしく運転手が開けたドアから和服の裾《すそ》さばきも鮮やかに下り立った長身の女性の、豪華なミンクのコートに見憶《みおぼ》えがあった。続いてでっぷりした紳士が悠々とロビーへ消えた。
(ますみ先生と、あれは確か大東銀行の頭取の岩谷とかいうんだわ……)
寄り添ってロビーに入って行った男女の姿が、若い八千代には不快だった。
(海東先生の告別式の済んだ夜だというのに)
茜ますみと歿《な》くなった海東英次との仲が人の噂《うわさ》だけでないのを、八千代は知っている。
再びタクシーに揺られて空港の検問所を出た時、八千代はふと昼間、能条寛が、
「是非、君に直接、聞きたい事がある……」
と言ったのを思い出した。その彼は既に機上の人である。八千代はクッションにもたれて遠ざかる空港の灯をみつめた。
家族専用の裏玄関を入った所で、出迎えた女中のきよに塩を軽くふってもらって、浜八千代はそそくさと草履《ぞうり》を脱いだ。その沓脱《くつぬぎ》に見馴《みな》れた皮緒の男草履が一足。
「あら、音羽屋の小父《おじ》さん、来てるの」
「はあ、ほんの今しがた。お茶の間です」
答えた女中の顔がなんとなく笑っている。八千代は片眼をつぶって見せた。
「歌舞伎座《かぶきざ》は確か三日が初日だったわね」
「はい」
きよは視線を廊下へ落とす。
「音羽屋の小父さんは今月の忠臣蔵の通し狂言で、持ち役は師直《もろなお》と道行の勘平《かんぺい》と、夜は五段目で切腹する迄《まで》、体は空かない筈《はず》でしょう」
八千代は勝ち誇ったように茶の間の白い障子を眺めた。意識した声の高さは、その閉った障子の向こうに坐《すわ》っている人間に聞かせる心算《つもり》である。
「ええと、今の時間は、ちょうど三時が四十分過ぎ。音羽屋の小父さんなら真っ白にお化粧して、延寿太夫の美声でいい御機嫌《ごきげん》のお軽《かる》勘平道行を踊ってる時間じゃないの。�男の花道�の劇中劇じゃあるまいし、舞台最中に当代随一の人気俳優、尾上勘喜郎が浜の家へかけつけてくる理由がないわね」
「いけませんよ。うちのお嬢さんはお頭《つむ》が特別あつらえなんですからね。音羽屋の坊ちゃん、いい加減にお顔を出して下さいまし」
きよは塩壺《しおつぼ》を抱えた儘《まま》、障子の向こうへ捨て台詞《ぜりふ》を残して台所へ逃げこんでしまった。
それでも障子の内はふん切り悪く静まりかえっている。
「思い切りの悪い人ね。とっとと正体を見せたらどうなの」
さらりと障子を開けて八千代は当てがはずれた顔になった。朱《あか》い絞りの布団をかけた炬燵《こたつ》の上に週刊誌が一冊、拡げたなりに置いてあるが茶の間には人の気配もない。
「あら……」
ふっと戸惑って立ちすくんでいる八千代の頭上から、
「お帰りなさい。浜の家の女流探偵どの」
さわやかに声が笑って、守宮《やもり》みたいに鴨居《かもい》へはりついていた五尺六寸、十五貫が音もなく畳へとび下りた。埃《ほこり》も立たない、猿のような身ごなしである。
「海東先生の告別式の模様はどうだったのさ。ぽかんとしてないで、まあお坐《すわ》りよ。外は寒かっただろう……」
|能条 寛《のうじようひろし》は、男にしては端麗すぎる横顔を八千代へ向けて、紬《つむぎ》の羽織の裾《すそ》を軽くはねると我が家のような気楽さで、さっさと炬燵《こたつ》へ足を入れた。
狭い庭をへだてた調理場の辺りでにぎやかな笑い声が聞こえる。銀座の料理屋はそろそろ客のたてこんでくる時刻なのだろう。
八千代はガラス戸越しにちらと調理場の方を眺め、それから茶の間へ入って障子を閉めた。
古風な桑《くわ》の長火鉢の前へすわって新しく茶の仕度を始める。
「いつ、京都から帰って来たの」
上眼づかいに能条寛の横顔を見た。
「たった今、羽田から真っ直ぐに浜の家へ御到着さ」
「暮だから撮影は追い込みなんでしょう。よく、東京へ舞い戻る暇があったわね」
「ふん、相手役の女優さん待ちでね、今日一ん日だけ空いたんだよ。今夜、又、飛行機で帰るんだ。羽田発八時二十分さ」
寛は小鼻をくしゃくしゃにして微笑した。
「そんな無理して……海東先生のお焼香に来る心算《つもり》だったのね」
今でこそT・S映画の若手人気俳優だが、生まれはれっきとした梨園《りえん》の御曹子《おんぞうし》、つまり東京の歌舞伎《かぶき》では当代一の荒事《あらごと》の名人と言われている尾上勘喜郎の次男なのだから邦楽畑とは縁も深い筈《はず》だ。能条寛は灰皿へ手を伸ばしながら八千代を眺めた。
「どうして俺《おれ》が海東なんかの葬式に出なきゃならないのさ。俺《おれ》の三味線の師匠《ししよう》というじゃなし……そうだなあ親父《おやじ》はとにかく俺は彼と直接、逢《あ》った事もないんだぜ」
「あら、寛は海東先生と面識はないの」
「残念ながら一度も……だって彼は歌舞伎の舞台で三味線弾いてるわけでもないし、いわば邦楽界を足蹴《あしげ》にし、妙てけれんな新曲ばかし作った奴《やつ》だもの、やっちゃんみたいな新しがりの舞踊家さん達ならいざ知らず、俺には有難くも、忝《かたじ》けなくもない存在だからねえ」
「どうせ、そうでしょうよ。封建的な歌舞伎《かぶき》の世界でお育ちになった方に、海東先生の新しさが御理解出来る筈《はず》はありませんものね」
自分のにだけ茶を注いだ湯呑を両掌《りようて》に包んで八千代はつんとそっぽを向いて又、言った。
「じゃ、どうして飛行機なんかでとんで帰って来たの」
「逢《あ》いたくなったからさ」
「誰《だれ》に……」
「炬燵《こたつ》の向こう側でツンケンしているお嬢さんのお顔を拝見しようと存じまして……」
「寛……」
八千代は下唇を存分に突き出した。
「そういう事は貴方《あなた》の後援会で、きゃあきゃあ騒いでる女の子に向かって言うものよ。お門違いでしょう……」
「実はね……」
寛は煙草をもみ消して、ふっと真顔になった。
「どうしても君に直接、聞いてみたい事があったんだよ」
聞いてみたい事がある、と寛が言ったとたんに八千代の顔に或《あ》る種の変化が起こった。彼女は無意識に笑い出し、慌《あわ》てたように口早やな喋《しやべ》り方をはじめた。
「なによ、今更、怖《こわ》い顔なんかして……それよか八千代も貴方に重要な話があったのよ。実はね、今、告別式を済ませて来た海東先生の一件なんだけど……」
「修善寺で酒飲んで、風呂ん中で心臓|麻痺《まひ》の話かい。そんなら京都で新聞を五、六枚も読んだから、とうの昔に御存知さ……」
「まるっきり興味ないの」
「ああ」
「本当にないのね」
「やけに拘《こだわ》るじゃないか、どうしたのさ」
寛は発車寸前、交通信号が赤に変わった時のタクシーの運転手みたいな不機嫌さで言った。
「いいわよ。聞きたくないもの、お聞かせは致しません」
「又、怒る。悪い癖だよ。なんかって言うとすぐプンプクリンのプン。たまに逢《あ》っても話がまるで進みゃあしない」
「だって、寛が意地悪ばっかり言うんだもの」
「まあ、いいよ。お話しよ。聞くからさ」
譲歩は毎度の事である。寛は止むを得ず新しい煙草に手を伸ばした。すかさず八千代がぱっとライターを点《つ》ける。御機嫌が治った証拠だ。
「新聞で読んだのなら、詳しい事は省《はぶ》くわ。寛の記憶にある海東先生急死の事件の注釈だと思って聞いてちょうだい」
八千代は急須《きゆうす》に湯を注ぎ、寛の前の客|茶碗《ぢやわん》を取り上げた。
「笑っちゃあ駄目よ。私は海東先生の死因がね、ただお酒のんでお風呂《ふろ》へ入って心臓ショックで死んだだけじゃないような気がするのよ。なんだか、もう一つ奥があるように思えてならないんだけど……」
寛は口許にあいまいな微笑を噛《か》みしめた。
「すると、やっちゃんは海東英次の死が突発的な自然死によるものじゃない、と言うのかい」
「そうなのよ」
「そう考える理由があるのかい。なにか証拠になるような物とか、死の前の海東氏の言動とか……」
「なんにもないのよ」
八千代は大|真面目《まじめ》で首をふった。
「私の勘なのよ。勘だけなんで困ってるんだ」
「勘ねえ……」
煙草の煙と一緒に笑いを吐き出して、寛は頭に手をやった。
「笑うんなら、お笑いなさいよ。八千代には絶対、自信があるんだ。海東英次先生は殺された。あれは誰《だれ》かの、或《あ》る手段による過失死と見せかけた他殺なのよ。私、その鍵《かぎ》を握っているの」
結局、能条寛は夕飯を「浜の家」の茶の間で済ませ、その儘《まま》、八千代に送られて羽田へ向かう事になった。
「とうとう、青山のお家はお見限りね」
タクシーが動き出すと八千代は夜の町へ視線を投げて呟《つぶや》いた。
「折角、忙しい思いをして東京へ戻っていらしたのに、歌舞伎《かぶき》座のお父様の楽屋にも、青山の御自宅にもお顔を見せないなんて、若旦那も案外親不孝者なんですね」
と、浜の家の玄関を出がけに、母親が笑った言葉の反芻《はんすう》の心算《つもり》である。
「なあに、親孝行は兄貴夫婦におまかせさ。次男坊ってのは、その点、気軽なもんだ」
それでも東京タワーの赤い灯に、なつかし気な眼を向けてから寛は懐中に手を入れた。細長い袱紗《ふくさ》包を取り出して膝《ひざ》の上で拡げた。扇子袋である。八千代が帯地の残りで作ったらしいその袋の紐《ひも》を解く。骨も地紙も黒一色の扇子であった。
「今更、この扇から指紋も取れないだろうしな。やっちゃんの推理は、ちょっとばかりおぼつかない気がするよ」
なにか言いかける八千代を制して、寛は苦笑した。
「そりゃあ、海東先生の死体が浮んだ風呂《ふろ》場の脱衣棚に、こんな真黒な扇があったという情景は、確かに意味あり気だし、ドラマティックに違いない。やっちゃんみたいな推理狂には殊更、刺激的な材料さ。まあ、いいよ。けど、世の中ってもんは映画の筋書みたいなわけには行かないし……偶然って事もある……」
「でも、寛、だから、私はこのお扇子を最初はそんなに意味深長には考えなかったわ。踊りの会員の忘年会ですもの。あの日は夕食前に軽い温習《おさらい》会みたいな事をして、小唄《こうた》振りばかりだけれど、茜流の弟子はみんな一通り踊らされたのよ。だから扇を持って行くのは当り前でしょ。はじめは誰《だれ》かが忘れてったのだと思って一人一人に訊《き》いてみたの。でも持ち主はなかったわ。勿論《もちろん》、笹屋旅館でも一応はその晩の泊まり客に訊いてくれた筈《はず》よ。該当《がいとう》者はやっぱりなかったのよ」
「それで君、猫ババして来たのかい」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。帰りの汽車の中でもう一度、うちのお弟子さん連に尋ねてみる心算《つもり》だったんだわ。けど、考えれば考える程、妙な気持になってね。だって骨も地紙も真黒けなんて扇子、私、まだ見た事がなかったわ。無地の扇はあるけど、黒一色なんて、そんな不吉な感じの扇を踊りに使う筈《はず》ないでしょう」
「そりゃそうだ。まさか芝居の黒子《くろこ》が扇に化けたわけじゃあるまい」
さばさばと笑った寛の、見かけよりはかなり厚い肩を八千代はいやという程ひっぱたいた。
能条寛と浜八千代を乗せたタクシーは品川を過ぎ、鈴ヶ森刑場跡辺りを走っていた。昼間なら道の脇《わき》に「一切業障海皆従妄想生」と刻んだドクロ塚が見える筈だが、暗い路上では見当もつけにくい。
「鈴ヶ森といえば、今月の歌舞伎《かぶき》座で音羽屋の小父さん、長兵衛を演《や》っているんじゃないの」
八千代は車の窓から黒い木蔭を鈴ケ森跡と見て呟《つぶや》いた。
「身は住みなれし隅田川、流れ渡りの気散じは、江戸で名高けェ花川戸、藪《やぶ》うぐいすの京育ち、吉原|雀《すずめ》を羽がいにつけ、江戸で男と立てられた男の中の男一|疋《ぴき》、幡随院《ばんずいいん》の長兵衛という、ケチな野郎でごぜェやす、か、親父、今頃《いまごろ》いい御機嫌で演《や》ってるぜ」
「なによ、見もしないくせに……」
八千代は、芝居の「鈴ヶ森」の幡随院長兵衛の有名な台詞《せりふ》をすらすらっと口に出した能条寛の横顔をそっと盗み見た。やっぱりお玉じゃくしは蛙《かえる》の子だと思う。
「おとなしく歌舞伎の世界におさまってりゃあ、今頃は音羽屋の御曹子《おんぞうし》で、鈴ヶ森の芝居なら親子で長兵衛、権八《ごんぱち》を演れるのに、寛も物好きな人ね」
実際、伝統とか家柄とかを重んじる歌舞伎《かぶき》の社会では、音羽屋という由緒《ゆいしよ》ある俳優の家に次男坊として生まれながら、K大学の経済学部に入学したのはまだしも、新聞記者を志し、剣道と乗馬に凝って地上であばれているのに飽き足らず、遂にグライダー部へ入って学部三年の時にはA新聞主催の全日本滑空選手権大会に出場して上級滑空部門に優勝した。当時の新聞に�梨園《りえん》の御曹子、空を飛ぶ�などと大きく騒がれもした能条寛は一種の異端児扱いをされている。それが縁で、在学中にT・S映画で製作したグライダーの選手を主人公とした活劇ドラマに主演としてスカウトされ、一躍、現代劇にも時代劇にも向くマスクと天性の演技力で、若手映画俳優ナンバーワンにのし上がってしまった。
「おかげでさ、K大は卒業しそこねたし、ジャーナリストにもなりそびれちまって……」
と当人は苦笑するのだが、それでも芸能界の水が肌に合うのか、結構、今の仕事をエンジョイしている風に見える。
彼の母親と浜八千代の母の時江とが清元の稽古《けいこ》友達で、姉妹のような親しさだったから、音羽屋一家と「浜の家」とは歌舞伎《かぶき》俳優と料亭というつながりだけではなく、むしろ親類のような交際が昔から続いている。寛と八千代はいわば幼な馴染《なじみ》であった。年齢は寛の方が一つ上の二十五歳。だから、なにかにつけて寛が兄貴ぶる。それがまた、勝気な八千代には癪《しやく》にさわってたまらないらしい。
「年上だ、年長者だって二言目にはふりまわすけど、本当はたった十一か月先に生まれただけの事じゃないの」
と言う八千代は三月生れ、寛は四月一日、つまり現代風に言うとエイプリルフール(四月馬鹿)が誕生日なのである。
羽田空港入口の検問所の手前には、しゃれた航空会社や電気会社のネオンが鮮やかに浮き上がって見えた。
ターミナルビルへ続く長い道路には海から吹いてくる風が潮の香を漂わせている。
夜の飛行場は宝石箱をひっくり返したように、カバ色、水色、赤などのライトが点々と散らばっていた。
八千代は此処《ここ》の夜景が好きだった。寛を送って来たのも、それを眺める魅力からだと、彼女自身は思っている。
タクシーの止まった所で、寛は白い大きなマスクをかけた。
「夜だから、大抵、大丈夫だけれどね」
人気稼業とは言っても無鉄砲なファンと事あれかしなマスコミの眼はなるべく避けたいのが人情だし、若い女性の見送りというのも見る人が見ればゴシップの好材料である。
「フィンガーまで見送るつもりだったけど、ここから帰るわ。どうせ、飛行機はあっという間のお別れだし、一つもロマンティックじゃあないから……」
八千代はさばさばと笑って言った。彼の立場に対する遠慮でもある。
「寒い時だから、身体に気をつけて、あんまり無理をしないでね。撮影が済んだら大阪なんかで遊んでないで、今度こそ親孝行に早くお帰り遊ばせ」
「ああ、クリスマスまでにはなんとか帰れると思うんだ。じゃ、これ、あずかっとくぜ」
膝《ひざ》の上の扇子《せんす》袋を懐中におさめ、寛はゆっくりとタクシーから下りた。荷物嫌いだから、無論、週刊誌一冊持つわけではない。
「じゃあ、君も気をつけてお帰り……」
軽く手を上げてロビーへ入って行く角|外套《がいとう》の後姿を八千代はタクシーのガラス窓から眺めた。多少、意識しているらしい背が淋《さび》しげである。
「青山の家へ帰らなかった事を、後悔してるのかしら……」
一日きりの休暇で東京へ戻って来ながら、両親に顔を見せなかったという彼の行動にはなんとなく責任の分け前を感じて、八千代は気が重くなった。
その時、八千代の乗っているタクシーの前方に、新しい高級車がすべり込んで来た。
「あら……」
うやうやしく運転手が開けたドアから和服の裾《すそ》さばきも鮮やかに下り立った長身の女性の、豪華なミンクのコートに見憶《みおぼ》えがあった。続いてでっぷりした紳士が悠々とロビーへ消えた。
(ますみ先生と、あれは確か大東銀行の頭取の岩谷とかいうんだわ……)
寄り添ってロビーに入って行った男女の姿が、若い八千代には不快だった。
(海東先生の告別式の済んだ夜だというのに)
茜ますみと歿《な》くなった海東英次との仲が人の噂《うわさ》だけでないのを、八千代は知っている。
再びタクシーに揺られて空港の検問所を出た時、八千代はふと昼間、能条寛が、
「是非、君に直接、聞きたい事がある……」
と言ったのを思い出した。その彼は既に機上の人である。八千代はクッションにもたれて遠ざかる空港の灯をみつめた。