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黒い扇03

时间: 2019-12-08    进入日语论坛
核心提示:ホテルにてSホテルのフロントで部屋の鍵《かぎ》を受け取って、能条寛は習慣的にエレベーターへ向けて歩き出した足をふと止めた
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ホテルにて

Sホテルのフロントで部屋の鍵《かぎ》を受け取って、能条寛は習慣的にエレベーターへ向けて歩き出した足をふと止めた。
ロビーのソファにひっそりと坐《すわ》っていた若い女が静かに立ち上がって会釈をしたものである。矢絣《やがすり》に赤の染め帯という古風な服装が面長な容貌《ようぼう》にふさわしい。
「ああ、茜ますみさんの所の……。たしか岸田久子さんでしたね」
寛は気さくに微笑した。浜八千代に温習会の楽屋で紹介された記憶がある。
「大阪に出稽古《でげいこ》ですか」
八千代から、ますみ先生の内弟子さんの中では一番実力者だし、先生の信用も厚くてよく地方への出張稽古にも出かけるのだ、と聞かされていたのを思い出しながら寛は何気なく訊《き》いた。
「はい。ますみ先生のお供で……」
久子は柔らかな声で応じた。
「能条さんは、××劇場へご出演中なのでございましょう。お正月早々大変でございますのね」
「ええ、貧乏暇なしという奴《やつ》で、とうとう旅先でクリスマスも正月も送っちまいましたよ。正月はとにかく元日から××劇場の舞台出演が七草まで定まっていたもんですからね。とても東京でお雑煮は食えないと覚悟してたんだけど、クリスマスだけは帰れる心算《つもり》だったんですよ」
八千代を誘って、せめてクリスマスの夜は東京でと計画していた寛の期待にもかかわらず、二十三日中には終わる予定の撮影が狂って大晦日《おおみそか》の午後に漸《ようや》くクランクアップという始末だった。それも人気稼業だから是非もない。
「やっぱり長い事、離れていらっしゃると東京がおなつかしゅうございましょう」
「ええ、まあ……」
寛は相手の語感になんとなく照れた。言葉の上では(東京)とぼかして言っているが、久子は明らかに(八千代)を意識している。
「大阪へはいついらっしゃったんです?」
「今日のハトでございます。それから真っ直ぐこちらへ……」
寛はさりげなく腕時計を覗《のぞ》いた。十時半に近い。東京発十二時三十分の特別急行ハト号は夜の八時に大阪駅に着く。駅からこのSホテルまではタクシーで十分とかからない。
すると久子はなんのためにこんな時間までロビーで愚図《ぐず》愚図しているのだろう。本当なら、とっくに個室でシャワーでも浴び、くつろいでいるべきなのだ。
「誰方《どなた》か、お待ちになっているんですか」
そうとしか考えようがなかった。ホテル住まいに不馴《ふな》れな久子ではあるまい。茜ますみがこのホテルを定宿にしている事は八千代から聞いて寛も知っている。とすれば内弟子の久子にして既に何回となくこのホテルを利用しているに違いない。
久子は曖昧《あいまい》に笑った。
「いえ、そうではないのですけれど……」
そっと視線をはずして低く言った。
「お部屋にお客様なものですから……」
怪訝《けげん》な表情になった寛へ、更に弁解がましくつけ加えた。
「いつもはますみ先生と私と、一人部屋を二つ予約しておくのですけれど、今度は生憎《あいにく》と明後日まで一人部屋が満員なので、二人用一部屋へ泊まっておりますの。今夜はちょっとこみ入ったお話のあるお客様が見えてますので、私、御遠慮して……」
「そうですか。そりゃあ……」
表面は納得の行った合点をして見せたが、寛は可笑《おか》しな話だと思った。
ホテルではロビーと呼んでいるこのソファの置いてある広間を泊まり客の訪問客との応接用に当てている。ホテルの部屋は寝室なのだからそこへ客を通すのは常識に欠ける。原則としても「来客との御面談はロビーにて願います」と一流のホテルなら規定している。
SホテルはGホテルと並んで大阪では名の通ったホテルである。どれ程、内密な話をしなければならないのかは知らないが、このロビーはちょっとした中世紀の西洋のお城の大広間くらいの面積があるし、時間も遅い事だから他に会談している客の姿は一人もいなかった。
それとも、一階のロビーはホテルの入口を入った正面だから、ホテルへ帰ってくる泊まり客の目に触れるのを嫌うというのなら、二階のロビーを使用すればよいのだ。二階なら、それこそ人っ子一人通らないから眼も耳も怖れる必要がない。
(どういう事情か知らないが、こんな夜更けに内弟子をロビーへ遠ざけてまで部屋へ客を入れるなどとは……)
非常識も甚だしい、と寛は他人事ながら不快だった。
客が女性ならばまだしも……。
久子に訊《たず》ねたわけではないが、寛は直感的に茜ますみの客は男性のような気がした。違いないと思う。
「久子さんも、汽車で疲れていらっしゃるだろうに……夜遅くまでとんだ事ですね」
苦笑して寛はロビーのソファから腰を上げた。連日の舞台で疲れているし、自分の部屋へ落着いてゆっくりバスルームで湯につかりたくもあった。いつまでも久子につき合ってやる程の親切気は寛にないのだ。彼女には関心も愛情もない証拠である。
(これが八千代ちゃんなら十二時が一時でも一緒に坐《すわ》って話相手をしてやるだろう……)
八千代でないにしても、もう少し美人で魅力のある女性だったら……。寛はふと男のエゴイズムに可笑《おか》しくなった。相手がぎすぎすした三十女だという事で、寛はフェミニストでなくなっている。痩《や》せているわけでもないのに骨ばったからだつき、平凡で暗い感じのする容貌《ようぼう》。久子は男に「女」を感じさせない女だった。
岸田久子が特に不美人というわけではなかった。少なくとも醜女《しこめ》と言っては酷である。眼鼻立ちも尋常だし、口が小さいのと頬骨《ほおぼね》が少し張り気味なのが近代的でないと言う程度である。だが、とにかく特徴のない顔だった。個性を感じさせない。同時に色気もなかった。体全部に女らしい丸味がない。女の雰囲気が僅《わず》かに残っているのは柔らかな声である。柔らかな癖に底がひんやりと冷たい。
なにもかもが地味な女なのである。内弟子タイプとしては典型的だった。師匠に対しては絶対に忠実だし、周囲への当たりもやんわりしている。外見はおとなしく、ひかえ目だが、芯《しん》はしっかり者である。(俳優の付き人なんかによくあるタイプだ)
ロビーを出て、エレベーターへ近づきながら寛は思った。
もう勤務時間外なのでエレベーターガールの姿はない。その代りフロントからページボーイがとんで来てエレベーターの操作をしてくれた。
能条寛の部屋番号は三百六十一番、つまり三階の一人部屋である。
エレベーターを出た所にあるメード詰所にも人影はない。
ホテルという所は普通の旅館のように他の客と廊下ですれ違うという現象は殆《ほと》んどない。一つ一つ部屋ナンバーの出ている一枚のドアの向こうに個人が孤立している。偶然に入口で顔を合わせない限り、隣にどんな人間が泊まっているのかまるで見当がつかない。
赤い絨毯《じゆうたん》を敷きつめた廊下は暖房が程よく効いていて温かだったが、壁も並列したドアもひどくよそよそしい。この非情な雰囲気が寛は好きだった。鍵《かぎ》一つで外界を遮断出来るのも、番頭や女中の有難迷惑なサービスに悩まされる事のないのも寛がホテル贔屓《びいき》な理由だ。
部屋に入って寛が背広を脱ぎ煙草を一服すると、待っていたように卓上の電話が鳴った。受話器を取り上げると交換手が、
「京都からでございます」
という。
(撮影所からだろうか……?)
しかし、受話器を流れて来たのは細い女の声であった。
「もしもし、細川昌弥さんでしょうか……」
慌《あわただ》しげな調子である。
「いや、違いますが……」
「あの、細川昌弥さんではございませんので……」
「はあ違いますが……」
女の声は狼狽《ろうばい》して、失礼致しましたと、切った。寛は妙な顔で受話器を見た。
細川昌弥と言えば、寛と同じくT・S映画の専属俳優である。時代劇の若手スターとして、二、三年前に華々しくデビューしたのだが、最近は人気が下火だという噂《うわさ》もある。年齢はもう三十二、三歳になろう。二枚目スターとしてはそろそろ曲がり角なのである。
それにしてもホテルで電話が間違ってかかるというのは滅多にない事である。同じ映画俳優という事で交換手が勘違いをしたのか。
「細川昌弥君も、このホテルに泊まっているのかな……」
バスルームへ入ってお湯の栓《せん》をひねりながら、寛は呟《つぶや》いた。
「いや、そんな筈《はず》はない。彼は池見監督で、�疾風|烏組《からすぐみ》秘話�の撮影中だった。池見組は今週一杯セットのスケジュールだ」
京都の撮影所で仕事をしている彼が、わざわざ大阪のホテルに泊まってそこから通うとは思われない。
(やっぱり、なにかの間違いだろう……)
寛はソファに戻って再び煙草をくわえた。バスに湯が満たされるまでには多少の時間が要る。厚ぼったい布地のカーテンを引いた窓に近づくと、寛は左手で軽くカーテンを開けた。堂島のネオンが美しく散見される。反射的に東京の夜が想われた。寛は空いている右手でライターに火を点《つ》けた。もう一か月近くも東京の空気に触れていない。
(八千代ちゃんに羽田まで送ってもらったのは暮の九日だったが……)
暮から正月にかけて、銀座の一流|割烹《かつぽう》店である「浜の家」も、さぞかし忘年会、新年会と繁盛《はんじよう》しているに違いない。
(彼女も目下、御多忙中か……)
寛は煙草の煙をカーテンに吹きつけて苦っほろく一人笑いした。
「近頃《ちかごろ》は八千代が店の方の采配《さいはい》も振ってくれるもんですからね。おかげで大助かりなんですよ」
と言っていた彼女の母親の人の好さそうな顔が思い出された。
元旦の初日以来、九時過ぎに劇場が閉《は》ねても招待やら交際やらで十二時前にホテルへ帰れた日はない。たまに早く部屋へ戻ってくると、なんとなく時間をもて余すようだ。ふと、思いついて寛は受話器を取り上げた。交換手へ、
「東京を……」
浜の家の電話番号を告げてから寛はバスルームへ湯加減を見に行った。梨園《りえん》の御曹子《おんぞうし》として坊ちゃん育ちをした癖に割合、小まめなのは性分だった。学生時代、グライダー部の合宿などの経験も独身生活に役立っている。
ソファで待ったが電話はなかなかかかって来ない。普通なら東京大阪間は一分足らずで通じるわけだ。
寛は所在なげに窓枠へ寄った。Sホテルの建物はちょうどコの字なりになっているので空間をへだてて向かいの部屋の窓が見える。どの部屋も灯が消えているか、重くカーテンが下がっているのに、筋向いの一つの窓だけ光が洩《も》れていた。窓の半分がレースのカーテンだけしか引いていない。何気なくその窓へ視線が行って、寛はぎょっとした。黒い男女の影法師がもつれ合って、すぐに厚ぼったく一つに重なった。
 それから一週間ばかり経って、能条寛は週刊シネマのグラビア写真で大阪城へ出かけた。
週刊シネマの記者とカメラマンがSホテルへ寛を迎えに来たのが午前十時。寛は自動車の中で頻《しき》りとあくびを噛《か》み殺した。昨夜は後援会の交際《つきあ》いで最後に飲んだ曾根崎《そねざき》のマドンナというバアを引揚げたのが午前二時近かった筈《はず》だ。若い女の子ばかりの集まりだとその割りに閉会も早いし、せいぜい二次会と言った所で知れているが、中年以上の、いわゆるオバサマ族のファンは厄介だった。なまじ経済力があって、女の厚釜《あつかま》しさがむき出しになる年齢である。迂闊《うかつ》には御相手がつとまりかねた。能条寛の場合、映画へはいってからのファンは大むね若い男女、それもハイティーン、インテリ層と幅が広いのだが、歌舞伎《かぶき》の名門出身の素姓と、当代切っての人気役者、尾上勘喜郎の次男坊という背景から、いわゆる花街関係のファンも少なくなかった。殊に単なるスターの顔見せの御挨拶《あいさつ》興行でも舞台出演となると、こういう連中の肩入れが大きい。
「なんや言うたって音羽屋の坊ちゃんですさかいな」
楽屋への付け届け、総見《そうけん》、そして昨夜の招待と、若い寛には多少有難迷惑な事ばかりだが、それも父親との縁故を思えば無愛想な真似も出来ない。
「そういう事が嫌だから、俺《おれ》は芸界をとび出そうと考えたんだがなあ……」
大学を卒業したら新聞記者になろうと決心していたものが、いつのまにか蛙《かえる》の子で結局、父親と畑は違っても俳優とか芸能人とか呼ばれて今はそれほどの悔いもない。
寛は車の窓から冷たそうな舗道を眺めた。辺りは官庁の寄り集まっている所だけにビルの建物が多い。
「どうも朝っぱらからえらいすいませんなあ。お疲れのところを……」
週刊シネマの担当記者は盛んに恐縮している。相手が若手ナンバーワンの売れっ子スターだけに万が一、機嫌でも損じてはと気を遣っている様子だ。
「いや、午後からは舞台があるので午前中ならと指定したのは僕の方なんだから……」
寛は苦笑した。年齢からいえば親父ほどな相手から必要以上に腰を低くされるのは、彼にとって妙にくすぐったい、落ち着かない気分なものだ。
右手に大阪中央放送局の建物が見えて、車は大阪城を囲む公園の中へはいった。
カメラマンがあらかじめ構図として考えておいたらしい場所を指定する。
車を下りると朝の空気はひんやりと首筋にしみる。白とグレイのツィードの背広にチャコールグレイのズボン、ラフなネクタイという恰好《かつこう》で、寛は大阪城を仰ぐ位置に立った。
時間が早いのとウイークデーのせいもあって辺りに人影のないのが幸いだった。
うっかりハイティーンの目に触れようものなら忽《たちま》ち警官がかけつけねばならない程の混乱ぶりを呈するに違いないのだ。実際に現在寛が出演している劇場の楽屋口にはいつも若い女の子がうろうろしていて、余程タイミングよく自動車から楽屋へとび込まない限り、ネクタイは奪われる、背広はもみくちゃになるという馬鹿げた騒ぎになるのだ。
「なにしろ、能条さんの人気は強いですよ。今年の正月映画も完全にT・S映画の勝利でしたからねえ」
週刊シネマの記者はポーズしている能条寛へ半分はお世辞めかして言った。寛は苦笑して答えない。T・S映画で初春第一週に出した能条寛出演の活劇物が他社を圧倒したという情報は、とっくに寛の許へも知らされている。
「東京も凄《すご》い人気だったわよ。私なんてスラックスをはいてアノラックを着て、まるで山登りでもしそうな恰好《かつこう》で漸《ようや》く観て来たわよ。ええ、そう、銀座だけじゃないのよ。新宿も渋谷も浅草もT・S映画が最高の入りだったって新聞にも出てたわ。寛、おめでとう。だけど、あんまり女の子にもてるからってウヌボレないでね……」
先夜、東京の「浜の家」へ電話した時、浜八千代も正直にうれしそうな声で報告してくれたものだ。
「それはそうと、能条さんはご存知ですか、T・S映画の俳優さんの細川さんね。今度の契約切れを機会に大日映画へ移るらしいって話ですがねえ……」
「細川君というと、細川昌弥君の事ですか」
寛はカメラマンの注文で顔の角度を変えながら訊《き》いた。
「ええ、細川昌弥さんですよ」
「さあ、僕はなにも聞いてませんが……」
事実、寛は知らなかった。同じ会社の人間だが特に親しいわけでもないし、最初、現代劇専門だった寛が時代劇にも出演して好評を博してから、一年先輩の彼がなにかにつけてライバル意識を持っているらしいのも気がついていて、わざと当たらずさわらずの態度を取ってきていた。
「T・S映画じゃだいぶ問題になってるそうですよ。なにしろ細川さんはT・S社で売り出してもらった、いわば子飼いのスターですからね。恩知らずとか、背信行為だとか彼の世話をしてきた福田プロデューサーなんかカンカンになってましてね。無理もないですよ。大日映画と言えば、T・S映画とは宿敵みたいな間柄ですしね」
週刊シネマの記者は無責任に笑った。
「おまけに今度の細川さんの引き抜きには契約金の問題だけじゃなくて、女が絡んでいるという説があるんですよ」
「それ、週刊シネマの今週のトップなんじゃありませんか」
寛は多少、皮肉っぽく言った。人気スターという名で呼ばれる人間のプライベートな問題を一々ほじくり出しては大袈裟《おおげさ》に騒ぎ立てて記事にする。マスコミという機構がそうさせるので、目の前の記者個人の所為《せい》でも罪でもないと承知していながら、寛も被害者側だから、つい他人の事でも腹が立ってくる。
「もう少しネタが揃《そろ》えば扱いたいんですがね。残念ながらまだ噂《うわさ》の段階なんですよ。それに我が社の場合、映画関係の雑誌としては老舗《しにせ》ですからね。あまり根も葉もないゴシップなんか流すと後の仕事に差支えますし、信用問題ですから……ま、ここだけの話です。が、細川さんが大日映画へ食指を動かす気持は解りますね。彼の人気はここんところ、まるでぱっとしないし、いい作品にも恵まれない、人間落ち目になり出すとロクな事はありませんからね」
週刊シネマの記者は寛を細川昌弥のライバルという計算の上で喋《しやべ》っていた。彼の悪口を並べる事が能条寛に迎合するものと考えているらしい。
「全く、昨年の暮れから細川昌弥さんはツイていませんねえ、自動車事故はやらかすし、スキャンダルでは叩《たた》かれるし……」
カメラマンもフィルムを入れ替えながら相槌《あいづち》をうった。
細川昌弥のスキャンダルというのは寛も耳にしていた。酔っぱらい運転をしてトラックを避けそこない、歩道へのり上げて電柱に衝突した際、同乗していた女性の名が明るみに出た。りん子という芸者で、年齢は二十三。
「染子さんと同じ花街の妓《こ》なのよ。ええ、置家さんも染子さんと同じよ。染子さんが妹分みたいに可愛《かわい》がっててね。あんなドンファンのような男に惚《ほ》れちゃいけないって随分忠告したんだけど、まるで人の言うこと聞かないからこんな目に遇《あ》ったんだって、彼女もの凄《すご》くおカンムリよ。それでもせっせと病院通いして世話を焼いてるんだから染子さんて全く気のいい人でしょう。でも言ってたわよ。映画スターなんぞ、みんな薄情で、女たらしでダメだって……」
と、寛はそれも浜八千代からじかに聞いて、新聞や雑誌の記事がまるっきりのでたらめでなかったのに驚いたものだ。
おまけにその事故で運転していた当人の細川昌弥は奇跡的にかすり傷一つ負わなかったのに、助手席にいたりん子の方は顔面及び手足、腰にかなりの重傷を受けて入院した上に、細川昌弥との情事が表|沙汰《ざた》になって、それまで世話になっていたパトロンをしくじった。
「ですが、全く女の子の気持ちなんてのは分りませんねえ。あれほど女性問題でスキャンダルの多い男に、れっきとしたお嬢さんが熱を上げるんだから……」
カメラマンは慨嘆して首を振った。寛は苦笑して彼らの話を無視する。
「こんどの噂《うわさ》の人っていうのはどういう女だか、能条さん御存知ですか」
「さあ、僕はあんまり他人のプライベートな問題には関心がないんでね」
寛の台詞《せりふ》を週刊シネマの記者は皮肉と受け取らない。そんな細かな神経の持ち主では、生存競争の激しい今日から置いてきぼりにされてしまうのかも知れない。
「驚くなかれ、と言いたいがまあ大抵の人なら驚きますね」
相手はアルコールの入っているような大時代的な表現をした。
「細川昌弥の新しい愛人って言うのは、噂が本当なら、大日映画の社長の令嬢だということですよ」
流石《さすが》に寛は耳を疑った。が、得意そうな週刊シネマの記者の視線にぶつかると反射的に強い声で言った。
「いいじゃないですか。どんな噂があったって、人間は神様ではないんだから、失敗もするだろう、過失もある。細川君が何をしようとかまわないじゃありませんか。彼だってまだ若いんだし、どんな女の子と恋をしたって別に不思議じゃない」
くわえていた煙草を靴の先でふみにじると、寛は明るい大空へ向けて大きくのびをした。
しかし、撮影を済ませて、劇場へ楽屋入りすると一足先きに鏡台の周囲の仕度をしていた付き人の佐久間があたふたと寛の傍へ寄った。
「ぼん、えらい事や。ほんまにえらい事やで……」
耳へ口を押しつけるようにして告げた。
「細川昌弥が雲がくれしおったんや」
「なんだって……」
「京都の撮影所は今朝からてんてこ舞いや言う事だす。外部には絶対に洩《も》れんようにしてや、というて、ごく内々であっちこっちへ手を回しているらしいけど、まるであかん言う事や」
「お前、それをどこで聞いて来たんだ」
「今朝、ぼんの次のスケジュールのことで撮影所へ寄って来ましたんや。池見組の助監さんに聞いたのよって、間違いやおへん」
能条寛の身の回りの世話をする�付き人�の佐久間老人は、寛の祖父、先代尾上勘喜郎の弟子だった男である。戦争で腰を痛めてからは役者を廃業して、京都で呉服屋をしている長男の許へ帰っていたが、寛が映画俳優になるのと同時に、自分から付き人を買って出た。東京での仕事の時は寛の自宅へ泊まったし、ロケーションの場合などは勿論《もちろん》、一緒に宿屋住いをするのだが、今度の大阪の舞台出演は京都の自分の家から通いで勤めている。そうするように寛が勧めたものだ。京都から大阪までは省線で急行なら三十分ばかりである。
寛は背広を脱ぎ、考えるような眼でワイシャツのボタンを外した。佐久間老人が心得て楽屋着を背後からかけた。
「これも内緒の事だすがなあ、撮影所では、おそらく細川が雲がくれしたかげには大日映画の手が動いておるんじゃないかと言う噂《うわさ》が専《もつぱ》らやがな」
佐久間老人は寛の背広をハンガーにかけて壁につるした。
「すると、契約切れの問題が原因とみてるんだね」
「勿論だす。つまり、なんやね、細川昌弥としては大日映画へ移りたいのは山々なれど、恩になった映画を足蹴《あしげ》にしては、よう出て行かれまへん。そやって、御当人を失踪《しつそう》させておいてよい加減の所で幕にしようという大日映画の小細工やないかということでんね」
「しかし、彼は現在、撮影中じゃないか。そんな無茶な……」
細川昌弥が主演する池見組の「疾風烏組秘話」はまだクランクアップしていない。
「そやさかいに会社中が腹を立てております。なんぼなんでも仕事中に逃げ出さんかてええやないか。もう三分の二も撮した所で主役スターがドロンしたらフィルム全部がわやや。いくら若い言うても細川かてその位の事、考えてるやろになあ」
白粉《おしろい》を溶きながら佐久間老人は苦々しげに呟《つぶや》いた。歌舞伎《かぶき》の世界で呼吸して来た人間だから、義理不義理には人一倍、神経が細かい。
「みすみす世話になった会社へ大損かけて、ようも平気で居れるもんや思いますなあ。飛ぶ鳥、跡をにごさず言う格言もあるに、ほんまにひどいもんや。ドライいうもんや知らんが人の道を踏みはずして、ええ役者になれる筈《はず》がないで、ぼんもよう気いつけておくれやす。ほんまに人事やおへんえ」
「おいおい、朝っぱらから説教かい」
化粧台前に坐《すわ》りながら寛は笑い出し、途中から不意に真顔になった。
「けど、彼がそんな無責任な事するかなあ」
細川昌弥という男が大胆そうに見えて案外、気が小さいのを寛は或《あ》ることで知っていた。主演している仕事を中途で投げ出す勇気が彼にあるだろうかと思った。しかも「疾風烏組秘話」は彼にとって半年ぶりの主役だし、役柄も気に入っていて、雑誌や新聞のインタビューにも張り切って答えていた。
「細川一人の知恵やおへんがな。黒幕に大日映画があればこそ出来たんでっしゃろ」
「それにしても……だよ」
ふと、寛は数日前の夜、間違ってSホテルの寛の部屋へかかって来た電話を思い出した。
「細川昌弥さんでしょうか……」
と低く聞いた女の声に寛は遠い記憶があるような気がするのだ。
一日中、寛は奇妙に落ち着けなかった。
ショー形式で演《や》っている「ロミオとジュリエット」でも「婦系図《おんなけいず》」の湯島|境内《けいだい》の場でもつまらない台詞《せりふ》を何度もとちった。
「いややわ、能条さん、今日、どうかしてはりますの。恋人にでもふられたのと違うか」
ミュージカル畑出身の先輩女優に笑われて寛は一層、くさくさした。
舞台がはねると寛は真直ぐにSホテルへ帰ったが、そのまま部屋へ上がって行く気になれない。フロントで部屋の鍵《かぎ》だけ受け取ると、ロビーを横切ってバーへ下りて見た。
スタンドには外人客が二人、バイヤーらしい。隅の止まり木に腰を下して、
「ブランデー。ああ、ヘネシーがいい」
寛はチューリップグラスのとろりとした液体をぼんやり眺めた。グラスに顔を近づけると強い芳香が鼻孔を刺戟《しげき》する。
町のバーと違って無駄口をきく女の子もいないし、ボーイもバーテンも別に愛想を言わないのが今日の寛には有難かった。
頻《しき》りとあの晩の電話を思い出す。
(細川昌弥と間違えた電話が僕にかかって来たのは全くの偶然だったのだろうか……)
あの翌朝、ホテルを出がけに寛は一応、フロントへ訊《たず》ねたものだ。
「変な事を訊《き》くようだけれど、T・S映画の細川昌弥君がここに泊まっているの。いや、昨夜、僕ん所へ彼と間違って電話がかかって来たものだからね」
フロントクラークは丁寧に電話の間違いを詫《わ》び、それから細川昌弥は泊まっていない旨を告げた。
「なに、いいんだ。同じT・S映画だから、それで間違ったのかも知れないな」
ひどく恐縮する相手に寛は慌てて手を振ったものだが……。
(ホテルの電話交換手がどうして僕と彼とを間違えたのだろう……)
姓名を言って来たのなら間違えようもない。能条という寛の姓はあまりありふれたものではないし、細川とでは似ても似つかない。
同姓とか、せめて小沢と尾崎のように発音上、まぎらわしいというのならともかくもである。
寛が二杯目のブランデーを注文した時、ホテルの呼び出しアナウンスが告げた。
「お部屋番号六〇四番のお客様、お電話がかかっております。お近くの受話器をお取り下さい」
二度繰り返して、アナウンスは英語に変わった。ブランデーグラスを唇に運び、寛は無意識に関西|訛《なま》りのある、柔らかな女の声を聞いていた。視線が何の気もなく、カウンターの上に乗せてある自分の部屋の鍵《かぎ》へ行く。鍵には部屋番号を書いた茶色のプラスチックの札が鎖でついている。
(そうか……)
能条寛はブランデーを空けると早々に部屋へ戻った。
シングルベッドにはもう夜の仕度が整えられている。スチームが効いているから部屋は春のように暖かった。
テーブルの前にむずと坐《すわ》り、寛は受話器を取り上げて交換手を呼び出した。
「はあ、先日の御電話でございますか、本当に失礼を致しました。よく確かめてお取り次ぎ申し上げればあんな間違いはなかったのでございますが……」
フロントクラークから注意されたのだろうか、交換手は丁寧に詫《わ》びた。
「そうじゃないんですよ。間違えられた事をとがめてるんじゃない。もう、そんなに気にしないで下さいよ」
寛は二枚目スターらしくもない無器用な言い回しをした。
「そんな事じゃなくて、実は少々用事があってね。いや大したことではないんですが、念のために訊《たず》ねるんだけど、あの晩の電話ね。僕の部屋番号を指定してかかって来たんじゃないの……」
交換手は即座に応じた。
「左様でございます。お部屋番号だけをおっしゃってつないでくれと言われたものですから……お名前を言われましたら間違えるわけがございません……」
「有難う」
寛はゆっくりと受話器を置いた。
(やっぱり……)
と思う。
今まで寛は細川昌弥がSホテルの或《あ》る部屋に泊まっているか、もしくは彼と自分とが同じT・S映画のスターだということで偶然、電話が間違ってかかって来たのではないかと軽く考えていた。そうした間違いは例のない事ではない。
しかし、細川昌弥が失踪《しつそう》したと聞いたせいか、寛はあの晩の間違い電話に無関心でいられなくなった。単なる偶然とは思いにくい。
もしかすると、あの晩、細川昌弥はこのホテルへ誰《だれ》かを訪ねて来ていたのではないだろうか。少なくとも電話をかけて来た女は、細川昌弥がSホテルへ行った事を知っていた。
(まてよ……)
ソファに深々と腰を下し、寛は長い脚を組んだ。
とすれば、女はSホテルのフロントへ細川昌弥の呼び出しを頼むべきである。それをしなかったのは、
(細川昌弥がSホテルへ誰かを訪ねたのは極秘なんだ。つまり呼び出しなど迂闊《うかつ》にかけられないような事情があったと見るべきだ)
しかも女は細川昌弥が誰《だれ》を訪ねたかは知らなかったのではあるまいか。もし女がT・S映画に関係のある人間ならSホテルに能条寛が滞在している事は知っている……。
(駄目だ……)
寛は短い髪をごしごしこすった。
(細川昌弥が私用で俺《おれ》の所へ来るわけがない……)
細川昌弥が私用で能条寛を訪ねる筈《はず》がないのは、彼を知る者の常識だった。
彼と寛とはライバルという名で呼ばれる以外、個人的な交際はない。
(特別に親しい友人でもない俺の所へ、どうして細川昌弥が訪ねているのではないかというような想像をするものか……)
細川昌弥がSホテルへ行ったからと言って直ちにそこへ泊まっている能条寛の部屋へ電話をかけて彼の所在を確かめたという推理はまず当たらない。
(冗談じゃないぜ。八千代ちゃんの探偵ぐせがいつのまにかこっちへ伝染しちまった)
苦笑して寛は立ち上がった。思い出したようにあくびをする。昨夜の寝不足が急に体にこたえた。
シャワーを浴びただけで、寛は早々にベッドへもぐり込んだ。
翌朝、寛は慌《あわただ》しい電話のベルで眼をさました。
(よくよく電話に祟《たた》られるもんだ……)
渋い眼をしばたたきながら受話器を取ると、声は佐久間老人だった。
(なんだ、朝っぱらから……)
不機嫌がつい声になりかけたが途中で絶句した。普段は律儀に朝の挨拶《あいさつ》を述べたてる佐久間老人がいきなり言ったものだ。
「ぼん、大変や。えらいこっちゃ……」
返事も待たずに続けた。
「細川昌弥が自殺しよりましたんや」
「なんだって……」
寛はいきなり突風に遇《あ》ったグライダーみたいな驚愕《きようがく》に直面した。
「いけねえ、地面が回りやがった……」
「なんどすねん、なんやしはりましたんか」
佐久間老人の面くらった調子に寛は弁解らしくつけ加えた。
「なに、一人言さ。俺《おれ》のとんでるグライダーがスピン(錐《きり》もみ)に入りやがったってことよ……」
「へえ……」
佐久間老人には解らない。
「それで細川君の自殺ってのは、誰《だれ》から入った情報なんだ……」
「撮影所の中丸さんどすねえ。家が近いよって……今朝早うに電話して来ましたんや。すぐに知らせよう思いましたんやけど、まだ眠ってはるやろと遠慮しましてなあ。ガス自殺や、今朝の新聞に詳しく出てますがな」
なんだ、と寛は思った。
「もう、出てるのか」
それなら電話でまどろっこしい佐久間老人の話を聞くより、活字を読んだ方がよっぽど手早いし、確実でもある。
(肝腎《かんじん》な事をさっさと言やあいいのに、相変わらずおっとりとしてやがる……)
電話を切って、寛は新聞を取りにドアの傍へ大股《おおまた》に歩いた。
Sホテルでは朝刊は大抵、部屋の入口のドアの下部にある細長いすき間にはさみ込んである。
まだインクの匂《にお》いのしそうな二種類の新聞を掴《つか》むと寛はソファへ戻った。いつもはベッドの上で横着に寝そべった儘《まま》、読むのだが流石《さすが》に今日はそんな心の余裕がない。
拡げた第三面に、
�細川昌弥がガス自殺�
写真入りの大きな見出しがいきなり目にとび込んで来た。原因は契約切れにまつわる葛藤《かつとう》か、と傍に添えた文字も派手であった。
二種類の新聞の記事はどちらも殆《ほと》んど変わりはない。自殺の現場は神戸の三の宮にある彼のアパートで発見者はそのアパートの管理人だった。
「隣室の××さんがどうもお隣がガス臭いと言われるので何度も声をかけてみましたが、返事がない。合い鍵《かぎ》でドアを開けて部屋へ入ると奥の寝室で細川さんが倒れていました」
という発見者の言葉の横に発見が遅れたのは高級アパートであるためドアが全部、二重で完全な防音装置がされているから臭気の外に洩《も》れるのがかなり遅かった所為《せい》であると説明している。
遺書は豪華なダブルベッドの横のサイドテーブルの上にあった。便箋《びんせん》一枚に、
「世の中のすべてが嫌になった。死はなにもかも空白に埋めてくれるだろう。すべては自分の心から出た事だ。誰《だれ》も怨《うら》みはしない。ただ、死ぬ前に一目だけでいい、貴方《あなた》に遇《あ》いたい。あっておわびがしたいのです。どうしてもお目にかかりたいと思います」
とだけ一杯に記してあったと書いてある。宛名《あてな》も署名もないが、筆跡は間違いなく細川昌弥のものだと判明している。
食堂へ下りて行くと、二、三人しか残っていない客の一人が、あらと寛に声をかけた。黒と白の細い縞《しま》の和服に博多帯が粋である。帯締も草履《ぞうり》も黒ずくめな茜ますみであった。
「よろしかったら、どうぞ……」
一人きりのテーブルの隣席を指されて、寛は止むを得ず腰を下した。彼女がこのホテルへ泊まっていることは数日前、ロビーで彼女の内弟子の久子と遇《あ》って知っていたが、それ以来、久子とも顔を合わせていない。茜ますみとは今朝が始めてであった。
「久子さんは、ご一緒じゃないんですか」
ナプキンを取りながら寛は訊《き》いてみた。
「あの子は一昨日、帰京させましたの。東京の方の稽古《けいこ》が昨日から始まりますのでね」
茜ますみは先に運ばれて来たスープをゆっくり味わいながら、あっさりと答えた。ナプキンで軽く唇を拭《ふ》くと、声をひそめるようにして言った。
「今朝の新聞、ごらんになりましたでしょう。驚きましたわ。あの方がねえ……」
寛は憂鬱《ゆううつ》な表情でうなずいた。
 
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