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黒い扇12

时间: 2019-12-08    进入日语论坛
核心提示:アパートにて能条寛が運転するジャガーの二四サルーンは赤坂見附を抜け、江戸城外堀の名残りを止める池水にかかった弁慶橋を渡っ
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アパートにて

能条寛が運転するジャガーの二四サルーンは赤坂見附を抜け、江戸城外堀の名残りを止める池水にかかった弁慶橋を渡った。
この辺りは、いまだに夏になると蛍の姿も光るし、虫も啼《な》く。二、三軒並んだ家は芸能人が多く、静かな料亭の門灯も見えた。
奥の道を折れて暫《しばら》く入った道の角にまだ新しい洒落《しやれ》たアパートがあった。「ニューセントラルアパート」と上品なネオンが出ている。ジャガーの二四サルーンはその駐車場で止まった。
「ここなんですの。どうぞ」
細川京子は先に立って自動エレベーターへ近づいた。アパートの玄関はちょうど小ぢんまりしたホテルのフロントのような造りであった。
エレベーターを三階で下りる。
各部屋の入口は名札でなく、ホテルの部屋のような番号札が出ているだけだ。
三七一という数字のドアを開けて、京子は先へ入った。
「散らかっていて恥ずかしいわ」
京子の声が急に馴々《なれなれ》しくなった。自分のアパートへ戻って来たという解放感のせいだろうか。
スイッチを押して電灯を点《つ》けた。十畳くらいな広さの応接間風な部屋であった。凝った花模様の絨毯《じゆうたん》が敷かれ、淡いラベンダー色のクッションに統一された応接セットが並び、隅の棚にはバラの花が挿してある。
京子はこの部屋を居間のように使っているらしい。おそらく寝室が隣になっているのだろう。その他にリビングキッチンとトイレとバスルームが付いている。
「さあ、どうぞ、そんなびっくりした顔をなさらないで、おかけになりませんこと」
京子は台所の電気冷蔵庫を開け水差しに氷片を浮かしてテーブルへ運んだ。ガラス戸棚からタンブラーとグラスを出し、二種類の洋酒の瓶を並べた。
「お茶がわりにどうぞ。能条さんのお口に合いますかしら」
まめまめしくチーズを切り、生野菜を色どりよくガラスの皿に盛り合わせた。
「あまりかまわんで下さいよ。僕、話を伺ったらすぐおいとましますから……」
それでも寛は勧められるままに、ウイスキーを唇へ運んだ。
仕事の後だし、喉《のど》も乾いていてうまい。
「先刻《さつき》の話だけれど、細川君の住んでいた三の宮のアパートの管理人は、何日の何時|頃《ごろ》に細川君が部屋へ帰って来たと言ったんです」
「ええ、その話なんですけれどね」
京子は自分もウイスキーをストレートのままで飲みながら、ゆっくりと寛へ顔を上げてみせた。眼がキラキラと輝いている。
「三の宮のアパートの管理人は、兄の帰って来た姿を見ないって言うんですの」
しなやかな指にパールピンクのマニキュアがしてある京子の右手がウイスキーの瓶を取り上げ、寛のグラスと自分のへ新しく酒を満たした。
「管理人も、それから同じアパートに住んでいる方も、一人として兄が部屋へ戻ったのを見たという人はありませんでしたの。ですから兄が何日の何時にアパートへ帰ったのかわからないのです」
「というと、細川昌弥君は死体として発見されるまで、アパートの誰《だれ》とも顔を合わせなかったというんですか」
寛の質問に京子は細い顎《あご》を引いてうなずいた。
「しかし、彼が部屋へ戻っていたなら、隣の部屋の人は、物音くらいは聞いたんじゃありませんか」
「それが、兄の三の宮のアパートは防音装置が行き届いているので隣の物音などは、かなり大きな音をたてないと聞こえないのだそうです。それと、アパートの入口もちょうど公団住宅みたいな造りなので真夜中でも自由に出入り出来ますし、管理人の家はアパートの真向いに別になっていますので……」
「部屋へ細川君が戻ったのに誰も気づかなかったというのはあり得るわけですね」
引っくり返して考えれば、細川昌弥がなるべく誰にも顔を見られないようにして自分の部屋へ入ろうと思えばそう難しくなく出来得るアパートの建て方だとも言える。細川昌弥にしてみれば、一応、世間の眼から逃れている立場だから、他人に知られぬ中に自分の部屋へ戻るのが理想的だったに違いない。
「それにしても、夜なんか彼の部屋に電気が点《つ》いているのを発見した人もないんですか」
細川昌弥の死亡推定時刻は一月十四日の夜、死体発見は翌十五日の午前中だった。少なくとも細川昌弥がアパートに帰って来ていた時刻には電灯が必要の筈《はず》である。
「誰もいませんの、管理人の奥さんも言ってました。細川の部屋には電気が点いていなかった。少なくとも十一時|頃《ごろ》までは、という事なんですよ」
管理人一家の住いはアパートの道路をへだてた向い側である。茶の間の窓からは細川昌弥の部屋はほぼ真正面である。その夕方、食事が終わってから管理人の奥さんは娘の宿題の洋裁を手伝わされて、その窓ぎわに置いてあるミシンの前に坐《すわ》りきりだったという。
「ミシンに向かってると目が疲れるもんで、何度も窓の外へ視線をはずして疲れ休めをする癖がありましてね。そのたんびにアパートの窓をつい眺めて、全部に灯りが点《つ》いているのに一つだけ細川さんの部屋は真っ暗なんで、新聞で噂《うわさ》になっている人だけに、いったいどこへ行ってるんだろうと心配したりなんぞねえ」
と管理人の奥さんは京子にも警察にも話しているという。
「その管理人の奥さんが仕事を終わって、窓にカーテンを下したときが十一時頃で、その時も兄の部屋はまっくらだったそうです」
京子は訴えるように言った。
「細川君は用心していたのかも知れません」
自分が部屋に帰って来ている事を他人に悟らせないために電灯を故意に点けなかったというのは容易に考えられる。まして自殺するためにアパートへ戻って来たのだとすれば尚更《なおさら》であろう。
(それにしても、まっくらな中で細川はどうやって遺書を書いたんだろう……)
が、それはあまり問題にならない事だ。明るい中に書いておいたとも考えられるし、前もって用意したという推定も成り立つ。
しかし、それだと細川昌弥は須磨に居た時、少なくとも須磨を出かけてから陽が落ちるまでの間に自殺を決心したと考える他はない。
(須磨を出る時はまだ飛行機に乗る心算《つもり》だった。従って自殺を決心する動機、もしくは彼を死へ追いやるような事情は須磨を出てから突然に起こったというのだろうか)
須磨を出て三の宮のアパートで命を絶つまで細川昌弥が一人きりで過ごしたとは思われない。必ず誰《だれ》かと一緒か、一緒でないまでも誰かに会ったと推定出来る。
(その……誰かは……?)
寛は目の前にいる細川京子の存在を全く忘れて頭をかかえ込んだ。
「寛さん……」
呼ばれて顔をあげた。呼び方が違っていた。それまでは能条さんとしか京子は使っていない。声のニュアンスも変わっていた。
「なんです……」
寛は無意識に組んでいた腕をほどいた。
「あなたって……いい方ね」
甘い声だった。
寛はグラスに手をのばした。照れかくしである。映画俳優という職業柄にもかかわらず寛は女の相手が苦手である。律儀は親ゆずりかも知れなかった。
父親の尾上勘喜郎は歌舞伎《かぶき》畑では固い男という評判で通して来ている。花柳界でももてるが一向に噂《うわさ》も立たない。上背も高く、男っぷりも立派である。年齢も五十を越して間もない。いわば男の遊び盛りだ。
「寛ちゃんはなにからなにまで親父《おやじ》さん似だね。若い中なんだから、もっと派手におやりよ。親父さんに理解がないわけじゃないし……」
と仲間の菊四なんぞがよくけしかけたものだが、寛は相手にならなかった。別に親父を意識して畏縮《いしゆく》しているわけではない。
バーへも出かけるし、誘われればナイトクラブも行く。酒も強いし好きでもある。ただ、飲んでさわいでも破目をはずさない。強いてそうつとめているのではなく性分のようだった。勿論、学生時代から適当には遊んでいる。
京子はソファに体の重心をあずけ、高々と足を組んだ。着物の裾《すそ》がほんの少しゆるんで女の姿態の美しさを存分に発揮している。心得てしているポーズのようではなかった。寛はグラスから視線をそらさない。
「ねえ、寛さん……」
京子の言葉の出鼻をくじくように、寛はついと立った。レースのカーテンの下りている窓ぎわに寄る。
「いい眺めですね。東京の夜景が一望の下じゃありませんか」
銀座のネオンの散らばりを眼で追いながら京子へ微笑した。
「交通は便利だし、その割に静かだし見はらしもいい。全く気のきいた所にアパートを建てたもんですね。まだ新しいんでしょう」
「建築されて二、三年っていう話ですわ」
京子は仕方なさそうに言葉の上だけで答えた。
「どんな人が住んでいるんです。このアパートには……」
「さあ、やっぱり芸能関係の人が多いようですわね。それから関西の方の社長さんなんかで月に十日かそこら東京へ出ていらっしゃるような場合のホテル代わりに使ってる方もありますのよ。七、八万の部屋代を払っても秘書さんとホテル住いをするより経済だし、いろいろな意味で便利なんでしょう。なんだかんだと言うけれど、近頃《ちかごろ》の生活には結局アパート住いが一番気がきいてて重宝ですものね。他人に束縛されないし、気がねもない。鍵《かぎ》一つでなんでも解決出来るんだし……」
「そりゃまあ、そうでしょうね。僕も一度はアパート暮らしがしてみたいが、なかなか思うばかりで実行のほうがね……」
「だったら思い切ってこのアパートへ引っ越していらっしゃらないこと。たしか二階の若夫婦が大阪へ転勤とかで、来月くらいに部屋が空きますのよ」
京子は冗談とも本気ともつかぬふうに笑った。
「そいつは渡りに舟だけれど、僕みたいな無精者が一人暮らしをしたら、それこそウジが湧《わ》くんじゃないかな」
「大丈夫ですわ。そうなったら私がメイド代りにお手伝いしますから……」
はしゃいだ笑い声を立て、京子はソファから立って寛の脇《わき》へ並んだ。
「ね、寛さん、兄の死因のこと……少し妙だとお思いになりません」
近々と眼を覗《のぞ》いた。
「私、もしかしたら兄は自殺ではないのではないかと考えているんです。いいえ、兄は自殺じゃないと思うんです。そう確信を持っているんですわ」
しなやかな手が寛の肩にまつわりついた。
「自殺でなければ……兄は誰《だれ》かに殺されたんです。私、それを突き止めたいんです。ね、寛さん、私に力を貸して下さいませんか。私、兄の敵が誰なのか知らずには居られませんの」
寛は肩を寄せて来た京子を、さりげなくはずした。
ゆっくりとテーブルへグラスを戻す。
「京子さん……」
ふりむいた京子へ明るい微笑を送った。
「素人《しろうと》了見では貴女《あなた》の満足するような回答が出せないかも知れないが、細川君のこと、僕も別な意味でひっかかりがあるんですよ」
「ひっかかり……?」
「実はね、細川君が謎《なぞ》の失踪《しつそう》をした頃、僕は舞台公演で大阪に居たんです。その僕の泊まっていたSホテルへ、僕と細川君とを間違えてかかって来た電話があったんです」
「それは何日でしたの」
京子の頬《ほお》が再び緊張した。
「あれは、細川君が失踪する丁度、一週間前だから、正月の五日だった筈《はず》ですよ」
細川昌弥はT・S映画の京都の撮影所から雲がくれして三日目の十五日に自殺体として発見された。
「一月五日の、何時頃ですの」
「夜でした。公演が済んだのが九時半で、化粧を落としたりなんやかやで、Sホテルへ戻ったのが十時半頃かな。ロビーで少し時間をつぶしたから部屋へ帰ったのは十一時を回っていたかも知れませんね」
寛は記憶をその儘《まま》、口に出した。あの晩はロビーで岸田久子に逢《あ》った。茜ますみと一緒に大阪の稽古《けいこ》へ来ていてSホテルに泊まっているのだという久子は、その部屋へ茜ますみが客を招いているので席をはずしてロビーで待っている、と言った。
深夜のがらんとしたロビーにぽつんと一人|坐《すわ》っていた久子の矢がすりの和服姿を寛は、今でもはっきりと憶《おぼ》えている。
「一月五日の午後十一時すぎ……」
寛が気がつくと、細川京子は唇を白くしていた。
「どうしたんです。京子さん……」
京子はすがりつくように寛を見た。
「その時間に能条さんへ電話がかかったのですか」
「そうなんです。僕と細川君と間違えてね。ホテルのフロントで聞いてみると、その電話は僕の部屋の番号を指定してかけて来たんだそうで、そうでもなけりゃ細川と能条じゃ発音も似ても似つかぬわけでしょう。間違えるわけはないと思うんだが……」
「能条さんのお部屋番号は何番でしたの」
「僕の部屋ですか……ええと」
寛は考える眼になった。数字の記憶は強いほうだが、突然となると思いつかない。
「あれは三階だったから、三百……」
Sホテルは階数が部屋番号の頭につく。四階なら四百何番、七階なら七百何番というわけだ。
「そうだ。僕の部屋番号は三百六十一番でしたよ。間違いはありません」
能条寛は念のためにポケットから手帳を出した。一月の日程表のページを繰る。そこにSホテルで滞在した部屋の番号がメモしてあった。アラビア数字で361と認められた時、寛は重ねて言った。
「三百六十一番ですよ。その部屋に僕は暮れの二十八日から正月の二十六日まで居たんです。大阪公演のために……」
暮れも正月もホテル住いという経験は寛にとって初めての事だった。ビジネスとは言いながら、やっぱりわびしかったと寛は思い出していた。
「能条さん……」
京子が、グラスを持ったまま、つかつかと寛へ近づいた。
「私ですわ。その電話をかけたのは……」
今度は寛が驚く番だった。
「あなたが……」
「そうなんです」
京子はきっぱりと言った。
「一月五日の夜の十一時|頃《ごろ》、Sホテルの三百六十一番の部屋へ電話をかけたのは私でしたんです」
「京子さんだったんですか、あの声は……」
そう言えば慌しげな、か細い女の声に、寛は聞き憶《おぼ》えがあるようだと、あの折に思ったものだったが……。
「しかし、どうして京子さんが……」
「それが不思議なんです。あの夜、十時頃でしたでしょうか、京都の私の家へ電話がかかりましたの」
「ほう……それはどういう……」
「女の人の声でした。いま、あなたのお兄さんがSホテルで或《あ》る女と逢《あ》っている。その女は細川が近くしかるべき女性と正式に結婚するという事実を耳にして、死んでも細川と切れてやらないと執拗《しつよう》にあなたの兄さんに喰《く》い下がっている。もともとあなたの兄さんは気の弱い性質だし、その女には充分未練もある様子だが、今の中に兄さんへ忠告してはっきり別れさせておかないと、兄さんの将来に、とんでもない禍根《かこん》を残す事になると蔭ながら案じている、と言うんです」
「なるほど……」
「私、人気商売の兄の事ですし、誰《だれ》かの悪戯《いたずら》か、又は兄の交際している女の人からの嫌がらせかと思いました。私が迷っていますと、嘘《うそ》だと思うならSホテルの三百六十一番へ電話をしてごらんなさい。男が出れば間違いなく細川だし、女が出たら妹だと言い、兄さんへ急用だと言えば必ず……」
京子は口ごもり、おずおずと続けた。
「私、随分、考えたんです。けれど、もしそれが本当なら兄を放っておいてはいけないと思いました。兄ならありそうな事ですし、大日映画のほうの話が進行しているのは私も知っていましたし、大事な時にもしものことがあっては、と……」
寛はふるえている京子の肩へいたわるように手をかけた。
「それで思い切って電話をかけてみたんです。半信半疑でしたけど、間違いならそれでもいいと思ったんです。兄の帰宅の遅いのも心配でした。翌日は朝の十時から撮影がある予定でしたし、まだその頃《ころ》はT・S映画の仕事をあんなふうに中途で放り出す心算《つもり》では兄もなかったようですし、私も夢にも思いませんでしたから……」
寛は大きくうなずいた。
「それで電話をしたら違ったというわけですね」
「ええ、男の方の声で違いますと言われました。でも、それが能条さんとは気がつきませんでした」
「あの時、僕は違うとだけ言って、こっちの名を言う前に電話が切れてしまったんですよ」
「私、あわてていたんですわ」
京子はかすかに微笑した。細面の顔が光線を逆に受けて可憐《かれん》に見えた。
「兄さんは……細川君はその晩、京都へ帰って来たんですか」
立ち入りすぎるとは思いながら寛は訊《き》いてみた。
「はい、二時すぎに自分で車を運転して戻りました。私、電話の事は話しませんでした」
「午前二時……」
低く寛は呟《つぶや》いた。細川昌弥が大阪のSホテルへ行っていたという確証はないが、時間的にはその可能性がある。それにしても三百六十一番という部屋の番号の間違いはうなずけない。
「確かに、その電話の女は三百六十一といったんですか」
「三百六十一、だったと聞きました。でも電話が遠かったので……」
京子は心細い調子になった。念を押されると耳から聞いただけだから自信が持てないと言う。
「でも、そう聞こえました。三百六十一番と」
「三百六十一番ねえ……」
それにしても、誰《だれ》がその室の番号を京子へ知らせる電話をしたものだろうか。
「細川君がSホテルで或《あ》る女性と逢《あ》っているという知らせの電話は五日の午後十時|頃《ごろ》にかかって来たんでしたね」
「はい」
「その女の人の声になにか心当たりはありませんか」
「いいえ、まるっきり聞き憶《おぼ》えのない声でした。割合と若い人のようでしたが……」
「若い女……」
ふと、寛はSホテルのロビーに居た茜ますみの内弟子の岸田久子の姿を連想した。
ひょっとすると、細川昌弥が逢っていた女というのは茜ますみではなかったろうか。
とかく女性関係では噂《うわさ》の多かった細川昌弥と、多情で知られる茜ますみとのコンビなら、まんざらではない。
「細川君は生前、茜ますみさんを御存知でしたか」
京子はうなずいた。
「茜流の家元の茜ますみさんなら、おつき合いをしていました。私たちが京都に居りました時代に茜ますみさんも……。家が近くでしたの。平安神宮の裏側辺で……」
想い出をなつかしむような眼ざしを空間へ向けた。
「その頃《ころ》はまだ兄も映画へは入って居りませんでしたし、私も小学生でした」
「すると、かなり親しく行き来をして居られたんですか」
「行き来、という程ではありません。兄も忙しい毎日ですし、あちらも……時々時候見舞のお葉書を頂いたり、旅行先から珍しいものを送って下さったり、兄のほうも同様だったと思います。私がお目にかかるのは一年に一度か二度、温習《おさらい》会の切符を送って下さるものですから……」
「そうですか……」
細川昌弥と茜ますみの線がもし結んでよいとすれば、当然、京子へ電話をした若い女というのは、
(久子だ……)
久子なら師匠の情事を苦々しく感じて、お節介をしてみたとも想像出来る。細川の京都の家の電話番号も、平常、茜ますみの身辺の雑事をとりしきっている彼女ならメモぐらいしているに違いない。
「くどいようだけど、その……京子さんへ電話をかけて来た女の人の声は東京弁でしたか。つまり標準語かという意味です」
京子は首をふった。
「違うんですか」
寛は落胆した。
「きれいな京言葉でした。京都の女の人だとすぐわかりましたの。私も生まれが京都ですし、最近でも東京と京都と半々くらいに暮らしているので、自分はつとめて標準語を使っていますが、純粋の京言葉というのは聞いてすぐにわかりますもの」
「京都の女ですか……」
久子は固い感じの標準語である。出身が京都とは思えなかった。寛が知る限りではむしろごつごつした東京弁である。
それに、よくよく考えてみればもし岸田久子ならば、茜ますみの部屋の番号と能条寛の部屋の番号を間違えるわけがなかった。
(自分の部屋の番号を勘違いする……)
岸田久子はそんな人間ではなかった。茜ますみの内弟子の中では一番のしっかり者らしいし、利口な女のようであった。師匠の情事をやっかむとか、見えすいた忠義ぶりをしめすような意味の電話なぞ、かける筈《はず》もない。
しかし、細川京子へ電話をかけた人間が、岸田久子でないにしても、あの晩、細川昌弥が大阪のSホテルへ来ていたというのは、まんざらの嘘《うそ》とは思えないようであった。少なくとも、能条寛はその電話の知らせを根も葉もない他人の悪戯《いたずら》と笑い捨てる気がしなかった。
(もし、彼がSホテルに来ていたとしたら、逢《あ》っていた相手は……)
寛は又しても茜ますみの豊満な姿を瞼《まぶた》に想い出した。縞《しま》の着物に黒の帯をしめてSホテルの食堂に現れた茜ますみ——。黒と白だけに統一した服装に包んだ体に、年増盛りの女が匂《にお》うようだった。
(そう言えば、茜ますみと食堂で顔を合わせた朝、細川昌弥の死が新聞に発表された筈だ)
日本の色彩感覚では白と黒の配合は不吉を意味する。とすれば、あの朝の茜ますみの服装もなにか細川の死に関係づけられないこともない。
(自分のかくれた愛人の死をひそかに悲しむ心の服装だったのだろうか)
だが、寛はそのロマンチックな連想をすぐに打ち消した。
(茜ますみが、そんな殊勝な女なものか)
第一、あの朝、茜ますみは、にこやかな笑顔と屈託のない調子で寛に話しかけた。自殺した細川昌弥の名を口にして生々しいニュースを話題にした時でさえ、第三者がしめす好奇心と驚き以外にはなんの感情も彼女の声にも表情にも現れはしなかった。
が、別に考えればそれが逆に不自然とも見られるような感じもする。細川京子が言うように京都時代からの知り合いで、多少とも行き来をしていた間柄だったら、いくら冷たい女でも死んだ細川昌弥に対して哀惜《あいせき》とか同情の一言くらいは当然、彼女の唇から出るべきであった。
もっとも、そんな僅《わず》かな事だけで、五日の夜、細川昌弥がSホテルで茜ますみに逢《あ》っていたという想像を裏づけるわけには行かなかった。想像はあくまでも寛の思いつきの範囲なのである。
「京子さんは、その五日の夜の電話のことをとうとう細川君には話さずじまいだったんですか」
寛が訊《き》くと、京子は眼を伏せた。
「申しませんでした」
ちらと寛を見て言葉を継いだ。
「ただ、兄には問いただしませんでしたけれど、私はやっぱり五日の晩、兄はSホテルへ行っていたような気がしたのです」
「それは……どうしてです……」
部屋の隅においてあるオルゴール時計が十時を知らせていたが、寛には時間を気にする余裕はなくなっていた。
「五日の……その電話の事があった次の日、兄が妙な事を申しましたのですわ」
近くの繁華街から青少年の帰宅をうながすための愛の鐘の音が響いていた。
寛は京子の言葉をうながした。
「兄は撮影所から戻ってくると珍しく部屋でなにかごそごそやっていました。私がコーヒーを持って行くと兄はテーブルの上に古いアルバムを拡げていました。いきなり私に、世の中って狭いもんだな、と申しました。なぜ、と私が問い返すと、昨夜、思わぬ所で思いがけない人に逢《あ》ったんだ、と言うのです」
「思いがけない人に逢《あ》ったと言ったんですか、細川君が……」
「ええ、で、私、誰《だれ》に逢ったのかと聞きました。兄はもったいぶってなかなか話しません。そこへ大日映画から迎えの人が来て、兄はそそくさと出かけてしまいましたので話はそれきり……私もうっかり訊《たず》ねそびれてしまったんですの」
「残念な事をしましたね。そいつは……」
京子がその逢った人の名前を聞いていたら案外な手がかりになったかも知れないのだ。
「兄さんは……細川君はアルバムを拡げていたと言いましたね。思いがけない人に逢《あ》ったと言ったとき……」
ふと寛は気がついた。その思いがけない人というのは、古いアルバムの中の写真にあった人なのではなかろうか。
「はい、めったに見もしない古いアルバムなんです」
「それは、そのアルバムを京子さんは持っていますか」
あったら見せて貰《もら》いたいと寛は言った。
「お見せする事はかまいませんけど、今は手許にないんです。なにぶんにもアパート暮らしは手ぜまなもので、日常には不用の荷物は伯母《おば》の家にあずけてありますの。伯母の家ですか。市川ですけど、もし御入用ならどうせ最近に行かねばならない用事もございますから持って来ておきましょうか」
「是非、そうして下さい」
寛が答えたとき、入口のドアがノックもなしに開かれ、男の顔がのぞいた。
「京子……お客なのか……」
声で、京子がはじかれたように立った。
「まあ、パパ、どうなすったんですの」
素早く入口へ出ると、しきりと言いわけめいた調子でひそひそと喋《しやべ》っている。
寛は相手の男が京子の何であるかをおよそ察した。京子には父親はない筈《はず》である。
「細川さん、僕、失礼しますよ。すっかり遅くまでお邪魔して申しわけありません」
入口へ出た。京子は慌てた挨拶《あいさつ》をした。かわいそうな程に狼狽《ろうばい》している。寛は入口に突っ立って顔をそむけている男に会釈してさっさとエレベーターを下りた。寛の後ろ姿を見送っているでっぷりした初老の男が、大東銀行の頭取、岩谷忠男であると、寛は知らない。
駐車場へ行ってから、寛はうっかり車の鍵《かぎ》を京子の部屋の卓上へ置き忘れて来たのに気づいた。取りに戻るのは憚《はば》かられた。二人の会話がどんな風になっているかは想像出来る。寛は車をそのままにタクシーを呼び止めた。
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