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黒い扇11

时间: 2019-12-08    进入日语论坛
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誤 解

ロケーション二日目は午前三時で終わった。
「お疲れさん」
どやどやとロケ隊の一行は定宿になっている那須《なす》温泉「石日荘」へ引き揚げてきた。
「どうだい、寛ちゃん、日が落ちるまでに一コース回ろうじゃないか」
今西監督はジャンパーをスポーツシャツに着替えて能条寛の部屋を覗《のぞ》いた。
「いいですね。出かけましょう」
一汗流しての浴衣《ゆかた》姿を大急ぎで着替えると、寛は今西監督と桜井カメラマン、それに今度の映画で相手役をしている平野雪子、助演の小林|晃《あきら》らと揃《そろ》って、「石日荘」を出た。
ゴルフの道具は手回しよくゴルフ場のロッカーへあずけてある。
「今度の仕事は全く快適ですよ。ゴルフをたのしみながら商売になる。ロケも又たのしからずやですな」
映画生活三十年というベテランの脇役《わきやく》、小林晃が人の好さそうな眼を細くした。ゴルフ歴も二十年近くなるというから昨日今日のゴルフブームに浮かされてクラブを握った連中とは桁《けた》が違うというのが彼の自慢でもある。
「いや、今西さんは良いロケ地をおえらびなすったもんだ」
と、これはゴルフ狂の桜井カメラマンが冗談らしく笑った。
那須のゴルフ場は能や歌舞伎《かぶき》で有名な「殺生石《せつしようせき》」の伝説の跡を右に見て、なだらかな坂道を上り切った所にある。背後には茶臼《ちやうす》山が淡く煙を吐き、初夏のスロープは緑一色に広々と明るい。
「寛ちゃんはここのゴルフ場は今度がはじめてかい」
身仕度をしながら今西監督が訊《き》いた。
「はあ、ゴルフ場としては初めてですが、冬にスキーをやりに来たことがあります」
寛は空の色に溶けこみそうなブルーのスポーツシャツの胸を張って答えた。
ゴルフ場はかなり混んでいた。週末でもあり、五月晴れのゴルフ日和《びより》なのである。
「一服してから回りますよ。どうぞ、お先に……」
コテッジの二階にある喫茶室へ寛は一人で身軽く上がって行った。
喫茶室はその割にすいていた。片隅に、四、五人の重役タイプのグループがスコアを見せ合いながら葉巻をくゆらしている他は、窓ぎわの席に若い女性が一人、ぽつんと芝生を見下ろしているだけである。
ボーイにコーヒーを頼み、寛は空いているテーブルの前へ落ちついてポケットへ手を入れた。煙草を出し、ライターを探した。無い。ズボンのポケットにマッチもなかった。うっかり撮影用の背広の中へ入れっぱなしで来てしまったらしい。ボーイへマッチを頼もうと手をあげかけて、寛は眼をあげた。
白い手がすっと伸びて、
「よろしかったら、どうぞお使い下さい」
寛へ向かって差し出されたのは女持ちの洒落《しやれ》た赤いライターであった。
下の三分の二くらいが透明になっていて、そこに熱帯魚のアクセサリーが入っている。
「や、こりゃあ……」
寛は戸惑った眼をライターからその持ち主へ向けた。
白のサマウールにグリーンのふちとりをしたシャネルスーツに中ヒールをはいている。女性ゴルファの恰好《かつこう》ではない。痩《や》せぎすで背もすらりと高い。いささか理性的でありすぎるのが冷たい感じだが、整った美貌《びぼう》である。年齢は二十三、四だろうか。
差し出したライターを自分から火をつけようとしない動作に素人娘のエチケットがはっきりしている。
「どうぞ……」
唇だけでもう一度勧めて、はにかんだ顔をそっと窓の方へ向けた。
「拝惜します」
素直に寛はライターをつけた。パシッと消して、
「どうもありがとうございました」
相手の前へ戻す。
「ゴルフはなさらないんですの」
娘はつつましやかに、しかしはきはきと訊《き》いた。
「これからです。なにしろ始めたばかりで雑魚《ざこ》のトトまじりですからね。ベテランと一緒じゃ骨が折れるんです」
寛は白い歯並を覗《のぞ》かせて快活に笑った。相手の年|頃《ごろ》が浜八千代と同年ぐらいだし、いわゆる素人《しろうと》のお嬢さんらしいのも、彼にとって話し易かった。
「あなたは、おやりにならないんですか」
「ええ、わたくしは出来ませんの。今日はお供ですわ」
窓からスロープを眺めながら娘はコーヒーを飲んでいる寛をさりげなく観察しているようであった。
パシッ、パシッという球をとばす音がしきりに聞こえる。寛はコーヒー茶碗《ぢやわん》を持ったまま窓から外を覗いた。
「寛ちゃん、早く来いよう」
桜井カメラマンが下からどなった。
「いま、行きますよ」
コーヒー茶碗をテーブルへ戻して立ちかけると、思い切ったように娘が声をかけた。
「能条さん……」
「え……」
やっぱり知っていたのかと寛は思った。映画俳優で、しかも人気投票には必ず三位以内に入るほどの人気スターであれば、顔を知らないほうが可笑《おか》しいみたいなものであるが、映画俳優、能条寛と知っていてライターを貸してくれたのかと思うと、味気ない。
「T・S映画の能条さんでしょう。でしたら私、是非、お話したい事があるんですの。お話というよりおわびしたい事なんです……」
意外な相手の台詞《せりふ》に、寛は驚いた。
「おわびしたいって……いったいなんですか……なんの事です」
娘はふっとうつむいてしまった。咄嗟《とつさ》にどう言ったものかと迷っているらしい。
「僕は……失礼だがあなたにお目にかかるのは今日がはじめてだと思うんですが……初対面のあなたに詫《わ》びられる事なんか……」
「いえ、能条さんは御記憶がないでしょうけれど、私は以前にお目にかかったことがございますわ」
「それは失礼しました」
会釈して寛は相手を正面から見た。憶《おぼ》えはない。第一、相手はまだ名前も告げていないのだ。
「申し遅れました。私、細川昌弥の妹の京子でございます」
「君が細川君の……」
言われてみれば確かに逢《あ》っている筈《はず》だった。三、四年前、T・S映画主催のレセプションの席上で、先輩スター細川昌弥の妹として紹介されている。
「そりゃあ失礼しました。あの時は僕、映画へ入って間もなくの事でなにもかも新しずくめ、初対面ばかりですっかりアガっていたもんで……」
それにしても見違えるのは無理もないと、寛は内心、舌を巻いた。あの時は髪もお下げだったし、お化粧っ気もない、まだ子供子供した京子だったが……。
「私は、身勝手な言い方なんですけど、能条さんをお怨《うら》みしていましたの。ええ、理屈に合わないことは承知なんです。だって能条さんがT・S映画にお入りになってから、兄の人気は目に見えて下り坂になってしまいました。これはという作品の主役も必ずと言ってよい程、能条さんへ行ってしまう。兄の悩むのを身近かで見ているにつけ、たまらなくなってしまって、能条さんさえ映画へお入りになりさえしなければなんて……兄のライバル意識が私にまで伝染してしまったのかも知れませんわ」
寛は適当な応答が出ないで、細川京子を見守るばかりだった。
「身びいきって馬鹿《ばか》なものですわ。兄の欠点がわかりすぎるくらい解っていても、やっぱり他人を怨《うら》みたくなる。私って本当に嫌な女でしたの」
「いや、それが本当でしょう。人情として誰《だれ》でもそう思いたくなるものですよ」
「お許し下さいますかしら、私の気持ち……」
京子は、はにかんだ微笑を寛へ向けた。
「許すも許さないもありませんよ。正直言って僕は細川君に一度もライバル意識を持ったことはないんです。キザに聞こえるかも知れないけど。本当に……」
寛は言い回しに苦労しながら答えた。
「ええ、それは兄もよく承知しておりました。能条さんに競争意識がないだけに一層、無視されているようで口惜《くや》しい、なんて……。兄が悪いんですわ。演技力もないくせに浮ついた人気に溺《おぼ》れて、女関係はだらしがないし、お酒は飲む、夜ふかしはする、あれでは良い仕事なんか出来る筈《はず》がないんです。ライバル意識と言って、能条さんと演技の上で勝負する気になればまだしも、ただむやみに眼の仇《かたき》にするだけなんですものね」
京子は自嘲《じちよう》を噛《か》みしめて微笑した。
「かわいそうですわね。死んだ人のことを今更、責めてみても……」
寛は沈鬱《ちんうつ》に頭を垂れた。
「そう言えば、細川君は……」
あんな事になってしまって、と言いかけた語尾を口の奥で消した。
「馬鹿《ばか》な兄ですわ。もし自殺したのだとすれば……」
ゆっくりと京子は寛の眼の中を覗《のぞ》くようにした。
「ねえ、能条さん、あなた私の兄の死をどうお思いになります。新聞でごらんになったでしょう、あの当時……」
「どう思うって……」
「つまり、死因ですわ。警察では自殺と断定してしまいましたけど……」
「自殺ではないとおっしゃるんですか」
窓の外が急ににぎやかになった。コースを終えて戻って来たグループがあるらしい。
「自殺でないとすると……?」
寛は細川京子の整った横顔をみつめた。
「京子さんは、どう考えていらっしゃるんです」
「さあ、自殺でなければ過失死、他殺、まだありますかしら……」
「京子さん、僕をからかうんですか」
「いいえ、そうじゃありませんの」
京子は階下の声を気にしていた。彼女の連れが帰って来ているようだ。
どやどやと数人の足音が喫茶室へ上がってくる。京子は腰を浮かした。階段の方に注意しながら口早やに言った。
「私、兄の死因に疑問を持っています。不審な事が多すぎるのです。一度、私の話を聞いて下さいませんか。あなたに聞いて頂いて判断して貰《もら》いたいんですの」
「しかし……」
寛には京子の真意が計りかねた。
「あの……東京へは何日|頃《ごろ》お帰りになりますの」
「ロケの予定はもう五日ばかりで帰京する筈《はず》ですが……」
「その頃、お宅か撮影所へお電話してはいけませんかしら、御迷惑とは思いますけれど、私、誰《だれ》も相談するような人がないんです」
哀願するような瞳《ひとみ》に、ついうなずいて寛は立ち上がった。入れ違いに五十年輩の男たちが喫茶室のドアを押して入って来た。その中に大東銀行の頭取岩谷忠男のでっぷりした赧《あか》ら顔があるのを寛はまるで気づかなかった。
那須のロケは予定より雨のために三日遅れた。帰京するとセットの撮影が続き、寛は青山の自宅と多摩川べりの撮影所とを連日往復して過ごした。
細川京子の言葉も忘れたわけではないが、仕事に打ち込むと他事は思慮の中から追い出してしまうのが寛の主義である。つい、彼女との約束も疎遠になっていた。
付き人の佐久間老人が電話を取り次いで来たのは夕方に近かった。寛はセットを終え、控え室で化粧を落していた。
「ぼん、細川はん言わはる女の人からお電話だっせ、どないしはります。後援会の方やないらしいが……」
「細川……」
そうか、と寛は受話器を受け取った。流れて来た柔らかな女の声はやっぱり細川京子であった。
「お仕事、お忙しいんでしょう……」
心細げな調子に、ふと寛は憐《あわ》れみを感じて快活に応じた。
「いや、もう二、三日でアップですから……」
「じゃ、追い込みですのね」
「僕の出るシーンは殆《ほと》んどあがっちゃいましたよ。もう楽ですね」
電話線のむこうで京子はためらっている様子だった。
「あの、いつぞや那須でお願いしましたことね、聞いて頂けませんかしら……」
寛は傍の佐久間老人が驚く程の安請け合いをした。
「いいですよ。僕でよろしければ……そうですね。今日でもいいんですか、それだったら、これから……今、どこにいらっしゃるんです」
細川京子の声は銀座と答えた。
「お仕事のほうはよろしいんですの」
心配そうに念を押されて、寛は一層、元気になった。
「かまわないんです。今日はちょうど済んだ所です。他に約束もありませんから……」
ふと、寛は先だって電話で浜八千代が、仕事が早く済むような日があったら知らせてくれと言って来たことを思い出した。
(いいさ、やっちゃんのほうはなにも今日に限ったことではなし……)
咄嗟《とつさ》に寛は判断した。彼女との親しさが、つい気易《きやす》だてにそんな思慮を生んだものだ。
「そうですね。これから車で行きますから、銀座のどこかで待っていて下さいませんか、どこでもいいですよ」
寛の言葉に、細川京子は七丁目のSパーラーを指定した。
「ぼん、どういう人ですねん……」
受話器を置くと、佐久間老人が蒸しタオルを寛へ渡しながら、心もとなげに訊《き》いた。
「ゆっくりの説明はあと回しだが、細川昌弥君の妹さんだよ」
周囲に人がいないのを確かめて寛は言った。
「細川はんの妹さん……」
佐久間老人は不思議そうに寛を見た。
「そやったら、京子さん言う人だっか」
「そうだよ」
タオルで顔や手をごしごし拭《ふ》きながら寛は机の上の飾り時計を気にした。五時を十五分ばかり過ぎている。
多摩川を後にしたこの撮影所から都心の銀座までは、どうとばしてみても三十分では無理だった。まして夕方は車のラッシュ時間でもある。
手早くスポーツシャツの上に淡いグレイの背広を引っかけて、
「あとを頼むよ」
そそくさとドアに手をかける寛へ、佐久間老人は慌《あわ》てて追いすがった。
「明日は午後二時からセットだす。あまり夜ふかしはあきまへんえ」
「わかってるよ」
寛は苦笑した。いつまで経っても子供あつかいをやめない、この老付き人は寛にとって、父の尾上勘喜郎よりも苦手である。
「青山へのお帰りは何時|頃《ごろ》になりますねん。奥様に御報告せんならんよって……」
佐久間老人は執拗《しつよう》に喰《く》い下がった。
「そんなこと、わかるもんか、出たとこ勝負だもん……」
うるさくなって少年じみた口調でそっけなく応じてしまってから、寛は思い直して言い足した。
「なるべく早くに帰るつもりだけどさ」
佐久間老人は真面目《まじめ》に受けた。
「そやったら、なるべく早うにお帰りやす。悪い女子はんに引っかかったら、あきまへんよってな」
寛は吹き出したくなるのをこらえて撮影所内の駐車場へ走って行った。
「お疲れさん」
すれ違った所員へ明るく声をかけて、寛は車をスタートした。
「全く、佐久間のおやじと来たら人をなんだと思ってやがんだろう、かなやしねえ」
機嫌のいい舌うちをして、寛はスピードを早めた。
渋谷までは調子よく来た。が、それからがまずい。信号は赤にばかりぶつかるし、殊に赤坂をすぎる辺りからは多すぎる車の量に徐行が続いた。
銀座の七丁目の路地へ車を止め、寛はSパーラーのドアを押した。店内には年輩の客が多かった。服装もオーソドックスな連中ばかりだ。店の雰囲気がそうした客種とマッチしている。
二階へ上がった。細川京子は和服だった。ひっそりと立って寛を迎えた。羽織を着ない帯つきの姿が季節にふさわしい。淡い藤《ふじ》色に白と黒の線描きの和服が京子を年齢よりも老けてみせていた。
「お待たせしちゃって……車が凄《すご》い混雑なんですよ」
寛はボーイにレモンジュースを頼んだ。口の中が乾き切っている。
「いいえ、私こそ、無理を申しまして……お疲れの所をすみません」
京子は伏し目がちに言った。和服のせいか那須で逢《あ》った時よりもかなり大人びて見えた。態度もつつましい。
サングラスをはずしかけて、寛は店内の客を意識した。このパーラーには花街の人間も好んで利用する。父の尾上勘喜郎の後援会のオバサマ族に長|挨拶《あいさつ》をされるのも迷惑である。が、幸い、パーラーの二階には恋人らしい一組がひそやかに話している以外に、客はなかった。珍しく閑散としているのである。
「あの、早速みたいですけれど、那須でちょっと申し上げましたように、私、兄の死因に疑いを持っているんですの、そのことについて是非、どなたかに聞いて頂きたいとかねがね考えていました」
「細川昌弥君の死因に疑問を持たれたとおっしゃると……」
寛は前髪を指ですくった。考えごとを始める時の彼の習癖である。
「はっきり申しますわ。兄は自殺ではないと思うんです。兄が、自殺する理由も動機も私にはないと言い切れます。自殺する筈《はず》がないという根拠の方がむしろ多いんですもの」
京子はレースのハンカチを指先で弄《もてあそ》びながら、目はまっすぐに寛へ向けて言った。
「兄がガス自殺とみえる死に方をしたとき、ジャーナリズムや一般の人たちは、兄の人気が下り坂なこと、契約問題のもつれ、などを理由にあげていましたけれど、人気が下り坂なのは一昨年頃からのことで、なにも今年になってどうのこうの、と言うわけではございませんわね。それは能条さんもよく御存知と思います」
ボーイが音もなく銀盆を捧《ささ》げて来た。レモンジュースを寛の前へ置く。
寛は京子の前の紅茶|茶碗《ぢやわん》が、とっくにからになっているのに気がついた。
「京子さん、あなたもなにか召し上がりませんか。どうです、アイスクリームなんかは……」
京子は素直にうなずいた。
「頂きますわ。バニラで結構よ」
ボーイは再び、丁重な会釈をして去って行った。
窓の外を夕風が吹いて過ぎる。街路樹がさやさやと音をたてているのが如何《いか》にも初夏の暮れ方らしい。
「それから、T・S映画を出て、大日映画へ変わるということなんですけど……」
京子は声を細めて続けた。
「形は大日映画から引き抜かれたというようになっていますけれども、実際には人気スターの奪い合いみたいな派手な事ではありませんのよ」
寛はゆっくりとストローを細長い紙袋から抜いた。話の内容が内容だけに、うっかりした返事が出来ない。
「人気も落ち目の、しかもスキャンダルで叩《たた》かれた細川昌弥にT・S映画がそれほど未練を持たなかったのは、むしろ当り前かも知れません。演技力がずば抜けているわけでもないし、兄の美貌《びぼう》だって、一と昔前ならどうかわかりませんが、今の時代には甘すぎて売り物にならない、とよく言われていました」
京子の言葉は事実だった。鼻筋が細く、きりりと上がり気味の眼、男にしては小さめな口許など、整いすぎた細川昌弥の容貌は、女性的な甘さが濃く、華奢《きやしや》な感じで当代好みのタフガイとは縁が遠かった。
寛は目の前の京子を今更のように見た。鼻も口許も、眼も細川昌弥によく似ている。血は争えないものだと思った。
「細川さんは他にご兄弟は……」
さりげなく寛は訊《き》いた。
「ありませんの。私と兄と二人っきりですわ。両親は私が小学生の時分になくなりましたの。父は戦死です。ビルマで……母は胸を悪くして……」
「そりゃあ……」
寛は語尾を呑《の》んだ。はじめて聞く事であった。
「ですから私……ほとんど兄に育てられたも同然なんです。外ではいろいろに言われてましたけど、兄は私にはやさしい、親切な人でした……」
京子は窓へ視線を避けた。女の感情が声にも姿にも滲《にじ》んでいた。そんな京子に、ふと寛は親しみを感じた。
「そう言えば、細川君の妹さん想いはスタジオでも有名でしたよ」
昨年はじめて一緒の仕事で北海道へロケに行ったときチーズ飴《あめ》だの熊の木彫りだのを、
「妹に送ってやるんだ」
と嬉《うれ》しそうに、店員へ発送を依頼していた彼を、寛は思い出した。
細川京子は淋《さび》しげに微笑し、途切れた話をつないだ。
「T・S映画では兄を、もう無理に引きとめる気はなかったようでした。そればかりか出て行きたいものはさっさと出て行けがしの態度だったようです。無理はありません。兄はある程度、自暴自棄になっていて、勝手に仕事をすっぽかしたり、遅れてスタジオ入りしたり、人に嫌われる事ばかりしていたのですものね。それでも、自分の悪いことは棚にあげて兄はT・S映画の無情を怨《うら》んでばかりいました。そういう時はまるで女みたいにねちねちした感情を持つ兄だったんです。そっちがその気ならT・S映画へ一と泡吹かせてやろうなんて言い、その兄を大日映画のほうでもそそのかす人があって、兄はちょうど主役で撮影中の�疾風|烏組《からすぐみ》秘話�を途中にして雲がくれみたいなことを致しました」
ボーイが持って来たアイスクリームを一さじ口へ運んで京子は自嘲《じちよう》めいた笑いを浮かべた。
「兄の雲がくれは、T・S映画へ損害を与えると同時に、一種の人気取り的な意味が強かったと思います。勿論、真相が知れればT・S映画だって黙っていますまいし、賠償金の問題も当然、起こる筈《はず》ですけれど、それに対する方法も兄は大日映画の方から智恵《ちえ》を授けられていたようで、ひどく強気でした」
「なるほど……」
映画界のカラクリを多少は耳にし目にも見て来た寛には、京子の言う意味がある程度、推察出来た。
「兄を強気にさせた理由はまだ、あります。兄の婚約のことをお聞きになりませんでしたかしら」
「細川君の婚約っていうと……」
寛は今年の一月、大阪で週刊シネマの記者から耳にした細川昌弥の新しい愛人の話を思い出した。
「人もあろうにれっきとしたお嬢さんが、細川のような女たらしに熱をあげているんですよ。大日映画の社長の令嬢という噂《うわさ》でしてね。もし噂が本当なら、こいつは細川にとって色と欲の両|天秤《てんびん》ですからな。彼としてもこの辺りでじっくり思案するところでしょうよ」
と語っていた週刊シネマの記者の調子を、寛は例によって口さがないゴシップ種と受け取って聞き流していたものだったが……。
考えてみるとその話を聞いた直後、細川昌弥が雲がくれし、間もなく自殺ということになったものだ。
能条寛は死んだ細川昌弥によく似た眼鼻立ちの京子へ改めて訊《き》いた。
「京子さん、すると細川君は婚約……いや自殺する直前にでも婚約したような事実があったのですか」
京子はゆっくりと、うなずいた。
「兄は婚約致しました……」
「それは何日のことです」
「自殺する一週間ほど前ですの」
「失礼ですが、相手の方は……?」
京子は唇にかすかな微笑を浮かべた。悲しみにも似た眼で寛をみつめた。
「あれほど、女関係の乱れていた兄でございます。何人もの女の方と深い交渉を持ち、或《あ》る方とは同棲《どうせい》みたいなことまでして、後くされもなく別れたり、女と遊んでも最後まで結婚とか夫婦になるとか言う約束をしない、そういう言質《げんち》を女にとられないのが本当の色事師だとうそぶいていた兄が婚約にまでふみ切った相手ですのよ……」
寛は京子の口許を注目した。
「兄が結婚への決心を固めた理由はなんだとお思いになります。勿論《もちろん》、愛情ではございませんわ。兄は女の愛情を頭から否定していた男ですから……」
古風なパーラーのシャンデリアの光の下で、京子の顔は蒼《あお》く、肌は透明なまでに灯の色を映していた。
「兄が婚約した理由は一にも二にも自分の利得のためでした。エゴイズムからですわ。兄が求めていたのは安定した地位、それにお金、もう一つはスターとしての過去を今一度という夢なんです」
「すると、やっぱり噂《うわさ》のあった大日映画の」
寛は声を落とし、目を伏せた。京子は、はっきりと肯定した。
「社長さんの二番目のお嬢さんで、好江さんという、まだ若い方なんです。兄とは十幾つも年下の……」
「そうでしたか……」
シガレットケースから煙草を取り出すと、京子が素早くマッチをすった。馴れた手つきに、ひょいと彼女の現在が出ていた。
「しかし、よく婚約のことがジャーナリズムにかぎつけられませんでしたね」
人気は下り坂とは言ってもT・S映画の主演俳優と、ライバルに当たる大日映画の令嬢の結びつきには充分すぎるニュースバリューがあるし、まして細川昌弥が過去に女とのスキャンダルが決して少なくなかった男だけに、世間は好奇の目でこの婚約をみつめるに違いなかった。当然、トップ種となる記事である。
「ええ、それには理由があったんです」
京子は殆《ほと》んど溶けてしまったアイスクリームを匙《さじ》で弄《もてあそ》んだ。子供のような、気どりっけのない動作である。
「大日映画では細川昌弥の引き抜き、婚約を出来るだけ派手に利用するつもりだったんです。そうした事件をフルに活用して、細川昌弥の名をよくも悪くも世間の話題の中心にしてしまうことが目的だったようです。そのために最も効果的な時期をねらっていたものなんですわ。けれどねえ、能条さん、女と男の感情なんて、そう宣伝部の重役方の思わく通りに運ぶものではありませんわね」
窓の外は夕風が夜風に変わっていた。銀座通りのネオンも色が揃《そろ》った。
「それに少なくともドンファンと呼ばれ、その方面では目はしのきく男の兄が、目の前にある好餌《こうじ》を手をつかねてオアズケする筈《はず》がありませんわ。万が一にも動かすことの出来ない事実を作っておくこと、つまり大日映画がどうしても細川昌弥を引き抜かねばならない、社長令嬢と結婚させねばならなくなるような実績をあげておくこと……えげつない兄が考えそうな手段ですわ」
自嘲《じちよう》めいた京子の言葉は続いた。
「おわかりでしょう。能条さん、兄は早々に婚約でもしておかなければならない状態に大日映画を追い込んだんです」
「…………」
「社長さんのお嬢さんが妊娠したんですのよ。細川昌弥の子がお腹に出来てしまったんです」
流石《さすが》に寛は息を呑《の》んだ。
京子の思わせぶりな台詞《せりふ》から或《ある》程度の想像はしていたが、そこまで事情が進んでいるとは思わなかったのだ。
それにしても、細川昌弥にとっては全く好都合な進展ぶりだったに違いない。
「兄は、好江さんから妊娠のことを告げられた夜、帰宅してから私にこう申しました。俺《おれ》の勝だと……」
女は男に体を許したという既成事実には弱い。大日映画社長夫妻にした所で娘の告白には狼狽《ろうばい》するより方法もない。
「兄と好江さんとは秘密内に婚約し、いわゆる婚約の正式発表までに一定の時期をおきました。その理由の一つは兄の女の始末のためですの」
京子は一人で喋《しやべ》りまくった。
「兄が結婚する相手をいきなり発表したら、どんな醜態を演じるかと大日映画では、いいえ、好江さんの御両親は心配なすったのでしょう。それが親心というものですわね。遊び、浮気で済む玄人《くろうと》筋との交渉にしたところで一応の結末はつけねばなりません。好江さんの御両親は娘と結婚する気があるなら、過去の女とは一切、手を切ってもらいたいとおっしゃったそうです。当たり前ですわ。どんな浮気をなさる父親でも娘の亭主が他の女と交渉を持つと知って気持ちのよい筈《はず》がありません。まして女親は尚更《なおさら》でしょう。玄人女との関係はお金で解決出来ます。兄はさっそく今まで交渉のあった女たちを歴訪して一人一人始末をしてましたわ。馬鹿《ばか》みたいでしょう」
寛はいたわりのこもった眼で京子をみた。傷つき、あえいでいる子供に対する肉親の眼差しと同じ温味のこもった瞳《ひとみ》の色だった。それに気がついて、京子は捨て鉢な言い方を改めた。
「でも、兄みたいな男にもお金では片をつけられない、つまり物欲を離れた愛情を注いでくれていた人がありました。花柳界の方ですけれど、兄のためにパトロンをしくじり、肩身のせまい、恥ずかしい思いをしながら、それでも純粋な愛情を兄へ注いでくれていたのです」
「りん子さんという人でしょう」
「御存知ですの。あの方を……」
「直接、話した事はない人ですが、二度ほど踊りの会で、あの人の舞台を見ています」
「そうでしたの」
京子がうなずいた時、二階へ上がって来た女客がさりげなく階段を戻って、二階の京子と寛のテーブルがよく見える一階の席に坐《すわ》ったのをうつむいている京子は勿論《もちろん》、階段に背をむけていた寛は少しも気づかなかった。
「でも、りん子さんは兄の幸せになる事ならと承知してくれたそうです。流石《さすが》に兄もりん子さんには未練も深かったのでしょう。最後の想い出に二人で熱海から伊豆を旅行するのだと申して居りました」
「その旅行は実現しなかったんじゃありませんか」
寛は、りん子の姉貴分に当たる染子から、細川昌弥に呼び出されて熱海まで出かけたりん子が待ちぼうけを食って帰って来たという話を聞いている。
「そうなんです。実現しませんでしたの。りん子さんと一月十四日に熱海駅で落ち合う約束をして十四日のハト号の特急券まで買っておきながら、兄はその十四日の夜、神戸のアパートで自殺してしまったんですの」
「特急券も買ってあったんですか」
「ええ、旅仕度もボストンバッグにちゃんとつめてありました。持って出ればよいようになって洋服ダンスのわきに……」
「何故、細川君はハトに乗車しなかったんでしょう。なにか急用が出来たのと違いますかね」
「それは分かりません。私は京都の家に留守番をしていて兄のスケジュールはまるで知らなかったんです。でも、これだけは調べました。大日映画からは別にその日、兄に必要な仕事、もしくは打ち合わせみたいなことは何もなかった。大日映画に関係している人でその日、兄と逢《あ》う約束をした人は、許嫁《いいなずけ》の好江さんを含めて誰《だれ》も居なかったんですわ。それと、残されていた兄のメモ帳にも十四日の日づけの所にはなにも書いてありませんでした」
りん子を熱海へ待ちぼうけさせねばならないような重大な用件と言えば、まず大日映画に関係する筋のもの以外には考えられない。
「それに、もし、どうしても熱海へ行けないような急な用事が出来たとしたら、兄は電報でも長距離電話ででも、りん子さんへ連絡する方法があったと思うんです。そういう事にはマメな人でしたし……」
それは寛も知っていた。事実、細川昌弥は前日の十三日の夜、打ち合わせのためにりん子へ長距離電話をして、彼女の都合が大丈夫かどうかを確かめている。
勿論、りん子はなにを犠牲にしても細川昌弥に逢《あ》いたい所だし、彼へは承知した旨を電話で答えてやっている。当日は午後四時まで家に居て、東京発四時三十五分の東海三号という準急行で六時十九分に熱海駅へ到着している。要するに十四日の午後四時までは、細川昌弥からの変更を知らせる連絡はなにもなかった事になるのだ。
「それと、私、もう一つ、不思議なことがあるんです。兄は同じ十四日の朝、N航空会社へ電話をして十四日の午後二時|伊丹《いたみ》発の東京行の搭乗券を予約しているんです」
「二時発の飛行機の……」
寛は驚いた。これは彼にとって初耳である。午後二時発、伊丹、羽田間の飛行機なら少なくとも四時前に羽田へ着く。
羽田から横浜は目と鼻の先である。りん子を乗せた準急、東海三号が横浜駅を発車するのは十七時四分、つまり午後五時四分だからゆっくりとそれに間に合う計算となる。
「すると、細川君は最初十四日のハト号で帰るつもりが当日になって早急に、はずせない用事でも出来たかして、十二時の大阪発に間に合わなくなった。それで取りあえず飛行機の利用を考えたという事が想像出来ますね」
寛はポケットから万年筆を抜くと、卓上のマッチの空白にアラビヤ数字で12、別に2と書いた。
「ねえ、京子さん、細川君は関西にいる時はいつも神戸のアパートに居られたんですか」
「はい、撮影の仕事のある時は京都へ買っておいた家から通いますけれど、そうでないときは神戸のほうに……」
レースのハンカチを指先でたぐりながら、少しばかり悪戯《いたずら》っぽくつけ加えた。
「京都の家には私が居りますでしょう。なにかと具合いの悪いことも多かったんじゃありませんかしら。そうでなくても兄は神戸が好きでしたの。港の見えるアパートの部屋がとてもお気に入りで……勿論《もちろん》、T・S映画のお仕事をキャンセルして以来は、ずっと神戸でした。大日映画とのいろいろな打ち合わせや相談が全部、神戸に近い須磨《すま》にある大日映画の社長の別宅で行われ、兄はそこにひそんでいた筈《はず》なんです。神戸の三の宮のアパートにある部屋も雑誌社やT・S映画の方がマークしていた筈ですから要心して近寄らなかったと思います。兄が最後に京都の家へ電話をくれたのも、須磨の別宅からでしたし……」
「それは何日でした……」
「一月十二日の深夜……たしか十二時近い刻限だったと思います」
「須磨の……大日映画の社長の別宅を細川君が最後に出たのは何日の何時|頃《ごろ》だか、お聞きになりましたか」
寛は次第に積極的になった。
「聞きました。十四日の午前十一時頃だったそうです。疲れて少しノイローゼ気味だし、世間の目から逃れるためにも二日ばかり山の奥の温泉へ行って来たいと好江さんに了解して貰《もら》ったそうです。本当なら好江さんは兄と一緒について行きたかったのだそうです。雲がくれしてからずっと兄は須磨で好江さんも一緒だったんです」
「なるほど……好江さんが同行するのを細川君がよく断れたですね」
「いいえ、兄が断るよりも、好江さんの方について行けない理由があったんですわ」
「それはなんです」
「大日映画の先代社長の法事がちょうど十四日に京都の西本願寺で行われる予定になっていたんです。好江さんにとってお祖父《じい》様の法事ですもの、出ないわけに行きませんわね」
京子は一息に言って意味ありげに微笑した。
「好江さんはそうしたお家の都合で十四日と十五日は京都泊まりになる筈《はず》だったんです。兄も前もってそうした事情をよく呑《の》み込んだ上で、十四日に熱海でりん子さんと逢《あ》う連絡を取ったんですわ。鬼のいない間になんとやらですのよ」
「なるほど……」
寛はもう何度目かの同じ受け答えを繰り返した。他に適当な言葉が出て来ない。
「好江さんが須磨の別宅を出かけたのが午前十時半|頃《ごろ》、兄はそれを見送っておいてすぐにとび出したそうです。須磨の別宅の女中さんがそう言いました」
京子の言葉にうなずいて、寛はテーブルの上のマッチ箱に書いた数字を眺めた。
特急ハト号が大阪を発車するのが十二時、別に細川昌弥がその朝、予約した搭乗券が、午後二時伊丹発の羽田行、三〇八便である。須磨を十時半に出かけてまっすぐ大阪へ向かうつもりなら十二時のハト号へは楽に間に合う。それをわざわざ二時の飛行機に変更したのは、十時半に出かけてから二時少し前に伊丹へ到着する間に用事が出来たと想像がつく。
(その用事は、どうしても十四日でなければならない、つまり東京へ出発する前に片付けなければまずい事だったかも知れない。少なくとも急を要したに違いないことは、わざわざハト号の切符を無駄にしている事でわかる……)
同時に、早急を必要とはしたが、それほど時間はかからない。短時間で済む用事だったと考えられた。十二時のハト号を二時の飛行機に変更した僅《わず》かな時間の余裕で済むことなのだ。加えて伊丹飛行場は大阪から少なくとも四十五分はかかる。
細川昌弥が必要とした時間は僅か一時間余り、二時間以内という計算になる。
「十時半に須磨を出て、細川君はどこへ行って、誰《だれ》と逢《あ》ったのかはわからないんですか」
「わからないんですの。それが解ればなにかの手がかりになると思って、私、兄の行きそうな場所はそれとなく聞いてみたのですけれど……」
京子は力なく首をふった。
細川昌弥が死んでいたのは三の宮にある彼のアパートの部屋に於《お》いてである。彼は須磨を出ていきなり三の宮のアパートへ行ったものだろうか。
「私、それも考えました。須磨と神戸の三の宮とはすぐ目と鼻の先ですし、旅行に必要なものを取りに寄ったのではないかと思いました。それで、私、念のために三の宮のアパートの管理人に訊《たず》ねてみたんですの。兄がいつアパートへ帰って来たのかと……」
「それで、管理人はなんと言ったんです」
パーラーの中はかなり混んで来ていた。二階のテーブルもいつの間にかほぼ満員である。そろそろ夕食時間なのである。
寛の問いに答えようとして細川京子は躊躇《ちゆうちよ》した。ボーイが新しい二人客を京子たちのテーブルへ導いて来たものだ。
「まことに恐れ入りますが、御合席願えませんでしょうか」
言葉は丁寧だが、そろそろお席をお空け頂きたいの同義語である。
寛は立ち上がった。京子をうながしてパーラーの階段を下りる。
「どこか静かな所で飯でも喰《く》いませんか」
「ええ」
京子は僅《わず》かばかり考える様子だったが、
「あまり欲しくありませんの。まだ……」
と応じた。
「それじゃ……」
寛が迷っていると京子はきっぱり言った。
「まだお話も残って居りますし、どこここというより私のアパートへいらっしゃいませんか。あまり人様の前ではお話しにくいことなので……」
「そうですね。しかし……」
女一人のアパートへ宵《よい》の口でも若い男が訪問するのはどうかと寛はためらった。
「失礼な事を申しましたかしら……」
京子は相手の様子に、なんとなく頬《ほお》を染めている。はしたないと気づいたものか。そう言われると寛は逆に辞退するのが可笑《おか》しいような気にもなった。まだ時間も早い。京子の言うようになるべく人の耳を敬遠したい話だし、二人きりで話せる適当な場所も思いつかなかった。
「じゃ、お邪魔させてもらいましょうか。ほんの一時間ばかり……」
律儀に寛は言った。
二人がパーラーを出ると、一階のテーブルで先刻《さつき》から二階の二人の様子を注目していた若い女が二人、慌てたように立ち上がった。背の高い方が、ぐずぐずしている小柄な娘を追い立てるようにして勘定を済ませ、パーラーをとび出した。
「なにをモタモタしてんのよ。見失っちゃうじゃないのさ」
肩を小突かれてもう一人は泣きそうな表情になった。
「だって染ちゃん」
「いいから、いらっしゃいよ。どこへ行くのか突き止めなけりゃ、気が済まないわ。八千代ちゃんだって内心はそうでしょ」
染子はハンドバッグを抱き直し、血まなこになって往来を見回した。
夕暮れの銀座は男女のカップルが圧倒的に多い。それでも特徴のある能条寛の後姿を人ごみのむこうに見出すのはそう難しい事ではなかった。
「さあ、早く」
染子に引っぱられて、八千代は止むなく歩き出した。
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