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黒い扇04

时间: 2019-12-08    进入日语论坛
核心提示:東京の午後ファッションショーは森口夢代モードサロンの二階で催された。午後一時、三時、五時の三回である。クリーム色のオーバ
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東京の午後

ファッションショーは森口夢代モードサロンの二階で催された。午後一時、三時、五時の三回である。
クリーム色のオーバーコートに焦茶の靴とバッグという大人《おとな》しい恰好《かつこう》で、浜八千代は二階へ続く階段を上がって行った。
「浜さん、まあ、お待ちしてましたわ。ようこそ……」
マダムの森口夢代は黒ずくめの洒落《しやれ》たワンピース姿だった。胸のドレープが美しい。
外交官の父親と一緒に幼少時は外国暮らしを続けて来た人だけあって洋服の着こなしは見事である。戦後、ファッション界に登場した。デザイナーとしては新進なのだが落ち着いた好みとセンスのよさは奇をてらう人の多いこの社会で、実用とシックを看板とする彼女のデザインはじっくりした人気があった。客は十代、二十代から四十代までと極めて広範囲である。映画女優や流行歌手も顧客の中に多い。
銀座四丁目にある店は一階が布地と既製のセーター、ブラウス、ジャケットなど、中二階がアクセサリーの陳列、二階が帽子部とデザイン部、それにショーに使用される小ぢんまりしたフロアがある。
狭い椅子席は殆《ほと》んど満員だった。客席もさながらのファッションショーでスーツ、ツーピース、ワンピース、ブレザーコートと各々に女の香りを競っている。八千代が、空いている補助椅子に腰を下すと、サロンの中の電気が暗くなり、ステージにライトが光った。ムード音楽が流れ、ファッションモデルが馴《な》れた歩きっぷりでステージに現れた。すみれ色のアンサンブルにピンクをあしらった「春の夢」と題するデザインである。
周囲から嘆息が洩《も》れ、八千代もうっとりと眺めた。
一時間ばかりでショーは終わった。八千代は階下で布地を選び、春のコートとブレザースーツを注文して明るい銀座の表通りへ出た。
「浜さんはロマンティックな色がお好きね。たまには、寒色を着せて差し上げたいと思うのだけれど、どうしてもデザインも甘い感じになってしまうわ」
マダムの言葉が耳朶《じだ》をくすぐるように残っていて、八千代はパリジェンヌみたいな表情で歩いていた。美しいファッションショーを見た後は女に産まれた幸せを体中に感じるものだ。
角の靴店のウインドーを覗《のぞ》いた。もうそろそろ淡い色の靴が欲しい。流行のローマンピンクのハイヒールとハンドバッグのおついに眼が止まって、八千代が胸算用をしているとすっと背後に男の匂《にお》いが寄って来た。
「ねえ、お茶でもつきあいませんか」
肩を叩《たた》かれて、最初、八千代は自分の店へ来る客の一人かと思った。「浜の家」は銀座でも一流の料理屋だから客筋はハイクラスばかりだ。
八千代は怪訝《けげん》な顔で相手を見た。
黒っぽいオーバーにチャコールグレイの縞《しま》の背広、ネクタイの趣味はあんまりよくないが、まあ一応の紳士スタイルである。
八千代が黙って見上げていると男は多少照れくさげに視線をそらした。
「どう、三十分ばかり……」
「浜の家」の常客ではないと八千代は直感した。黙ってついと飾り窓を離れる。あきれた事に、男が従《つ》いてくるのである。
「ねえ、いいじゃないの、ほんのちょっとでいいから交際《つきあ》いませんか……」
八千代は思い切って立ち止った。
「私、暇じゃありませんの」
くるっと踵《きびす》を返してさっさと歩き出した。これ以上、ついてくるようなら交番へとび込んでやれと思う。
足早に道路を横切った。肩を叩《たた》かれる。ふりむいて睨《にら》みつけた。てっきり先刻《さつき》の男と思ったものだ。
「あら、伯父《おじ》様……」
「マドモアゼル。今晩おひま?」
結城《ゆうき》慎作は通りすがりの人がびっくりするような大声で笑った。八千代の母の実兄に当たる。M新聞の整理部長の肩書がある。
「嫌だわ。伯父《おじ》様……」
「しかし、驚いたね。誘惑族という奴《やつ》は花のパリだけかと思っていたら、白昼の銀座で我が姪《めい》を取っ掴《つか》まえてくどく奴がいるんだから……」
「くどいたなんて……ただ誘っただけじゃありませんか、人聞きが悪いわ」
見ず知らずの厚釜《あつかま》しい男をかばう気はないが、くどかれたとか、惚《ほ》れられたとか言う台詞《せりふ》を八千代はひどく気にする。
「人聞きが悪い事はない。八千代がくどいたわけじゃない、いわば被害者だ」
「だって、嫌だわ」
「まあいいさ。三十分ばかりどうだ。キャンドルでお茶でも飲まんか」
慎作は笑いながら片目をつぶって見せた。五十になるというのにそんな動作も身体もひどく青年っぽい。子供がないせいと、新聞社勤めの影響と、天性のものである。
「伯父様ならば……つきあってあげてもいいわ」
八千代は先に立って喫茶店の階段を上がった。キャンドルという店は八千代が先刻《さつき》、眺めていた靴屋の二階にある。小ぢんまりした喫茶店、兼レストランだ。ホットドッグ、ハンバーガー、チキンバスケットなどパンを使った軽食に特徴があって、若い連中に人気がある。向かいのビルに映画雑誌社があるので芸能関係の人々もよく食事や打ち合わせに利用する。八千代をはじめてここへ連れて来たのは能条寛だった。結城慎作は姪《めい》に教えられてからしばしば立ち寄る。
「案外、旨《うま》いコーヒーを飲ませるじゃないか」
と気に入っているものだ。
「伯父様ってやっぱりジャーナリストね」
「む?」
窓ぎわの席へ腰を下すと八千代はエクボの出来る右頬《ほお》を伯父へ向けて笑った。
「いつから八千代を尾行してらしたの」
「尾行……」
そこへウェイトレスが注文を訊《き》きに来た。白いエプロンにハートの刺繍《ししゆう》が如何《いか》にも東京の銀座の店らしい。
「八千代はなんだ……」
「そうね、ジンジャーエールと、おなかが空いたからチキンバスケットでも頂くワ」
「じゃ、僕もそのなんとかバスケットと、コーヒー……」
「なんとかバスケットだなんて嫌ねえ。若鶏のフライとポテトの唐《から》あげとトーストがバスケットの器に入ってくるから、略して……」
「チキンバスケットか。今度は憶えとくよ」
結城慎作はコートを脱いでいる姪《めい》をたのしそうに眺めていた。クリーム色のコートの下に同色のジャージのワンピース、グリーンの濃いベルトが如何にも春らしかった。
「珍しいね、今日は洋装か」
「珍しいことないのよ。伯父《おじ》様にお目にかかるのは家にいる時か、お稽古《けいこ》帰りが多いから、なんとなく和服ばかり着ているようにお感じになるのでしょう」
「そうかな。しかし、洋服もなかなかいいよ。僕は八千代が大根足なんで着物ばかり着ているのかと思っていたんだが、どうしてぐっとミスユニバース並みだ。靴屋の窓をのぞいて嘆息をつきたくなるのも無理はない……」
「伯父様……本当に油断もすきもならないわ。いつから八千代の後をつけてらしたのよ。最低ね、全く……」
八千代は少しばかり開き直った。若い娘だから、たとえ伯父でも恥ずかしいし、不快だ。
「ジャーナリストは刑事じゃないからね、尾行なんかするもんか」
「じゃ、どうして……」
「靴屋の内部にいたんだよ」
「まあ……」
ウェイトレスがコーヒーとジンジャーエールを運んできた。八千代は悪戯《いたずら》っぽい表情で白髪の多い伯父《おじ》の長髪を見上げた。いわゆる若白髪《わかしらが》の性質らしく三十の半ばから今のままの髪だ。その頃《ころ》は老けてみられ、現在は逆に若く見える。
「わかったわ、伯父様、伯母様に言いつけてあげるから……」
「なんのことだ……」
「トボけても駄目よ。どなたか様へプレゼントでしょう。伯父様も危険な年齢ね」
結城慎作は吹きとばすように笑った。
「こいつはいい。八千代がもうそんな気を回す年齢になったのかい。この間まで色気より喰《く》い気と眠気のヤングレディだと思っていたが……やっぱり春かね」
「弁解御無用、八千代の勘は素晴らしいんだから……」
シュガーボール(砂糖壺)の匙《さじ》を八千代が軽く握って、まっ白な砂糖を二つ、伯父《おじ》のコーヒーへ入れる。
物心つく以前に父をなくしたせいか、八千代はこの伯父と向かい合っていると、無条件で甘えた気持ちになる。
「ま、いいさ。真昼間から良家の子女を誘惑する男性や、恋人が多すぎて遺書に宛名《あてな》を書きそこねた男がうろちょろしている世の中だからね」
唇に含んだコーヒーの渋味に結城慎作は目を細めた。
「宛名のない遺書……。ああ細川昌弥の一件でしょう」
八千代はぎゅうと眉《まゆ》をしかめた。
小さな竹籠《たけかご》に紙ナプキンを敷いて三角に切ったトーストが二枚、骨つきの若鶏のフライが三個、短冊《たんざく》型のじゃがいものからあげが四、五枚、パセリの緑が鮮やかである。キャンドル特製の「チキンバスケット」がテーブルに運ばれ、会話は途切れた。
「しかし、近頃の女の子の神経ってのは全く不可解だね。あの細川昌弥なんて女たらしの、甘っちょろい、物欲しげな男のどこがいいのか、新聞社の若い連中が口惜《くや》しがってるよ。細川の自殺後、彼のファンだったという女性にインタビューして感想を聞いたら、細川昌弥の存在しない世の中なんて灰色同然の味けなさだと泣いて訴えたのが居るんだとさ」
結城慎作は指の先で鶏肉をつまみ上げて、笑った。
「最低よ。あんなドンファン……」
八千代はストローの先でジンジャーエールの中に浮いている氷片をがらがらとかき廻《まわ》した。
「そうかと思うと、生きている細川昌弥は好きだったが、死んだ彼なんて興味がないから勿論《もちろん》、葬式にも行かないと答えた女の子もいたそうだ。つまり、細川昌弥に熱をあげたのは、ひょっとしてひょっと自分が彼の花嫁候補になるかも知れないという期待があるんだな。だから死んじまったとなると線香の一本も立ててやる了見もない。甚《はなは》だ現実的だが、当世女性気質という奴《やつ》で面白いじゃないか……」
「あきれたものね。好きじゃないわ、そんなの。愛情とか、熱をあげる、好きになるっていう感情は無報酬だから美しいのよ。ただ捧《ささ》げるっていう純粋な気持ちでなければ本当のファンではないわ」
「八千代はやっぱり古風なタイプの女だね。そういう女は、とかく男に泣かされる率が多いそうだよ。新聞の身の上相談の欄を見てごらん。三百六十五日、そういう女の嘆きが綿々と綴《つづ》られている」
紙ナプキンで指を拭《ふ》くと、結城慎作はポケットを探ってダンヒルのパイプを取り出した。
「そりゃあ、伯父《おじ》様、女の生き方にだっていろいろあるわ。男を泣かせて自分が大きくなって行くようなタイプの人もあるし……」
八千代はちらと茜ますみを思い出す。
「でも、私は男を泣かせもしないし、男性に泣かされもしないわ」
「ほう、大した自信だね。そういう相手を見つけたのかい。つまり八千代を一生、泣かせもしない、八千代に泣かされもしないという男性をだよ」
「まさか……そうじゃないけど……」
なんとなく伯父の目を避けて八千代は窓の下の通りを覗《のぞ》いた。東京の午後、銀座の街路はさまざまの人種が慌しく、或《ある》いは悠長に歩いて行く。
ウィークデーだから、サラリーマンならオフィスで帳簿と取り組んでいる時間だし、学生は教室で鹿爪《しかつめ》らしい教授の講義をノートしていなければならない時刻なのに、通りを横切る人種にはサラリーマン型も、学生服もふんだんにいる。それと——正体不明の男性と女性。
ぼんやり見下していて、八千代はあらと小さな声を立てた。向かい側の道を岸田久子が歩いている。矢絣《やがすり》の着物と紫のコートにも見憶《みおぼ》えがあった。連れがいる。老人であった。黒っぽいオーバーの衿《えり》を立てている。顔は久子のかげになってよく見えない。
「なんだ、知ってる人か」
結城慎作は姪《めい》を見た。
「ええ、踊りの先生の所の内弟子さん……ほら、クロ洋裁店の前の所を年とった男の人と歩いて行くでしょう。その紫のコートの人がそうよ」
指されて窓越しの路上を眺めた伯父《おじ》は、二人の後姿に、
「お連れはちょいとしたロマンスグレイらしいが、色気のある仲じゃないな」
新聞記者的観察を口にした。
男と女が歩いていて、それがビジネスかプライベートか一目で見当をつけるのが新聞記者の勘だというのが結城慎作の持論である。
「多少なりとも色気を感じている仲なら、男と女の放射線がピリピリっとくるもんだよ」
という伯父の口癖を八千代も何遍となく聞かされている。いつもなら何か一言、異論を説《とな》えたい所なのだが今日は素直に、
「そうねえ」
と受けた。
「ほう、八千代もそう思うかい」
「伯父《おじ》様は御存知ない事だけど、あの久子さんだったら、お年|頃《ごろ》の男性と二人っきりで歩いていたって恋人同士だとは思わないわ。お固いんで有名よ」
「気の毒だね、そういう女は……」
「あら、どうして……」
「男と一緒にいて噂《うわさ》も立たないような女は女の資格がない。六十、七十の婆さんならいざ知らず、若い身空で、悲しむべき事だよ」
ダンヒルのパイプが心地よさそうに紫煙を吐いた。
「伯父様、そんなお説を婦人欄に書いてごらんなさい。貞淑な日本の女性はこぞって柳眉《りゆうび》を逆だてるわよ。身持のいい女性はまるで木の屑《くず》みたいじゃありませんか」
「そいつは困る。女とおしゃもじは苦手だからね」
結城慎作はもっぱら煙草を娯《たの》しむ風で、チキンバスケットは半分ほどしか手をつけない。
「ねえ、伯父様、そのパセリ頂いていい」
八千代は伯父の前のバスケットを覗《のぞ》いた。パセリは八千代の好物である。
「いいとも、ついでにチキンの方もよろしかったらどうぞ……」
八千代は肩をすくめてパセリをつまんだ。白い歯でパリパリと噛《か》む。
「八千代は兎《うさぎ》年だったっけな」
「おあいにくさま、パセリを食べてる八千代はまるで兎みたいだとおっしゃりたいんでしょ……」
ついでにチキンにも手を伸ばして八千代はフランクに笑った。
「僕と一緒の時はいいけど、ランデブーの時は慎しんだ方がいいね、まるで欠食児童だ」
「伯父《おじ》様って案外お古いのね。食欲|旺盛《おうせい》な女性は生活力も旺盛なのよ」
「そんな台詞《せりふ》を言う奴《やつ》が、恋人とデイトする時、一日中コーヒーばかり飲んで嘆息をつくもんだそうだよ」
他人眼《よそめ》には仲のよい親子と見えるかも知れない。父のない姪《めい》と娘を持たない伯父とのカップルである。
「そう言えば先刻《さつき》の伯父様のお話ね」
「なんだっけかな」
「ほら、宛名《あてな》のない遺書、細川昌弥のことよ。おっしゃったじゃないの」
「ああ、その事か」
一人前と二分の一人前のチキンバスケットを平らげた八千代の舌は滑らかによく動く。
「宛名のない遺書っていうのは、あんまり恋人が多すぎるんで一々宛名を書くのがめんどうだから書かなかったっていうのは少しうがち過ぎてやしない」
「と言って、遺書を書く程の場合に宛名を書き忘れる馬鹿もないじゃないか」
「故意に書かなかったという場合もあるじゃありませんか」
「何故、なんのために宛名を書かないのさ」
「相手の女の人の名前を出したくないというのは……」
「細川昌弥に同情的な観方だね、やっぱり多少はファンだったか」
「馬鹿《ばか》にしないで、伯父《おじ》様、あんな男の映画なんか一本も観ませんよ」
「能条寛と競演した奴《やつ》があった筈《はず》だよ。それも観なかったのかい」
「知りません。そんなの……」
八千代は耳のつけ根を赤く染めた。
「伯父様はすぐに話題をそらすからいけないわ」
唇をとがらせて八千代は抗議した。多少は照れかくしでもある。
「細川昌弥が遺書に宛名を書かなかったのは相手の女の人の名誉を考えてじゃないかしら。それに、宛名がなくてもその女の人にはすぐ自分へ宛《あ》てたものだと分かるという、自信があれば書く必要はないでしょう」
「自分の死後にそんな配慮をするかねえ」
余裕たっぷりに結城慎作は姪《めい》の相手になってやっている。八千代は少しばかり躍起になった。
「相手の女の人を愛していれば、真剣な愛情をその人に持っていれば、そうすると思うけれど……」
「あの男をドンファンだと言ったのは八千代だよ。ドンファンに真実の恋なんてあるのかい」
「そりゃ、時と場合によるでしょう」
「だが、それほど人眼に触れるのを憚《はばか》る宛名の人への遺書なら、枕元《まくらもと》へ置いて死ぬよりも先に投函《とうかん》するべきじゃないか、ポストへ入れて、その目的の人に送っちまえば、宛名のない遺書なんて厄介な事をしなくとも、間違いなくその人の手許へ届く。僕なら、まあそうするね」
「自殺を決心したのが発作的衝動によるもので、ポストへ入れに行く暇がなかったというのは……」
八千代は執拗《しつよう》に喰《く》い下がる。
「残念ながら、細川昌弥のアパートのすぐ前にポストがあるんだ。切手はアパートの売店にも置いてあるそうだ。高級アパートでね。クリーニング屋も薬局も付随している。遺書を書くだけの余裕のある自殺者が、階下へエレベーターで下りて、手紙をポストへ放り込む手間を惜しむだろうか」
微笑を浮かべて結城慎作はパイプの灰を灰皿へ叩き出した。
「それよりも、いっそ宛名《あてな》のない遺書を一通書いて残しておけば、女というものはうぬぼれと自尊心の強いのが揃《そろ》っているから、細川昌弥と交渉のあった女に各々《おのおの》、あの遺書は自分に宛てたものだと信じて満足するだろう。色事師の彼ならその位の計算は立てないものかね。少なくとも、そう考えた方が面白いねえ」
「男の人が考えそうな筋書きだわ」
口惜《くや》しいから八千代は軽蔑《けいべつ》した顔になる。
「細川昌弥は男性だものなあ……」
そこで、結城慎作は姪《めい》に譲歩した。あんまり徹底的にやっつけてしまうのも大人げない。
「もっとも、これはあくまでも第三者の想像だよ。人間には偶然とか例外とかいう場合がある。迂闊《うかつ》に判断は出来ないのだよ」
それにな、と結城慎作はつけ加えた。
「あの遺書は果たして純粋の遺書かどうか問題はまだあるんだ」
自殺した細川昌弥の遺書に問題があるという伯父《おじ》の言葉に八千代は、ぱっと眼を輝かした。
「やっぱり、そうなのね。あれは遺書じゃないんでしょう」
「遺書じゃない……?」
結城慎作はまじまじと姪を見た。
「じゃ、なんだというんだね」
「御存知のくせに……」
「いや、知らん」
曖昧《あいまい》な微笑を浮かべて、だが慎作は八千代から目を放さない。
「そら、又|伯父《おじ》様のおとぼけが始まった。お仕事にちょっぴりでも関係している話だと伯父様はいつだって肝腎《かんじん》の所でぼかしちゃうんですもの、ずるいわ」
「いや、そんな事はない。僕は八千代みたいな推理小説マニアじゃないからね。こういう話にはよわいんだ……」
「駄目ですよ、ごま化そうとしても……」
いつもはこの辺りでぷんとふくれる筈《はず》だが今日の八千代は喰《く》いついた餌《えさ》をおいそれと放したがらない。
「伯父様、笑ってもいいから聞くだけ聞いてちょうだい。細川昌弥の遺書って新聞に発表されたあれは、もしかすると誰《だれ》かに宛《あ》てた手紙の一部分じゃなかったの」
「遺書だって、誰かに宛てた手紙だろう」
結城慎作は八千代の真剣な眼ざしに相変らず茫洋《ぼうよう》とした表情で応じた。
「私が言うのは、遺書という目的で書いたものではないという事なのよ。普通のラブレター、つまり呼び出し状ではないかと言う意味だわ」
「ふむ、それで……」
「それでって……」
八千代は少しばかり口籠《くちごも》りながら続けた。
「死ぬ前に一度だけ貴方《あなた》にお逢《あ》いしたい、って言う文句を、私は細川昌弥の殺し文句じゃないかと考えたのよ。何故って細川昌弥という男は死ぬとか死にたいとかの言葉を平常から何かというと使ってたらしいじゃない。染子さんっていう踊りの友達、芸者さんで、ほらいつか細川昌弥と自動車事故の時に一緒に乗ってたりん子さんっていう人の姉貴分に当たるんだけどその染子さんから聞いた話では、細川昌弥はりん子さんに宛《あ》てた手紙や電話で、しょっちゅう、あなたが死ぬほど好きだ、逢いたくて死にたくなる、なんて言ってくるんですって、染子さんがキザな文句を使う、安っぽい男だってよく憤慨してたもんよ。だから私……」
「それも一理だな。すると、あれが遺書でなく、偶然、誰《だれ》かに宛《あ》てて書きかけた手紙だったとなると……」
八千代は形のよい眉《まゆ》をぎっと寄せた。伯父《おじ》の広い額へ顔を近づけて、低くささやいた。
「細川昌弥はね、伯父様、自殺したのではなくて……殺されたのよ」
キャンドルの店の内はひっきりなしに若い笑い声や会話が流れている。入れ変わり、立ち変わり似たような恰好《かつこう》の若い男女のグループばかりがつめかけてくる。ニューフェイスの顔が見えたと思うと、婚約中のジャズシンガーが腕を組んで現れる。それでも、この店の常連はそうした風景に馴《な》れているせいか、ちらとふり返って見る程度で、別段、さわぎもしないし、サインを頼む者もない。
もっとも、サインの方は二十センチ四方くらいの小型のカンバスにクレヨンで、この店へ来る芸能人の各々《おのおの》のサインをしたものが、店内の壁にずらりと並んでいる。いわゆるこの店の宣伝でもあり、多少は特殊な喫茶店という意識的な感じもあるのだが、店が明るく清潔だし、ウェイトレスもボーイも嫌味のないサービスぶりなので、あまり気にはならない。コーヒー一杯で何時間ねばっても不快な思いをする店ではないが、大抵が適当に談笑すると適当に腰をあげる。しんねりむっつりとしたアベック専門の店ではないのだ。
八千代は卓上の黄色いチューリップを眺めた。ここにも春の色が明るい。が、八千代の横顔は緊張のあまり蒼味《あおみ》が濃い。結城慎作はむきになっている姪《めい》をたしなめるような調子で口を開いた。
「細川が自殺ではなかったとしても、それを直ちに他殺と断定するわけには行かないよ」
「何故……」
「過失死という伏兵がある……」
八千代は宿題をまるっきり忘れていた生徒が、それを指摘された時のようなあどけない表情をした。
「ガスだわね、伯父《おじ》様」
「そう、今年の流行だ……」
正月第一日目の新聞の第三面がガス洩《も》れによる過失死の記事だったことを八千代は想い出した。
「でも、伯父様、ガス栓は人為的にひねられていたんでしょう。ゴム管やなんかの故障じゃなかった筈《はず》よ」
「そりゃそうだ。しかし、ガスストーブをつけっ放しにしたまま、寝込んでしまって、なにかの拍子に炎が消えてしまったという場合が、まず考えられるだろう、他にも条件はある。なにしろガスという奴《やつ》は魔物だからね」
「ガス中毒ねえ……」
八千代はがっかりしたように呟《つぶや》いた。
今年になって東京に発生したガス中毒で、過失か自殺か遂に解からずじまいに終わっている事件があったのだという事を、八千代はこの前、結城慎作が「浜の家」へ部下の新聞記者を何人か連れて夕食に来た時、給仕に出ていて聞かされた。
「可笑《おか》しな奴だな。自殺や過失死じゃまずいみたいな事を言う。八千代はいつから女刑事になったんだい」
結城慎作の台詞《せりふ》は途中から若々しい声に遮られた。
「やっぱり、ここに居やがったな」
声は結城慎作の背後からのものである。彼がふりむく前に、八千代が伯父《おじ》の肩ごしに入口の方を覗《のぞ》いた。
「まあヒロシ……いつ帰って来たの」
能条寛は返事をしない。淡いグレイのズボンにライトブルウのセーター、白と黒のラフな感じの背広を無造作に着ている。コートは持たない。
黙った儘《まま》、八千代へ顎《あご》をしゃくった。こっちへ来いという合図である。
「どうしたの……なあに……」
怪訝《けげん》な顔で八千代は立って行った。
「なにかあったの、ヒロシ……」
能条寛の奇妙な表情を窺《うかが》った。
「誰《だれ》……お連れは……?」
そっちを見ないで低く訊《き》く。八千代はテーブルをふりむいた。背を向けた恰好《かつこう》で結城慎作はパイプの煙を吐いている。後ろからみるとすこぶる若い。
「伯父《おじ》よ。御存知じゃないの、M新聞に勤めている母の兄の……」
「へえ、じゃあ、結城の伯父様かい……」
「そうよ。誰《だれ》だと思って……」
「いや」
寛は間の悪そうな苦笑を口許に浮かべた。
「なんでもないんだ……ちょっとね」
先に立ってテーブルに近づいた。
「どうも御|無沙汰《ぶさた》しました。お変わりありませんでしたか」
神妙な挨拶《あいさつ》ぶりである。
「能条君かい。相変わらず忙しそうだね」
結城慎作は自分の前の椅子《いす》を目で指した。会釈して寛が腰を下しその隣へ八千代が坐《すわ》った。
「なにしろ貧乏ひまなしだもんで……」
なんとなく前髪をかきあげる寛は頻《しき》りと照れている。八千代はちらと横眼で見た。くすんと笑ってわざとそっぽを向く。
「大阪の公演はたいそうな人気だったそうじゃないか。東京からも冬休みを利用してわざわざ観に行ったファンがだいぶあったんだってね。八千代も行きたがってぶつぶつ言ってたらしいが、おふくろさんが風邪《かぜ》をひいたりなんぞ行きそびれたそうだ」
結城慎作は大|真面目《まじめ》な表情で若い二人を見くらべる。
「やっちゃんは宝塚歌劇を観るために神戸まで出かける事はあっても、僕のあちゃらか芝居なんかのぞきたくもないそうですよ」
「その通りよ。ヒロシのミュージカルなんて可笑《おか》しくって観ちゃあいられないわ。大体、日本の男性でタキシードの本当に似合う人は極めて稀《ま》れなのよ。十中八九は丹波篠山山家《たんばささやまやまが》の猿が洋服着ましたって恰好《かつこう》。そこへ行くとタカラヅカの人たちの着こなしは素晴らしいわ。イブ・モンタンなら知らないけど、日本の男性なんて、まるで問題にならないことよ」
八千代はハンドバッグの口金を意味もなくパチンと閉めた。
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