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黒い扇14

时间: 2019-12-08    进入日语论坛
核心提示:誘蛾灯《ゆうがとう》翌日、能条寛は正午過ぎに赤坂のニューセントラルアパートへ細川京子を訪問した。勿論、昨夜、置き忘れた車
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誘蛾灯《ゆうがとう》

翌日、能条寛は正午過ぎに赤坂のニューセントラルアパートへ細川京子を訪問した。
勿論、昨夜、置き忘れた車の鍵《かぎ》を返してもらう心算《つもり》である。が、京子の部屋は鍵がしまっていた。ノックしても返事がない。
一度、階下へ下りて、寛は管理人に訊《たず》ねた。ホテルのフロントみたいになっている管理室の若い青年ははっきり答えた。
「細川さんなら出かけましたよ。今しがた」
「外出したんですか。そりゃあ困ったな」
寛は当惑した。
「遠くへ出かけられたんですか」
「さあ、なんとも言って行きませんですからね……」
「弱ったな」
寛は頭へ手をやった。撮影所の仕事は午後二時からである。往復に今日一日タクシーを利用してもよかったし、父の車を貸してもらってもよい筈《はず》だった。
しかし、寛はなんとなくこのニューセントラルアパートの駐車場へ自分の愛用車を置いておくのが不快な気がした。昨夜の妙な別れ方のせいもあった。細川京子にはパトロンがある。それは別に驚かなかった。
細川昌弥は生前から浪費家で有名だった。しかも、突然な自殺をする前の一年ばかりは人気も下り坂で、ろくな仕事をしていない。T・S映画にも借金があり、京都の家を建てた時の銀行からの借り入れも返却し切ってなかったという。そうした借金は一応、京都の家を売り、家財の整理をして後始末はつけたらしいが、妹の京子に残された財産などは殆《ほと》んど皆無といった状態に違いなかった。その京子が兄の死後、別にこれと言った職業に従事している様子もないのに高級アパートでかなり贅沢《ぜいたく》な暮らしをしているとすれば、当然、パトロンの庇護《ひご》を受けていると想像されよう。
(おそらく昨夜、彼女がパパと呼んだ男が、相手だろう……)
京子にパトロンがあろうとなかろうと、それは寛の関心の外だがとにかくパトロンを持っている女のアパートの駐車場へ自分の車を一昼夜以上もあずけておくのは、なんとなく後ろめたい。車の鍵《かぎ》は細川京子の部屋へ忘れて来たのとは別に、もう一つ合い鍵があった。寛のポケットの中でちゃらちゃら鳴っている。普段は使っていないほうの、いわば予備のための鍵である。
「あのね。実は昨夜……」
寛は管理室の青年にざっと昨夜の事情を話して、駐車場にある車を合い鍵で開け、運転して帰るから、その旨を細川京子へ伝えてくれないかと頼んだ。
「そりゃ困りますよ。もしなにかの間違いがあったとき、僕の責任になりますからね」
青年はうさんくさそうに寛の申出を拒絶した。
「しかし……あれは僕の車なんだから……」
合い鍵《かぎ》をしめして寛は抗議した。
「ま、とにかく、そういう事は細川さんと直接、話し合って、はっきりしてからにして下さい。後でごたごたすると僕が迷惑しますんでね」
管理室の若い青年は意地悪く突っぱねた。映画スターという寛の立場に或《あ》る程度の反撥《はんぱつ》を感じているらしいし、女の部屋に車の鍵を忘れたことを曲解しているらしかった。映画スターは身持ちの悪いものと軽蔑《けいべつ》しているような青年の態度に寛も腹が立った。
「あら、能条さんじゃありませんの」
不意に女の声が後で呼んだ。ふりむいて、
「あ、久子さん……」
久子は紺地に白い花模様のワンピースを着ていた。彼女の洋服姿は珍しい。サンダルをはいている。
「どうなすったんですの」
いぶかしげに問われて寛は超特急な説明をした。
「まあ、京子さんの所へいらっしゃったんですの」
「御存知なんですか、京子さんを……」
「ええ、京子さんのお兄さんの細川昌弥さんですか、あの方が生きていらっしゃった時分から、うちのお師匠さんとはおつき合いしていましたから……」
「そうですか……」
さりげなく答えたものの寛はおのれのうかつさが悔やまれた。
茜ますみと細川兄妹が知人だということは昨夜、京子の口から聞いたばかりである。茜ますみの内弟子の久子なら当然、細川兄妹と面識があってよい筈《はず》だ。
久子は寛を見て、妙な含み笑いをした。
「もっとも、最近ではうちのお師匠さんと京子さんとは行き来をしていませんの。絶交状態なんですわ」
「なにか、あったんですか」
「ええ、ちょっと……」
口をにごして、久子は別に言った。
「それはともかく、管理室の人とは私、顔なじみですから、なんなら車のこと頼んで差しあげましょうか」
寛は喜んだ。
「そうして貰《もら》えると有難いけれど……」
久子はうなずいて管理室へ行った。なれなれしく挨拶《あいさつ》し、なにか説明している風だったが、すぐに戻って来た。
「お待ちどおさま、私が証人になることで車は御自由ということになりましたわ」
「有難う。お手数かけてすみませんね」
寛は身軽く駐車場へかけて行って、愛車のジャガー二四サルーンを久子の前まで運転して来た。
「久子さん、どこかへいらっしゃるんですか。もし、よろしければお送りしましょう」
久子はたしか茜ますみの家の方角から来た様子である。茜ますみの家とニューセントラルアパートは背中合わせに建っている。
岸田久子は右手に白いビニールのハンドバッグを持っていた。外出仕度という程ではないが、近所へ買物という恰好《かつこう》でもない。
久子は微笑して、寛へ言った。
「結構ですの。バスで行きますから……」
「同じですよ。管理人に口をきいて頂いたお礼に送らせて下さい」
「でも、お仕事がおありでしょう」
久子は遠慮深かった。
「大丈夫です。たっぷり時間はあるんですから、どちらへいらっしゃるんです」
「銀座なんですけど……」
「それじゃ眼と鼻の近さだ。本当によろしかったらどうぞ……」
寛が後ろの座席のドアへ手をかけると、久子は自分から前の座席へ乗る姿勢を取った。
「それじゃ、お言葉に甘えて乗せて行って頂きますわ」
するりと助手席へすべり込んだ。踊りできたえているせいか、身ごなしが鮮やかであった。
「銀座はどの辺りですか」
車が動き出してから寛は訊《き》いた。
「四丁目を築地よりの辺りです。�わかば�というお扇子《せんす》の店へ行きますの。お師匠さんのリサイタルが近いもんですから、それに使うお扇子の註文《ちゆうもん》ですわ」
「大変ですね。相変わらず……」
「リサイタルの準備は、もう馴《な》れていますから、どうという事はありませんけど、今度はお師匠さんのプライベートな問題でいろいろとございましたもので……なにかと心配なんですわ」
久子は平常の彼女らしくもなく愚痴っぽい調子であった。どことなく疲労のかげが濃い。
「そう言えば今度の事件ではなにかと気苦労な事だったでしょう……」
小早川喬のことを寛は言ったつもりだった。
「ええ、もう色々と重なりまして……」
久子はハンドバッグの口金を弄《もてあそ》んだ。首筋が透けるような蒼《あお》さだった。あまり化粧もしていない。
ふと、寛は思い出した。
「この前、久子さんにお目にかかったのは大阪のSホテルのロビーでしたね」
「そうでしたかしら……」
久子は曖昧《あいまい》に首をかしげた。
「あの時、あなたは茜ますみさんの部屋に来客でロビーに遠慮しているっておっしゃったけど……」
久子は微笑した。
「まあ、そんな事ございましたかしら」
寛は強引に続けた。
「あの時、茜ますみさんの所へ来ていたお客さんは、細川昌弥君じゃなかったんですか」
久子はゆっくりと考えるような眼をした。
「いつでございましたっけ……」
「一月の五日の夜ですよ」
「一月五日……」
久子は寛の顔を見て、うなずいた。
「そうそう、あの時は本当に失礼いたしましたわ」
明るく笑って答えた。
「あの晩のお客が細川昌弥さんかとおっしゃるんですか」
「そうです」
「なぜですの」
「なぜ……という事もないんだが、そんな気がしたんですよ。不意に……」
「京子さんがそうおっしゃったんですの」
「いや、京子さんは何も……細川君から聞いたというのではありません」
「残念ながら、あの晩のお客様は細川さんじゃありませんの」
久子はそっと声を低めた。
「うちのお師匠さんと細川さんとのこと、御存知なんですか」
「いや、別に……けど……」
久子は肯定した。
「勿論《もちろん》、両方とも遊びでしたけどね。おまけに昨年の秋ごろからうちのお師匠さんのほうが冷たくなってしまって、細川さんとうちのお師匠さんが最後にお逢《あ》いになったのは、修善寺の事件の少し前くらいでしたわ。それっきり……」
車は虎の門から霞《かすみ》が関《せき》へ抜けた。官庁街の昼休み時間らしく、ワイシャツ姿のサラリーマンがぞろぞろ歩いている。
「ですから細川さんの妹さん、京子さんですか、あの方はうちのお師匠さんにあまりいい感じを持っていらっしゃらないんですよ。現在はその事の他にもお二人は敵同士みたいなことになってしまっているのですけれど、でも私は別にどうという事はありませんしね。道で顔を合わせれば前と同じように挨拶《あいさつ》しているんですのよ」
そこで久子は思いついたように言った。
「そうそう、この車のこと、私から京子さんへ一応、お話しときましょうか」
「そうですね。もしお逢《あ》いになったら……いずれ僕から電話はするつもりですが……」
寛は相手の好意を謝した。
「今度のリサイタルで八千代さん、鳥辺山《とりべやま》の浮橋《うきはし》をなさるかも知れませんのよ。お聞きになりました」
「いや、なにも……」
実際、八千代からはなんの知らせもなかった。
「相手役は中村菊四さん、大変なのよ。どうしても八千代さんと組んで踊るんだってお師匠さんに談判なさったの」
寛の表情を見ながらまるで別の事を言った。
「京子さんにはお気をつけないと……あまりお近づきになると八千代さんに義理が悪いんじゃございません」
 その朝、浜八千代がニューセントラルアパートの前を通りかかったのは十時を少し回っていた。
「なによ、そんな朝早く、お稽古《けいこ》かい」
と銀座の家を出かける際、母に見とがめられ、
「ちょっと友達と約束があるのよ」
弁解もそこそこにとび出して来た八千代だったが、勿論《もちろん》、友達との約束は嘘《うそ》だし、茜《あかね》ますみの稽古場も今日は休みの日だった。
赤坂までの僅《わず》かな距離を気がせいて、八千代はタクシーを拾った。
弁慶橋の辺りは初夏らしく緑も鮮やかで池の水も落ち着いていた。この付近の住宅街はまだ眠っている。
ニューセントラルアパートの少し手前で八千代はタクシーを下りた。
胸の鼓動が聞こえるようだ。昨夜踊りの稽古帰りに染子と銀座へ出て、Sパーラーでお茶を飲んだ。その二階へ能条寛が女づれで来ていたのである。
最初に見つけたのは八千代であった。何気なく傍へ行って声をかけてしまえばよかったのかも知れない。女連れという事で八千代は遠慮した。黙っていたのだが、染子が間もなく気がついた。
「寛さんだわね。二階の女づれ、凄《すご》いじゃないの顔をくっつけるようにして随分御親密そうね。なんだろう、相手の女……」
染子が好奇心を持ち出すと、けじめがつかなくなる。
「え、八千代ちゃん、いいの、あんな事させといてさ」
八千代は当惑した。
「だっておつき合いでしょ。それに私と寛さんとは別に……」
「ただのボーイフレンドだって言い切れるもんですか。あんたの気持ちぐらい解らないと思うの。それにしても寛さんのやり方ってのは気に入らないわ。あ、立ったわ、どこへ行くのかしら」
染子の強引さと八千代の心配とが、つい寛の愛用車の後をタクシーで尾行して赤坂まで追ったのだが、
「まあ、あきれた、女と一緒にアパートへ入っちまったわ」
染子は茫然《ぼうぜん》としている八千代へ言った。
「あんた、そこらの喫茶店かなんかで入口を見張ったらどう。何時|頃《ごろ》に帰るか……」
「馬鹿《ばか》ね。そんな必要あるもんですか。私、それほど寛さんにお熱あげているわけじゃないもの……」
八千代は強がって、お座敷の約束があるという染子を浜町へ送るためにタクシーへ乗った。が、染子が下りてしまうと、再び八千代はタクシーを赤坂へ向けた。
ニューセントラルアパートの駐車場に見憶《みおぼ》えのある寛のジャガーの二四サルーンを見ると八千代は逃げるように銀座の家へ戻った。
一晩中、八千代は不安でまんじりともしなかった。青山の能条寛の家へ電話をかけて寛の帰宅を確かめる事も考えた。
が、深夜ということと、もし居なかったらという怖れが先に立って電話口へ行く勇気が出なかった。
朝の光がキラキラと反射しているニューセントラルアパートの駐車場へ、八千代はおどおどと近づいた。
(そんな事はない。そんな寛ではない)
と思う。女のアパートへ外泊するなんて、八千代は首をふった。なにかの用事で女の人をアパートへ訪ねたとしても泊まるような寛だとは思いたくなかった。
しかし、通行人の様子を装いながら、さりげなく覗《のぞ》いた駐車場にジャガーの二四サルーンはのんびりと収ったままであった。昨夜と位置も変わらない。
二度とふりかえる勇気はなかった。弁慶橋の袂《たもと》まで八千代は夢中で歩いた。
(やっぱり寛は……)
真昼の光の中で、八千代は自分の周辺だけが暗闇《くらやみ》になったような気がした。
だが、寛が、八千代の知らぬ女の許へ泊まったとしても、八千代は自分に何を言う権利もない事を悟った。
幼な馴染《なじみ》というだけで一言も将来の約束をしたわけではない。寛からは勿論プロポーズされた憶《おぼ》えもなかった。
寛にどんな恋人が存在しても八千代には文句のつけようがない。にもかかわらず、八千代は、寛に自分以外の女、恋人と名のつく人間が存在するとは夢にも考えていなかった。無意識の中に、寛の自分に対する愛情を信じていたようである。
(うぬぼれたもんだわ……)
八千代は池の水に自嘲《じちよう》した。涙があふれそうなのを必死で圧《おさ》えた。
(寛は私の事をなんとも思っていないんだわ。だから、いつか修善寺へ一緒に行ったときも……)
男と二人きりで温泉場へ出かけることを、八千代はそれほど重大に考えなかった。目的が目的だったし、もっと決定的な事は寛と一緒だったからかも知れなかった。
(あの時、もし寛が野心を持ったら……)
いくら出かける前に部屋は別にするという口約束をしたからと言って、実際にはどうにでもなった筈《はず》である。万が一、あの夜、寛が八千代を求めたとしたら、
(勿論、私は許さなかったわ……)
その決心は頼りなかった。理性では割り切れる問題でない事ぐらいは八千代にも解っていた。
結果から言うと、あの晩、寛はなんの行動にも出なかった。それを八千代は寛の愛情と受け取っていた。稚《おさな》い考え方だったかも知れない。
弁慶橋の欄干に寄りかかって、八千代はぼんやりと水を見た。
頭の中が空虚だった。失恋という文字がガランドウの頭脳の中をかけめぐっている。
(馬鹿《ばか》らしい。私だってそれほど寛が好きなわけじゃなし……)
女の虚栄が言わせる台詞《せりふ》である。そのくせ八千代の心はずたずたに引きちぎられたようになっていた。水の中へ引き込まれそうなほど気も滅入っている。
ニューセントラルアパートの方角で女の声がした。
はじかれたように八千代はそっちを見た。
(あの女だわ)
ぎくりと眼を据えた。昨夜、寛と一緒だったその女の顔を流石《さすが》に八千代は忘れなかった。普段は人の顔を記憶するのが苦手の彼女である。
細川京子は今朝は洋装だった。体にぴったりしたタイトのワンピースである。服と同色のスモークグリーンの帽子をかぶっていた。
京子の後から男が出て来た。八千代はそれをてっきり寛かと思ってうろたえた。こんな場所で寛と顔を合わせるのは我慢がならない。
男の言葉が聞こえた。一緒にこっちへ歩いてくる。
「今、お出かけですか、お早いんですね」
寛の声ではなかった。八千代は顔をあげた、遠眼ながら、男が中村菊四であることを認めるのに手間はかからなかった。白い背広の上下に黒いワイシャツ、殺し屋好みのキザな服装である。
「菊四さんもお早いんですのね。今はお舞台は……」
女が訊《たず》ねている。八千代はさりげなく歩く姿勢を取った。
「芝居は今月は休みなんです。テレビとラジオがあるもんで関西公演を休んじまったんですよ」
「それじゃ今日は……」
「ええ、テレビの本読みです」
そこで菊四はむこうから来る八千代に気づいた。
「八千代ちゃん」
八千代は意外だという表情を見せた。
「まあ、菊四さん……」
京子は二人の様子に軽く会釈して先へ行った。
「誰方《どなた》ですの、あちら……」
見送って八千代は咄嗟《とつさ》に訊《たず》ねた。
「いや、別に知っている人じゃないんだ。ニューセントラルアパートね。すぐそこの……あのアパートで僕の惜りてる部屋の二つ隣に部屋を借りてる人さ」
要領を得ない菊四の答えに八千代は失望した。
「それよか、八千代ちゃん、今日はお稽古《けいこ》なの」
菊四は馴々《なれなれ》しく八千代の傍へ寄った。
「お稽古じゃないんですけどね」
八千代はちらと坂の上の茜ますみの家を眺めた。そこへ向かって歩いている恰好《かつこう》なのである。
「ちょっとお師匠さんの所に用があるんで」
「そう」
菊四はそれが癖で首を傾《かし》げて相手の眼を覗《のぞ》いた。
「茜ますみさんから聞いてくれたと思うんだけど、茜さんの今度のリサイタルね。僕も近所に居て普段なにかとお世話になっているし、茜さんがよければ賛助出演してくれないかというんでお手伝いしようかと思ってるんですよ」
「まあ、そうですの。菊四さんが出て下されば、お師匠さんもお喜びなさいますわ」
八千代は微笑して軽く受け流した。寛の事で胸が一杯な時に、あまり好ましくもない菊四と立ち話をする気にはなれない。
(青山の寛の家へ電話をしてみよう。一人であれこれ迷うよりもその方がいっそさっぱりする……)
そう思いつくと矢も楯《たて》もたまらない。が、菊四は自分の話に熱心だった。
「それでね、出し物のことなんだけれど八千代ちゃんは鳥辺山の道行か、義太夫の蝶《ちよう》の道行が演《や》りたいんだって……」
仕方なく八千代は応えた。
「ええ、母がそんな事を希望しているんですの。道行ものはまだ色気がないから可笑《おか》しいと自分では思っているんですけど……」
「そんな事はありませんよ。八千代ちゃんには初々しい色気っていうのか、可憐《かれん》な味があるから浮橋《うきはし》だって、蝶の道行の小巻だってどんぴしゃりですよ。もしよければその相手役を僕にさせて欲しいと茜さんに言ったんだが……」
不意を突かれて八千代はびっくりした。
「菊四さんが私の相手役を……?」
「そう、いけない……?」
「いいえ、いけなくはないけれども……」
八千代は慌てた。
「菊四さんはうちのお師匠さんの相手役をなさるんじゃありませんの。新作の……」
てっきりそうとばかり思って話をしていたのだ。
「とんでもない。茜さんの相手役は能条寛君の親父《おやじ》尾上勘喜郎が勤めるんですよ」
「尾上の小父《おじ》様が……」
それも初耳であった。
「ねえ、八千代ちゃん、どっちを踊る、鳥辺山にするかい。小巻助国でやるか、僕はどっちでもいいけどね」
「それは……あの……」
八千代は全く狼狽《ろうばい》した。人もあろうに中村菊四と道行物を踊る気持ちは少しもない。が断る口実も見つからなかった。
「菊四さんのお申し出は有難いと思いますけど、私の相手役はいつも染子さんがして下すっているから」
立ち役(男役)専門の染子と女形《おやま》ばかりの八千代とは茜門下ではいつもコンビで出演していた。「吉野山」の静御前と忠信「羽衣」の漁夫と天女、「将門《まさかど》」の光国と滝|夜叉《やしや》など二人の思い出の舞台は多い。
「染ちゃんには今年は一人で『申酉《さるとり》』を踊らせたいって茜ますみさんは言ってたよ。染ちゃんのお母さんの意向なんだそうだって」
それは八千代も知っていた。だから自分の演《だ》しものが今だにきまらないのだ。
「いいわよ。どうせ親孝行で踊る『申酉』だもの、もう一本、別に八千代ちゃんにつき合ったげるよ」
と染子は気易く言うが、二本に出演するとなれば費用も大変だし染子がれっきとしたパトロンも持たず、芸一本でがんばっている芸者だけに、八千代もあまり無理な事はさせたくなかった。染子の分の費用を八千代が持つ事は簡単だが、そんな事を許す染子の気性でないのは八千代が一番よく知っている。
「ね、その踊りの相談もあるし、他に話したい事もあるから、後でちょっと会って貰《もら》えないかしら」
菊四は八千代の顔を窺《うかが》った。
「私……」
八千代は途方に暮れた。いつもならきっぱり拒絶する所だが、今日は弱気な彼女である。
「ね、僕、テレビ五時に済むんだ。夕食をつき合ってよ。ますみさんの所の五郎ちゃんね。あいつに関してちょっと面白いニュースもあるし……」
菊四はせっかちだった。
「いいでしょう。じゃ、五時に銀座のSパーラーね。すっぽかしちゃ嫌ですよ」
「Sパーラー……」
復唱して八千代はなんとなくうなずいてしまった。菊四は上機嫌で道路を渡って行った。向かいのガソリンスタンドに、愛用のキャデラックが見える。洗いに出しておいたものらしい。
八千代は再び弁慶橋を渡って歩いた。勿論、茜ますみの家の玄関は素通りである。
道を曲がって都市センターの通りへ出た。プリンスホテルの前を歩く。公衆電話を探した。ボックスに目が止る。人が使っていた。長話である。笑ったり、喋《しやべ》ったり、楽しげであった。若い女の子である。
八千代はぼんやりと待った。二十分近く経って電話は漸《ようや》く空いた。
十円玉を落し入れ、ダイヤルを廻《まわ》す。出て来たのは能条家の女中だった。
「若旦那様でございますか。寛様はお出かけでございます。はい、お仕事で……」
八千代は力なく受話器を置いた。歩く気力もなくなっている。
午後五時まで、浜八千代は自分の部屋でレースあみをしていた。
時計の針が秒をきざむ度に、八千代の胸は波に乗ったゴムボートみたいにゆれて騒いだ。
もとより八千代は中村菊四という男性に対してなんの関心もなかった。好意はなおさらである。
菊四の誘いがただの逢《あ》いびき的な意味のものなら、八千代はさっさと断ってしまったろう。だが、今日は口実があった。リサイタルの演《だ》し物の事である。八千代は彼と道行物を踊る意志はまるでない。とにかく理由を設けてそれを辞退しなければならなかったし、他に菊四から訊《たず》ねたい事もあった。
先日、染子と一緒に赤坂の「ざくろ」へ招待されたとき、
「小早川喬殺人事件に関して僕はちょいとしたネタを持っているんですよ。車の鍵《かぎ》に関してね」
と思わせぶりに洩《も》らした言葉である。
それと、もう一つ、八千代はニューセントラルアパートの住人である彼に、寛と同行した昨夜の女性の名を聞き出したい気持ちもあった。名前を聞いてどうなるというわけでもないが、好奇心というか惚《ほ》れた弱味なのだとは八千代自身気がついていない。
そんな事を考える程、今日の八千代は落ち付きを失っていた。心の中が空き間風の吹き込んだようにうら淋《さび》しい。
「いいわ。ほんの少しだけ、菊四さんにつき合って、彼から聞けるだけの事を聞いて来よう」
八千代は独り言に呟《つぶや》いた。レースあみを中止して洋服|箪笥《だんす》を開ける。
マロン色の地に青いバラが手描きのように散っているワンピースにバラと同色のサッシュを締めた。五分|袖《そで》である。ブルーのサマーコートを抱えると女中にちょっと出かけるからと言伝てして、もう暮れかけた銀座の街へとび出した。
が、Sパーラーの前まで来ると再び八千代のハイヒールの足は重くなった。
(やっぱり止そうかしら……)
と言って菊四をすっぽかすのも気の毒な気がする。時計を見た。五時十分過ぎ。八千代の母の経営する「浜の家」からSパーラーまでは歩いて七分ぐらいな距離である。
(入ってみて、もし菊四さんが来ていなかったら帰っちゃおう……)
ドアを押した。とっつきの席に菊四はドアの方角へ向かって腰かけている。待ちかねた視線が八千代を捕らえると、心から嬉《うれ》しげな表情になった。
「八千代ちゃん、漸《ようや》く来てくれましたね。僕、駄目かと思った……」
にっと笑った顔が素直で子供じみている。八千代はその微笑で彼への警戒を少しばかりゆるめた。知らず知らずの中に誘蛾灯《ゆうがとう》へ近づいているのだ。
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