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黒い扇05

时间: 2019-12-08    进入日语论坛
核心提示:暗い恋茜《あかね》ますみはここの所、機嫌がひどく悪かった。朝からヒステリックな声で内弟子や女中を叱《しか》りつける。稽古
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暗い恋

茜《あかね》ますみはここの所、機嫌がひどく悪かった。
朝からヒステリックな声で内弟子や女中を叱《しか》りつける。稽古場《けいこば》でも始終、いらいらしている様子が誰《だれ》の目にもはっきり見えた。
死んだ海東英次と組んで昨年、発表した「光の中の異邦人(エトランゼ)」が芸術祭に参加して最有力候補と噂《うわさ》され、少なくとも奨励賞は確実だと下馬評も高かったのが、いざ蓋《ふた》を開けてみるとまるっきり問題にもならなかった。しかも、茜ますみとは邦楽界でとかくライバル扱いをされている新進の深山《みやま》里代が「四季の女」という小品で賞を獲得し、新聞や週刊誌がこぞって彼女の新鮮な感覚と柔軟なテクニックを賞讃した。年齢も深山里代の方が茜ますみよりずっと若いし、洋舞的な表現や、バレエの技術を大胆に取り入れた作舞が近代人の好みに迎合されもしてテレビや映画にも次々と出演がきまった。
そうしたニュースが報じられる時、必ず長年の宿敵、茜ますみの鼻をあかした、とか、完全に打ち負かした、とかいうようなマスコミ好みの表現が一々、茜ますみの神経を昂ぶらせた。
「なんだい、あんな青くさい小娘の芸と比較されてたまるもんか。素人《しろうと》ならいざ知らず、芸のよしあしの分かる人間なら見向きもしやしない。相手にするのも大人気《おとなげ》ないから、私は黙って何も言いませんけどね」
と茜ますみは憎悪をオブラートに包んだような言い方をしていたが、負けず嫌いの彼女だけに「深山里代」の名を耳にする度ごとに内心、凄《すご》い対抗意識を燃やしているのは事実だった。
二月二十日劇作家、三枝《さいぐさ》栄太郎の古稀《こき》の祝がTホテルで催された。
三枝栄太郎と茜流の先代家元、茜よしみとは若い頃《ころ》にロマンスを謳《うた》われた関係から茜一門は余興の舞踊や、その他の接待に狩り出された。
三枝栄太郎は髪も髭《ひげ》も真白な、鶴を思わせる老人である。
「あんな悟りすましたようなお爺《じい》さんが、うちの先代家元とかけ落ちみたいな事をしたなんて可笑《おか》しいわねえ」
数多くの門下生や知人、名士に囲まれて、金|屏風《びようぶ》の前にちんまり坐《すわ》っている三枝老人を見て染子がペロリと舌を出した。
「悪いわよ。先生って言わなきゃ。お爺さんだなんて……」
傍から八重千代がたしなめる。結い立ての日本髪が重たげであった。
「いいじゃないの。七十歳なら立派なお爺さんだもの」
染子は茶目ッ気のある笑い方をして辺りを見廻《みまわ》した。
「それにしても劇作家なんてたいしたもんね。来る人、来る人、有名人ばかしじゃないの。八重千代ちゃん、ぼやぼやしてないでパトロンを探すんならいいチャンスだよ」
「染子さんたら、馬鹿《ばか》ばっかし。そろそろ仕度をしないとお師匠《ししよう》さんに叱《しか》られるわよ」
八重千代は気取った歩き方で、今日の仮の楽屋になっている控え室の方へ去った。
「なにさ、まだ小一時間もあるのに……」
腕時計を覗《のぞ》いて染子は呟《つぶや》いた。ぶらぶらと受付の方へ出て見る。劇作家の祝賀会だけあって客は演劇界の人間が多い。歌舞伎や新派新国劇のスター級の男優、女優がひっきりなしに受付を入って来てロビーのそこここで談笑していた。
「染ちゃん……」
呼ばれて染子はふりむいた。
「あら、菊四ちゃん」
赤い豪華な絨毯《じゆうたん》を渡って近づいて来たのは中村菊四という今、売り出しの若|女形《おやま》である。能条寛の父の尾上勘喜郎らと同じK劇団に所属している。
「今日はお手伝なんでしょう。御苦労さん」
中村菊四は女形らしいもの柔らかな言い廻《まわ》しをした。瓜実《うりざね》顔の古風な美貌《びぼう》である。声も女のように細く甲高《かんだか》い。
「染ちゃんも今日の余興に出るの」
「出ますよ。�夢の浮橋�っていう新作御祝儀物だけど……」
そっけなく染子は答えた。どうも虫の好かない相手である。タイプも性格も染子の気性に合わないし、別にもう一つ、理由がある。
「あの……八千代ちゃんも一緒……」
お出でなすった、と染子は底意地の悪い顔になる。
「八千代ちゃんは別よ」
「踊るんでしょう。でも……」
「ええ、出ますよ。勿論《もちろん》……」
「なにを踊るの」
「プログラムをみたらいいでしょう」
「プロには余興、茜ますみ社中《しやちゆう》としか書いてないもの……」
菊四は切れ長な眼のすみで染子を見た。
「教えて頂戴《ちようだい》よ。染ちゃん」
「地唄《じうた》風で鷺娘《さぎむすめ》を踊るわよ」
「そりゃあ……」
「茜ますみ先生が何を踊るかは訊《き》かないの」
染子は皮肉っぽく言うと、さっさと中村菊四に背を向けた。
(色事師のくせして八千代ちゃんみたいな素人《しろうと》娘に眼をつけるなんて、身の程知らずな奴《やつ》ったらありゃしない……)
ぷりぷりしながらロビーを横切って行くと大きな壺《つぼ》に梅を挿した盛花の脇《わき》に紋付の幅広な後姿が見えた。背の紋が「揚げ羽の蝶《ちよう》」である。不機嫌が染子の頬《ほお》からすっと消えた。
(音羽屋さんが来てる……とすればもしかすると……)
人ごみを縫ってそっちへ進みながら、染子の眼は尾上勘喜郎の周囲へ素早く動いた。
探すまでもなかった。
黒のドスキンのダブルに、黒地の水玉の蝶ネクタイという、さりげない恰好《かつこう》の能条寛は父親の尾上勘喜郎のすぐ右隣で演出家風の男と立ち話をしていた。
(やっぱり来てる……)
染子は声をかけようとして慌《あわ》てて言葉を呑《の》み込んだ。能条寛の左前側に立って話の仲間入りをしているのが茜ますみだと気づいたからである。黒地に銀で波をあしらった紋付に青海波《せいがいは》の帯を締めている。上背とボリュームが日本人ばなれのした着こなしであった。
染子は廻《まわ》り道をして、そのグループの後側へ近づいた。茜ますみの背後だから、能条寛からは正面である。例によってポマードっ気のない短い髪をぼさぼさと額に散らして、映画俳優というよりスポーツマンと言った方がぴったりする寛の精悍《せいかん》な顔が見えた。
(どう見たって歌舞伎《かぶき》畑の人間じゃない)
傍にいる尾上勘喜郎の息子《むすこ》だというのが嘘《うそ》のようであった。それでいて面ざしはどことなく似ている。会話が聞えて来た。染子は立ち聞く心算《つもり》ではなしにそれを聞いた。
「なにしろ近頃《ちかごろ》の世の中はまやかしですからな。わけのわからないものが珍重され、筋の通ったものは敬遠される。全く馬鹿《ばか》げていますよ」
語気がかなり激しかった。こうした祝賀会のパーティでささやかれる会話にはふさわしくない。
声の主は演出家風の男だった。上背が高く、痩《や》せぎすなようでがっしりした肩幅である。
「小早川先生のお言葉を伺《うかが》うと本当に力強くなりますわ。私のようなものはもう時代から見放されてしまったのかと、実を申せば淋《さび》しく存じて居りましたの」
茜ますみのはなやいだ声で、染子はああ、そうだった、と一人合点した。
(小早川……)
その名前に記憶がある。顔もそう知ってみれば週刊誌なぞで何度かお目にかかっても居た。小早川|喬《たかし》という新進の演出家である。電子音楽を使って歌舞伎《かぶき》の演出をしたり、能にストリッパーを起用して、しばしば話題をばらまいている。年齢は四十歳前という事だが多少、老けて見える。
「大体、僕は芸術祭なんてものは価値を認めてないんですよ。それは、僕の演出したテレビドラマ、及び新劇の若手ばかりで構成した芝居が昨年と今年と連続して賞を貰《もら》いましたが、僕は正直言ってそれ程、有難がっちゃあいない。それだけの事なんですからね。賞をくれるというから、じゃ貰いましょうと言うね……」
小早川喬は不遜《ふそん》とも見える態度で続けた。
「はっきり言うが、茜さん、あなたの芸はまだ本物じゃない。怒ってはいけませんよ。ファンタスティックなものを内蔵しながら、それがうまく引き出されて来ないんですな」
茜ますみは細い眉《まゆ》をふるわせた。
「それは……どういうことでしょう。私の芸が未熟とは、わかっておりますけれど……」
芸にかけては自負心の強い女である。しかも茜流家元という肩書に遠慮して舞踊批評家もあまりずけずけした事は、面と向かって言うわけもない。
「芸が未熟だというのではありませんね。日本人にしては稀《まれ》な、女性としては得難いほどの感覚というのでしょうか、雰囲気というものか、とにかくそうした素晴らしい素質を具備しているくせに、今までそれを導き出す演出家にぶつからなかったということがあなたの不幸なんじゃありませんか」
小早川喬は自信たっぷりに茜ますみを見た。額の広い、鼻梁《びりよう》の高い、神経質な容貌《ようぼう》が如何《いか》にも芸術家タイプである。
「世辞を言うわけではないが、今度の受賞作品、深山里代の�四季の女�ですか、あれなんぞ全く頂けないですな」
深山里代の名が小早川の口から出たので、染子はなんとなく茜ますみの顔色を窺《うかが》う。生憎《あいにく》斜め後向きで表情は解らないが、思いなしか肩の辺りに緊張が走ったようだ。
(寛さん、こっちを見てくれたらいいのに……)
染子は少しばかりいらいらした。能条寛は話に夢中になっている風ではなかった。むしろ、小早川と茜ますみのやりとりにはまるで無関心を装っていた。話には興味がないが、座をはずすきっかけがないので止むを得ず同席しているといった恰好《かつこう》に見える。
(さっさと、こっちへ来ればよさそうなものだのにさ……)
寛のうつむきがちな姿勢を染子は怨《うら》めしげに眺めた。彼女にとっては有難くもない小早川の台詞《せりふ》がまだ聞こえてくる。
「大体、深山里代という人は日本舞踊の伝統をなんと心得ているのか。バレエのテクニックを日本舞踊に導入して云々《うんぬん》と立派そうな説明をしておるが、あれはバレエの衣裳《いしよう》を着て下手くそな日本舞踊を演じているだけではありませんか。猿真似も甚だしい。舞踊家としてもみすぼらしげでもの欲しそうだし、それに喝采《かつさい》する世評も愚かしい。そう思いませんか、茜さんは……」
茜ますみは眼を伏せたまま低く答えている。彼女の事だから、相手の言葉にすぐ迎合するはずはない。ライバルの悪口を内心では大喜びに喜んでも、表面はむしろ、かばうような態度に出ているに違いなかった。だが、茜ますみが小早川喬に深い関心を抱きはじめたのは、その物腰に、はっきりと出ている。
(うちのお師匠さんと来たら、全く八方美人なんだから……)
腹の中で染子が呟《つぶや》きかけた時、寛の視線がひょいと上がった。すかさず、染子が片眼をつぶってみせた。
寛は一度、染子から眼を逸《そ》らしゆっくりとタバコを灰皿に捨てた。
心得て染子は人のあまり集まっていないテラスの方へ歩き出す。丸い柱のかげで待っていると、はたして能条寛が大股《おおまた》で近づいてきた。
「やあ、お待ちどお……」
笑いかける頬《ほお》にえくぼが浮いた。
「お久しぶりね」
染子も微笑して言った。
「なんであんなつまらない話の仲間入りしてらしたの。阿呆《あほ》らしい」
「いや、別に仲間入りしたわけじゃない。たまたま僕の傍で、むこうが喋《しやべ》り出したのさ。仕様がない……」
「あんな所で油売ってる間に楽屋でも覗《のぞ》いたらいいんだわ。八千代ちゃんが踊るのよ」
染子はいたずらっぽく笑った。
「知らなかったでしょう」
「知ってるさ。茜ますみさんに聞いた……」
ぼそりと寛が応じて、染子は意外な目を向けた。
「知ってるなら、なんで控え室に来ないのよ。鷺娘《さぎむすめ》を京舞風にアレンジした素晴らしいのを彼女が舞うのに……。全部、白の衣裳《いしよう》で通して、しごきの色だけ変えて曲の変化を表現するのよ。いいアイデアでしょう」
「そうらしいね」
そっけない寛の相槌《あいづち》に染子は躍起になった。
「八千代ちゃん、きれいだから……白が似合う人でしょう。まるで花嫁人形みたいよ」
「そうかい」
「いいのよ。遠慮しないで見に行きなさい。もう、すっかり仕度ができている時分よ」
寛は知らぬ顔でタバコに火をつけた。虚々《そらぞら》しく煙を吐く。
「行かない気……」
「別に、僕が見なきゃなんないわけはないでしょう。彼女の師匠《ししよう》じゃなし……」
「へえ……、風向きが可笑《おか》しいのね」
染子は袂《たもと》から自分のシガレットケースを取り出しながら、男の横顔をまじまじと見た。
「わかったわ。彼女と喧嘩《けんか》したのね。道理で八千代ちゃん、ここんところ元気がないと思ったわ。ふうん、そうか……」
「喧嘩なんかしないさ。あんなオチャッピイを相手にしたって仕方がない……」
自棄《やけ》にタバコをもみ消した。
「わかりましたよ。なんとかは犬も喰《く》わぬという奴《やつ》でしょう」
染子に笑われて寛はむきになった。
「誤解も甚だしいね。染ちゃんの台詞《せりふ》だとまるで僕と彼女が恋人かなんぞのようじゃないか」
「あら、そうじゃないの」
「とんでもない」
「寛さんたら、私は何も新聞記者じゃないのよ。勿論、口外はしないわ。かくさなくっても大丈夫……」
寛は腹立たしそうに染子を見た。
「違うったら……断じてそんなんじゃないんだ」
染子の顔から微笑が半分、消えた。
「念のために言っとくけど、それ本気でしょうね……」
「ああ、本気さ……」
「私と八千代ちゃんとは無二の親友なのよ。なんでも打ちあけて話す姉妹みたいな間柄だってことは、寛さんもご存知だわね。その私が訊《き》いてるのよ。寛さん……」
濃い眉《まゆ》をきっとあげた。立ち役を得意とするだけあって、気性も竹を割ったような女だ。
「楽屋へ八千代ちゃんを見に行ってあげないつもり……」
「くどいねえ、君も……、男が行かないと言ったら行かないにきまってるよ」
「そう」
染子は全く微笑を消した。
「一つだけ教えてあげるわ。あんたのお父さんと同じ劇団の中村菊四、あいつが八千代ちゃんに大|熱《あ》つあつなのよ。それ聞いても平気でしょうね」
寛は薄く笑った。彼らしくない表情である。
「八千代ちゃんだって年|頃《ごろ》の娘だからね。惚《ほ》れる奴《やつ》の一人や二人なけりゃ気の毒じゃないか。売れ残らなけりゃいいがと心配してた所さ。中村菊四なら、ぐっとおめでたいね」
うそぶいて見せた寛を、染子はにらみつけた。生まれつき気の長い方ではない。
「ようござんす。その台詞《せりふ》そっくり八千代ちゃんに伝えてあげますからね。あとで後悔しても追っつかないよ」
「御念にゃあ及びませんね」
時のはずみ、言葉のはずみである。
「ふん、あんたもやっぱり細川昌弥と同じなんだ。せいぜいガスに注意しなさいよ。恋人を熱海まで呼び出しておきながら、死に神にとっつかれて自殺するなんざ、他人迷惑もいいもんだ。映画俳優なんてもんはどれ程、えらいか知れないが、人間的にゃなっちゃあいない。人の皮着た畜生って台詞《せりふ》をミキサーにかけて頭からぶっかけてやりたいね」
感情にまかせてぽんぽん言ってのけた染子の言葉に、寛の眼がキラリと光った。
「ちょっと待ってくれ、染ちゃん……、細川昌弥は誰《だれ》を熱海へ呼び出したんだ」
「きまってるじゃないの。あんたも頭がいい方じゃないね」
「りん子ちゃんか……」
染子の妹芸者のりん子は昨年、細川昌弥が自動車事故を起こした時、助手席にいて重傷を負った女である。傷はもう回復して再びお座敷に出ているが、スキャンダルとして新聞に書き立てられた心の傷痕《きずあと》はまだ消えてはいまい。
「さあね。それを聞いてどうする気さ」
染子はむかっ腹を立てた儘《まま》、突慳貪《つつけんどん》に言った。
染子の不機嫌に、能条寛はひるまなかった。
「細川がりん子ちゃんを熱海に呼び出す、それは何月何日っていう約束だったんだい。え、染ちゃん……」
ぶすっと唇を結んでいる染子へ追いすがるように言った。
「頼む、教えてくれよ。なあ……」
「一月十四日よ」
「一月十四日……」
寛はうなった。
「それに間違いはないね」
「間違える筈《はず》がないわ。りん子へ来た細川の手紙を私はこの眼で見たんですもの……」
「なんて書いてあった、それは……」
「十四日のハト号で大阪を発つから、熱海で落ち合おうってさ。りん子は一人で旅館へ入るのが嫌いだから熱海駅の待合室で待ってたそうよ。特急ハトが熱海へ着くのが六時二十八分、ちょうど暗くなってるから旅館へしけ込むには便利な時間ね」
怒っているから染子の言葉はきつい。
「十四日の午後六時二十八分……か。それで細川昌弥は来なかったんだな」
「来れる筈《はず》がありませんよ。彼はその頃《ころ》、神戸のアパートで冷たくなっちまってたんだもの。なんにも知らないりん子はかわいそうに、思い切れなくて十時近くまで駅に待ちぼうけ……。泣き泣き帰って来たときはまるで幽霊みたような恰好《かつこう》でさ。男はみんな薄情者よ」
「そうか……」
寛は眉《まゆ》を寄せた。細川昌弥の死が発表されたのは一月十五日の朝刊である。
「それで、くどいみたいだけど、細川からの手紙は何日付だったか知らないか……」
「速達だったわね。消印は確か十二日|頃《ごろ》じゃないかな。だってりん子の所へ来たのが十三日の午前中だったし……おまけに、その晩電話かけて来てね」
染子はいつのまにか話に気をとられて、立腹している事を忘れかけている。人の好い証拠だ。
「電話を……細川がか……」
「そう。神戸から長距離でね。りん子に熱海へ来れるかどうか確かめて来たのよ。行き届いたことでしょう……」
「それは何時頃……」
「おぼえてないわ。人のことだもの。それにお座敷の忙しい日だったから……」
「りん子さんは勿論、熱海へ行くと返事をしたんだろうね」
「きまってるじゃないの」
笑いかけて染子は先刻《さつき》の怒りを思い出した。表情が急にけわしくなる。
「能条さん、あんた、いつから俳優を止めて警察へ御転勤になったんです。それとも、今度の映画で刑事役でもなさるんですか」
苦笑して何か言いかける寛を尻目《しりめ》に染子はさっさとテラスを抜け出した。
寛が染子の後を二、三歩追ったとき、ボーイが慇懃《いんぎん》な態度でロビーやテラスの客たちにテーブルの仕度が出来たことを告げ、着席を勧めた。
止むを得ず寛も父親と並んで指定の席へ着く。祝賀会にはつきもののスピーチがいくつも続いて、宴会のコースになったが寛はなんとなく落ち着かない。
「ねえ、寛ちゃん、大阪はどうでした。なんか面白いことあって……?」
隣席から中村菊四がねっとりと訊《き》いた。あんまり好きな相手ではないが、父の劇団に所属している女形《おやま》だから、そうそっけなくも出来ない。
「いや、別に……」
フォークの手を止めずに寛は当たりさわりのない返事をした。
「そんなことないでしょ。週刊誌なんかに随分、書かれたわよ」
「そうですか……」
中村菊四の女性的な喋《しやべ》り方も不快だったし、それでなくても今日の寛の胸中はもやもやが渦を巻いている。
「おとぼけなさんな。ホテルに一人だけ一か月近くも泊まってたんですってね。東京の女の子が気をもんで大変よ」
菊四は切れ長な目で色っぽく睨《にら》んだ。寛は相手にならない。
「映画俳優はいいわね。修業もなんにもしなくったって階段を一足とびにとび上がれるし、自家用車を運転して、バーを飲み歩いて、女の子にもてて……」
一人言めかしく菊四は言い続けた。
「でもね、気をつけた方がよくてよ。近頃《ちかごろ》の女は計算高いし、ちゃっかりしてるしね。それに執念深いもんだから、どんなことであげ足をとられないとも限らないからねえ」
寛は無言でフォークを置いた。ビールのコップに手をのばす。
「週刊誌なんかにも悪質のがあるんでしょ。実話雑誌の記者にかぎつけられないように情事をたのしむ方法っての、寛ちゃん、私にも教えてよ」
「菊ちゃん……」
じろりと寛が目をあげた。
「大阪の曾根崎にパピロンってバーがあるんだってね」
寛は微笑してゆっくり続けた。
「よしえっていう女の名前、憶《おぼ》えてるかい。細面の、寂しそうな……」
菊四は絶句した。やり場のなくなった目を運ばれた料理に落とした。
「俳優なんてものは女性関係にルーズだって言われるけど全部が全部そうじゃない。たまたま女にもてる立場を悪用する奴《やつ》がいるんで俳優全体が不名誉な噂《うわさ》を頂いちまうんだ。そういう奴にお目にかかったら、頭からひやっこいビールでもぶっかけてやりたいね」
寛はコップの冷たい液体を心地よさそうに飲みほした。
食事が一通り済むと南側のしきり戸が開かれた。金|屏風《びようぶ》をめぐらし、仮舞台が出来ている。鼓の音が高く響いて、最初が茜ますみの「松の扇」、以下、御祝儀物が若い門下生によって舞われた。
浜八千代の「鷺娘《さぎむすめ》」が始まる前に能条寛はさりげなく席を立った。
「寛、どこへ行くんだ」
尾上勘喜郎が怪訝《けげん》そうに息子《むすこ》を見る。寛は苦笑して軽く肩をすくめた。
「つまんない意地を張るもんじゃない」
「そうじゃないんだよ、ちょっと電話してくるのさ」
しかし、父親は何もかも見透したような眼でうなずいた。
「早く戻って来いよ」
「ああ」
寛はロビーへ出て電話を探した。受話器を取ったが別に用事もないし、適当に電話をする相手も思いつかない。
折も折、流れてくる長唄は「鷺娘」である。八千代の白無垢《しろむく》の娘姿が目に浮かんで、寛はひどく子供っぽい表情になった。
(はねっかえりのおたふく奴《め》……)
一週間ばかり前のキャンドルで僅《わず》かの、いさかいが、つい売り言葉に買い言葉でつまらない喧嘩《けんか》別れをしてしまった。
(折角、二か月ぶりで逢《あ》ったのに……)
少々は自分の意地っぱりに後悔も湧《わ》いたが、男の方から頭を下げるのは安っぽいような気がするし、
(あやまるのは女の役目だ……)
と寛は思っている。それにしても八千代の強情なのにも驚いた。せめて二、三日経ったら電話くらいかけて来そうなものだと多寡《たか》をくくっていたのだが、案に相違して梨《なし》のつぶてで音沙汰《おとさた》もない。
(勝気な奴《やつ》だとは知っていたけど……)
気の強い女ほど手に負えないものはないと寛は別に腹を立てた。
(八千代ちゃんって、全く俺《おれ》に気がないのかな……)
とそれも男としてはなんとなく忌々《いまいま》しい。
(俺だって別に彼女に惚《ほ》れてるわけじゃなし、幼な馴染《なじみ》で、妹みたいな気持ちがあるだけなんだから……)
理屈をつけてみても、やっぱり寛は落ち着かなかった。神戸まで行ってわざわざ八千代のために買って来たローマンピンクのハンドバッグとお揃《そろ》いのハイヒールも手渡さないまま、寛の部屋の旅行|鞄《かばん》の中に収っている。
(いい加減に休戦を申し込んでくりゃいいのに、馬鹿《ばか》な奴だ……)
寛はついに受話器を戻すと、ロビーを引きあげた。
が、席へ戻ってみると舞台は「藤娘《ふじむすめ》」だった。踊っているのも浜八千代ではない。
「今、終わった所だよ。八千代ちゃん、きれいだったねえ……」
尾上勘喜郎は息子《むすこ》の表情をしげしげと見ながら聞こえよがしに言った。
「ふん、そう……」
寛はぼそりと席へ坐《すわ》った。わざと席をはずしたくせに、見そこなったとなると物足りない。損をしたと思った。
「八千代ちゃん、踊りながら、こっちの方ばかり見てたぞ。お前が見つからないんで寂しそうだったよ。俺《おれ》の気のせいかも知れないがね」
そう聞くと寛は急に八千代がいじらしくなった。正直なもので親父の前だが照れくさい。
「俺、楽屋へ行ってくるよ」
そわそわと出て行く息子《むすこ》を尾上勘喜郎は微笑して眺めていた。
だが、楽屋になっている控え室のドアの前で、寛の足は釘《くぎ》づけになった。入口の所で、まだ衣裳《いしよう》のままの八千代が立ち話をしている。相手は中村菊四であった。二人の笑い声が親しげである。八千代が先に寛を見つけ、彼女の視線につられて菊四がふりむいた。奇妙な沈黙が、背後から染子の甲高《かんだか》い声で破られた。
「あら、寛さん、あんた何しに来たの」
染子は何か言いかけた八千代を制した。
「やっちゃん、ぼんやりしてないで早く衣裳がえをなさいな。今夜は会が終わったら菊四さんがナイトクラブへ連れてって下さるってねえ、菊四さん、そうだったわね」
菊四は千両役者のようなうなずき方をした。ちらと八千代を見る。
「そうなんだ。もし八千代ちゃんがよければ誘いたいんだけどね。疲れてるかしら」
八千代の眼が自分へ向けられたと知って、寛は無意識にそっぽをむいた。もの欲しげな男に見られたくない。
八千代が低く、しかし、はっきり答えた。
「染ちゃんがよければ、私もお供しますわ」
おいかぶせて染子が言った。
「私は行くわよ。今夜は陽気にさわいじゃおうか、ね、菊四ちゃん」
「賛成ね。じゃ、私は会が済んだら、T劇場側へ車を回して待ってるからね」
菊四は寛を尻目《しりめ》にかけて、意気ようようと楽屋を出て行った。
「さあ、私たちも着がえましょう、さ、やっちゃんったら……」
染子は強引に八千代の背を押して控え室へ入るとドアをぴっしゃり、閉めてしまった。
寛の憤懣《ふんまん》、やる方ない。
(ふん、そっちがその気なら)
もう宴席へ戻る気はしなかった。踊りなんぞ馬鹿《ばか》くさくて見ようとも思わない。
廊下伝いにこのホテルのバーへ行った。なかは暗い。ブランデーを注文してたてつづけに二杯。ふと、隅の客の声が耳に入った。男と女である。寛は止まり木に坐《すわ》った恰好《かつこう》で、さりげなく声のするソファの方を見た。
ひそひそと顔を寄せて話し合っている男女は、茜ますみと小早川喬であった。彼らも宴席を抜け出して来た組であろう。
二人の前のテーブルにはスコッチウイスキーがおかれ、茜ますみの後姿はかなりの酔いを見せていた。そうでなくても色っぽい体と動作の女なのである。
小早川喬は相変わらずの演劇論を喋《しやべ》っていた。フロイド学説が取りあげられるかと思うと日本神話がとび出し、続いて俳優無用論に変わるという奇想天外な話しっぷりである。
向かい合って聞かされている茜ますみの表情は解らないが、熱っぽい声で相槌《あいづち》をうち、深くうなずいている様子からは相当に小早川喬の弁説に惹《ひ》き込まれている。
(小早川教の信者が又一人増えたか……)
不機嫌な顔でブランデーをなめながら、寛は苦笑する。
演劇畑でも、日本の古典的芸能例えば能や狂言、歌舞伎《かぶき》の世界にも小早川喬の奇抜で突拍子《とつぴようし》もない演劇論に傾倒し、彼を教祖の如く崇拝して止まない若いグループがある。
「一度、小早川先生の話を聞いてごらんよ。必ずプラスになるからな……」
と寛も、かつての歌舞伎出身の舞台俳優に勧められた事があるが曖昧《あいまい》な返事をしたきり実行しなかった。
日本演劇の改革を叫ぶ彼の理論は筋も通っているし、確かに立派なものだとは寛も思う。実力者であることも認めていた。しかし、
(人間的にどうも尊敬出来ない男だ……)
それと、彼のはったり的な性格が、生一本で芯の強い寛にはやりきれない。
(所詮《しよせん》は他山の石だ……)
と寛は考えている。
だから普段は意識的に近づかないし、話しかけられても無視する事が多いのだが、今日は止むを得ず、彼の傍に居て、その説を聞いた。理由は、小早川喬の話相手が茜ますみだったからである。
大阪から帰って来て以来、寛は茜ますみに関心を持っている。勿論、男として茜ますみの女に興味を持ち出したわけではない。
(当分、茜ますみから眼を放さない方がよさそうだ……」
そのためには最も有用な協力者となるべき浜八千代に、彼はまだ助力を頼むチャンスがない。
それと……。八千代と話し合ったら、是非とも二人で出かけて見たい所がある。
修善寺の笹屋旅館である。
(まずいかな。若い者同士二人っきりで温泉場へ出かけるのは……)
どうもそれを切り出すのは照れくさいし、八千代がおいそれと同行してくれるかどうか危ぶまれる。彼女が引き受けたとしても、彼女の母親がまず承知しまい。
(やっちゃんが行ってくれないと厄介なんだがなあ……)
能条寛が修善寺行を計画した目的は実地検証のつもりである。
なににしても早急に八千代と話し合いたいのだが、
(仕様がねえな。普段は女探偵を気どるくせに、肝腎《かんじん》かなめの時に意地なんか張りやぁがって……魚が逃げない中《うち》に釣り仕度をしちまいたいのになあ……)
寛は所在なげにカウンターの上のダイスを取り上げた。
乱暴な扱い方をしている中に、ついサイコロの一つが転げてカウンターの隅へとんだ。サイコロの止まった所にビールのコップがあった。老紳士が止まり木にかけていた。
「どうも失礼しました」
寛は詫《わ》びて、サイコロを受け取った。老紳士は眼鏡《めがね》の奥で微笑している。
痩《や》せぎすだが品のいい老人である。服装もいい。英国製でもあろう茶系統の背広がぴったりと身についている。それでいて堅苦しい感じがない。
ダイスを止めて、寛は又、飲みはじめた。
(会社につとめている人ではないな……)
さりげなく老紳士を窺《うかが》う。作家か詩人か、画かきか、音楽家か……とにかく自由業の人間だろうと寛は見当つけた。
このホテルのバーは大体、外人客以外はそうした文化関係の固定客が多いと知っているせいもあったし、紳士のもつ雰囲気がそんな感じだったのでもある。
急に茜ますみが立ち上がった。足元が僅《わず》かだがもつれて、踊りの素養を巧みに利用した姿勢が見事だった。
「先生、私、もっともっと先生のお話が伺《うかが》いたいわ。先生のお話ですと、私、今までとは全然、新しい空を覗《のぞ》かして頂けるような気がしますの」
かすれたような低い声が官能的に響く。
「僕も今夜はまだまだ喋《しやべ》り足りない気持ちですよ。なんなら場所を変えてお話しましょう」
「嬉《うれ》しいわ。先生」
茜ますみは全身で小早川喬へもたれかかった。
「しかし、舞台の方はいいんですか」
「かまいませんの。内弟子たちが心得ていますから……」
「それじゃあ……」
小早川は茜ますみの肩へ手を回して、バーのドアを押した。見送って、寛も勘定をすませて出た。
暗いホテルの横の出口へ向かってもつれ合うような恰好《かつこう》の二人が歩いて行く。後を追う気はなくて、寛はなんとなく立っていた。ふと廊下の角に男がいるのに気がついた。その男は寛に気づかない。じっとホテルを出て行く男女の姿を見つめている。その眼の奥に男の嫉妬《しつと》がギラギラと燃えている。茜ますみの内弟子の五郎の紋付姿を寛はあっけにとられて眺めた。
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