一
眠っていた男や女たちが、幕をくぐって、一人二人と土間《どま》に出て来た。まだ真夜中である。あちこちに灯が点《とも》される。くすんだ天井から煤《すす》が幾本も垂れ、それらがゆらぐ。たくさんの魚が、灯影にほの暗く吊《つ》るされているのが見える。
男たちは皆、鯨《くじら》獲りに出るのだ。背まで長く垂れている髪を、男たちはぐるぐると巻いて団子に結んだ。ドウ・ダーク・テール(若い鳥)と呼ばれる、あの人なつっこい笑顔の若者が、岩松たちがまだ眠っているのに気づいて、
「イワ、イワ」
と、岩松の傍《そば》に寄った。が、岩松は深く眠りこんでいた。
再び、ドウ・ダーク・テールが、
「イワ、イワ」
と、やさしく呼んだ。
と、その時、アー・ダンクがつかつかとやって来たかと思うと、いきなり腰の鞭《むち》を取って、眠っている岩松を殴《なぐ》った。岩松ははっと目を覚ました。アー・ダンクの目が陰険に光っていた。
岩松はたった今、夢を見ていたのだ。熱田神宮の杜《もり》を、岩松は絹の肩を抱くようにして歩いていた。暗い道だった。真っ暗な筈《はず》なのに、しかし両側の松の木|肌《はだ》がはっきりと見えていた。
「いないわ、いないわ」
絹が吐息をつきながら言う。二人は岩太郎を探していたのだ。
「イワ! イワ」
岩松は岩太郎を呼びながら絹を抱えている。と、向こうから岩太郎が駈《か》けてくるのが見えた。まだ一歳の岩太郎がよちよちと駈けてくる。そのうしろから絹が駈けてくる。絹の白い足がちらちらと裾《すそ》から見える。岩松が肩を抱えているのも絹で、岩太郎のあとから駈けてくるのも絹だ。
(お絹が二人いる?)
そうは思ったが、さほど不思議とも思わず、岩松は大手をひろげて絹と岩太郎を待ち迎えた。今、まさに、その絹と岩太郎を腕の中に抱こうとして、岩松は殴られたのだ。
目を覚ました岩松に、再び鞭が鳴った。途端に岩松が大声で怒鳴った。
「何で殴るんだ!?」
海で鍛えた大きな声であった。アー・ダンクの口が歪んだ。と思うと、三度岩松の肩に鞭が鳴った。したたかな鞭であった。
「野郎!」
岩松は土間《どま》に飛び降り、仁王《におう》立ちになって、アー・ダンクを睨《にら》みつけた。ドウ・ダーク・テールが、二人の間に割って入り、岩松を背にアー・ダンクに何か言った。が、アー・ダンクは首を横にふり、ドウ・ダーク・テールを押し退《の》けようとした。ドウ・ダーク・テールは何か叫んだ。「なぜ殴る」と言ったのだ。アー・ダンクが大声で「奴隷《どれい》のくせに、起こされても起きないからだ、怠け者だ」と、罵《ののし》った。音吉も久吉も、岩松の怒声に驚いて目を覚ましていた。二人は岩松の背に両側から寄りそっていた。
アー・ダンクの鞭《むち》が、岩松よりも先に、若者ドウ・ダーク・テールに向かってふり上げられた時、酋長《しゆうちよう》が近づいて来た。酋長が低い声で何か言い、アー・ダンクの肩を叩《たた》いた。アー・ダンクは語気強く言い返した。酋長は首を横にふり、再び同じ言葉を言った。アー・ダンクは不満げに口を結ぶと、鞭をふりながら外に出ていった。酋長はアー・ダンクにこう言ったのだ。
「こいつは俺の大事な財産だ」
と。酋長は岩松のみみず腫《ば》れになった肩に手を置き、顔をしかめて何か言った。
「痛いか」
と言ったのだと三人は思った。が、酋長は、
「こわされるところだった」
と言ったのだ。酋長たちには、奴隷《どれい》は物であった。その酋長のうしろに、女や子供たちが立っていた。アー・ダンクの妻だけが、少し離れて岩松の顔をみつめていた。酋長の妻が、いつのまにか、小さな壺《つぼ》に入れた油を持って来、岩松の肩にていねいに塗った。マカハ族の女たちの指は、節が太い。よく働くからだ。酋長の妻の指も、他の女たちに劣らぬほどに太かった。その指先を、アー・ダンクの妻ヘイ・アイブはじっとみつめていた。
やがて、男たちは皆、鯨獲《くじらと》りに出て行った。酋長も出て行った。鯨獲りのカヌーには八人乗れる。アー・ダンクは、岩松を漁につれて行くつもりだったが、酋長が許さなかった。アー・ダンクと岩松が海に出て、ひと騒動起こしそうな不安を酋長は感じたのだ。
男たちが出て行ってしまうと、女子供たちはそれぞれ、自分の床の中に戻《もど》って寝た。岩松は不貞《ふて》たようにごろりとマットの上に横になった。
「痛かったやろな、舵取《かじと》りさん」
音吉が心配そうにのぞきこんだ。
「蝮《まむし》は半気ちがいや」
久吉も憤慨した。ここに来て、久吉も音吉も、日に一度や二度はアー・ダンクに鞭《むち》で殴《なぐ》られた。何か言われて、ぼんやりしているとすぐにアー・ダンクは鞭を振るうのだ。酋長《しゆうちよう》や他の者たちは、たとえ言葉が通じなくても、手真似《てまね》で命じてくれた。薪《まき》を割る真似をすれば、薪を割れということだとすぐにわかる。水を汲《く》む皮袋を指して何か言えば、水を汲むことだとわかる。が、アー・ダンクはそうした工夫を全くしない。ドスの利いた声で、最初から居丈高《いたけだか》に怒鳴るのだ。傍《かたわ》らに誰かいて、素早く手真似で通訳してくれれば、何とか事は足りるが、傍らに誰かいなければ、殴られるだけなのだ。だが、みみず腫《ば》れになるほど殴られたことはまだなかった。痛くはあっても、仕事をしているうちに忘れる程度の痛さだった。だが、今夜、岩松を殴った殴り方は、尋常ではなかった。岩松が反抗の色を見せたからでもあった。
奴隷は、岩松たちのほかに、男が二人と、女が二人この家にいた。何年も前に、バンクーバーから買われて来たというこれらの奴隷たちは、言葉が通じた。そしてそのうちの二人は夫婦になっていた。だから、初めは彼らが奴隷だということを、岩松たちは知らなかった。只《ただ》、時折《ときおり》アー・ダンクが荒々しく怒鳴ったり、鞭《むち》を振るう真似《まね》をしたりするので、次第にわかって来たのだ。
「眠れるかい、舵取《かじと》りさん」
音吉が岩松の肩に手を当てた。岩松が、
「心配するな、音」
と、かすかに笑ってみせたが、
「酒でも飲みてえよ」
と久吉を見た。
「ほんとやなあ。酒があったらなあ、何でここには酒がないんやろ。なあ音」
「ほんとにな。舵取りさんは酒が好きなのにな。憂《う》さばらしもできせん」
他のインデアンたちとちがって、このマカハ族には酒がなかった。
岩松は今、音吉と久吉の言葉を聞きながら心の底深く、一つのことを決意した。
「音、久吉」
寝ころんでいた岩松が、起き上がって二人の顔を見た。只《ただ》ならぬ顔であった。男たちが出て行ったあと、灯はいつものとおり二箇所になった。薄暗い中で、岩松の目が異様に光った。
「何や、舵取《かじと》りさん」
不安げに顔を寄せる久吉に、
「俺はここを逃げ出すぜ」
岩松はきっぱりと言った。
「逃げる!?」
久吉は思わず声を上げ、あわてて口をつぐんだ。誰も日本語は知っていないと知りながら、思わず口を閉じたのだ。
「うん、逃げる!」
「どうやって逃げるんや、舵取りさん」
音吉の声も不安げであった。
「今すぐとは言わん。だが必ず逃げて見せる」
「舵取りさん一人でか」
「お前たちの気持ち次第や」
「そりゃ言わんでも決まっとるがな舵取りさん。な音吉」
「うん、決まっとる。死ぬも生きるも、舵取りさんと一緒や」
「そうか。それで決まった。とにかく俺は、あの蝮《まむし》の顔を見ていると、叩《たた》き殺してしまいたくなる。殺すのはたやすいが、そのあとが面倒だ。そんなことにならねえように、何とか逃げ出さなあかんでな」
「…………」
岩松は心の中で、手紙を書こうと決めた。バンクーバー島から、時折《ときおり》カヌーがやって来る。毛布や小麦粉や、砂糖などをカヌーは運んで来る。それはバンクーバー島から運んで来るのだが、むろん岩松たちはその船がどこから来るのか知らない。岩松は書いた手紙を、よそから来る船に渡そうと思うのだ。たとえ相手が日本の文字がわからなくても、いつかは日本の地に届くような気がする。世界の地理も事情もわからぬ岩松だが、とにかく救出をねがう手紙を書こうと決意したのだ。先程《さきほど》の鞭《むち》の痛みが、岩松に決意させたのだ。
(だが、何で書く?)
岩松は痛む肩に手をやりながら、まばたきもせずに考えた。船箪笥《ふなだんす》も懸硯《かけすずり》も酋長《しゆうちよう》に奪われてしまった。あの懸硯には、筆も硯も半紙も入っている。が、ついぞ酋長が字を書いている姿を見たことがない。いや、酋長だけでなく、他の男も女も子供も、字を書いている姿を見たことがない。入り口の柱や扉に、絵は描いてある。それも奇妙な鳥の絵が多い。その奇妙な鳥が「雷の鳥」と呼ばれるものだとは、岩松たちは知らない。その鳥は、空を覆うほどの大きな翼を持ってい、その翼を動かすと、雷が鳴るとインデアンたちは信じていた。そしてまた、山に雷が落ちると、インデアンたちは総出で山探しをした。
それは、こうも信じられていたからだ。物凄《ものすご》い大男のインデアンがいて、そのインデアンの食物は鯨《くじら》だった。この大男は鳥の頭や、大きな翼を身につけ、腰のまわりには、龍《たつ》の落とし子に似た、光を放つ魚をつけている。雷が落ちると、その光を放つ魚もどこかに落ちて、その骨の一つでも拾った者は、鯨獲りの名人になると伝えられていた。それを信じて、インデアンたちは一心に山の中を探すのだ。こういうわけで鯨獲りを主とするマカハ族は、どこにでもその鳥を描いておくのだ。
それはともかく、インデアンたちが字を書いている姿を見たこともなければ、インデアンの字らしいものを、岩松は見たことがない。
(ここには文字はないのだ)
岩松はそう見て取っていた。字を書かぬここの人間たちに、筆や硯や半紙は無駄《むだ》だと岩松は思う。今、岩松は無性《むしよう》に筆と墨が欲しかった。紙が欲しかった。ここでの実情をのべ伝える手紙を、とにかく書かねばならぬと思った。岩松は日本の言葉しか知らない。日本の言葉を書いても、誰も読み得ないなどとは、岩松は考える余裕がなかった。誰か必ず、手から手へ、その手紙を然るべき人間に届けてくれるような気がしてならなかった。そう思うほどに、岩松はここでの生活に命の危険を感じた。アー・ダンクという男の目の光が、尋常には思えなかったのだ。
(どうやって、墨と筆を取り戻《もど》せるか)
不安げに自分を見ている音吉と久吉を、岩松は見た。
「舵取《かじと》りさん、もう少し眠ったら……」
おずおずと音吉が言う。どこかで赤子の泣き声がした。
「うん」
岩松はうなずいたが、
「いいか、久、音。男共は、明日の昼過ぎまで海にいる」
二人はうなずいた。男たちが鯨獲《くじらと》りに出るのはたいてい夜中で、翌日の昼過ぎにならなければ帰って来ない。
「その間に、何とか筆と墨を取り返すんだ」
「だって、女たちが見張っているで」
「うん。そこでだ。頼みがある。久公、音、明日になったら、何か外で騒ぎを起こすんだ。みんながわっと外へ出て行くような騒ぎを起こすんだ。その間に俺が懸硯《かけすずり》の中から取り戻す」
岩松は、自分が悪いことをするなどとは思わない。元々、船箪笥《ふなだんす》も衣類も、自分たちの物なのだ。それを奪ったのはここの男共だ。そう岩松は思っている。返してくれと言って返してくれる相手ではない。いや、言いたいにも言葉が通じないのだ。
「わかった、舵取《かじと》りさん。だけど、どんな騒ぎを起こしたらええやろ。俺が、死んだふりをしたらええやろか」
「死んだふりなあ。しかし、死んだと知らせる言葉がわからん」
「そうやなあ。したら、わしが大声を上げて、訳のわからんことを言って、海のほうを指さすか。みんな、何かと思うて飛び出すかも知れせんで」
「そうやな。それも一法だ。音も一緒に騒げるか」
音吉はうなずき、
「騒いでみる。騒いでみるわ」
と答えた。
「もっといい知恵がないかな」
三人は顔を寄せて、ひそひそと話し合う。
「もっとましな考えはないかな」
「そや! あのな舵取りさん。俺も音吉も、小野浦では竹馬乗りの名人やった」
「なるほど」
「それで、竹馬を造るのは訳はない。竹馬に乗って、二人でとんとん跳《は》ねて見せるのや。みんな珍しがるで」
「うん! それがいい。それなら女たちも、出て見るかも知れん」
「じゃ、明日早く起きて、その辺にある材料で造ってみるわ。この辺の山には竹は全くあらせんけど、細木でも伐ればええでな」
久吉の言葉に音吉もうなずいた。
三人はそれぞれ、まんじりともせず夜の明けるのを待った。そして朝がきた。
男たちのいない家の中は、和《なご》やかだった。女たちが声高く話しながら、籠《かご》を編んだり、マットを造ったりしている。子供たちが、笑ったり叫んだりしながら、土間を駈《か》けめぐったり、外に走り出たりしている。女も子供も、男たちが海に出たあとは、解放感に浸される。時折《ときおり》男たちは、大声で自分の妻を罵《ののし》り、素手《すで》で頬《ほお》を殴ったりするからだ。
岩松は土間《どま》で、大きな水桶《みずおけ》を造っていた。一枚の杉の板の面をのみで滑らかにし、ぬるま湯でぬらす。そして三本の溝《みぞ》で板を四等分し、その溝の部分をゆっくりと曲げるのだ。ここに来てから二つ目の仕事だから、むずかしくはない。岩松の手は動いてはいるが、耳は外に向けられている。岩松の坐《すわ》りこんだ土間は、酋長《しゆうちよう》の住む一画《いつかく》の傍《かたわ》らだ。水桶はそこに置かれるからだ。
時折、岩松の目が懸硯《かけすずり》に行く。
(そろそろ、始めてくれなけりゃ、昼飯の仕度が始まる)
岩松は少しいら立ってきた。音吉と久吉は外で薪割《まきわ》りをしているのだ。そして頃合《ころあ》いを見て竹馬に乗る筈《はず》だった。
(何をしてるんだ)
岩松は用を足すふりをして、よほど外に出ようかと思った。と、その時、戸を押して子供たちが騒ぎながら家の中に入って来た。見ると、久吉と音吉が竹馬に乗って、二、三歩土間に入って来た。女たちが驚きの声を上げた。と、久吉と音吉が、すぐさま向きを変えて外に出て行った。家にいた子供たちも、仕事をしていた女たちも、珍しいもの見たさに外に走って行った。ピーコーのはしゃぐ声がその中にあった。
(今だっ!)
岩松は家の中に誰もいなくなったのを見すますと、素早く立ち上がって酋長《しゆうちよう》のマットの上に飛び上がり、懸硯《かけすずり》の引き出しに手をかけた。硯、筆、墨、そして半紙を鷲《わし》づかみにして、岩松はうしろをふり返った。誰もいない。外では騒ぐ声がする。が、岩松の胸はとどろいた。岩松は急いで入り口近くの自分の場所に戻《もど》ると、梯子《はしご》を登って、一番上の音吉の寝床に上がった。音吉にも小さな籠《かご》が与えられ、そこに僅《わず》かな私物を入れてある。岩松はその籠の中に、今奪い返した物をそっと入れた。大仕事をした後のように、岩松は肩で大きく息をした。そして、降りようと梯子《はしご》に足をかけ、はっと息をのんだ。梯子の下には、アー・ダンクの妻ヘイ・アイブが、大きく目を見ひらいて岩松を見上げていた。
男たちは皆、鯨《くじら》獲りに出るのだ。背まで長く垂れている髪を、男たちはぐるぐると巻いて団子に結んだ。ドウ・ダーク・テール(若い鳥)と呼ばれる、あの人なつっこい笑顔の若者が、岩松たちがまだ眠っているのに気づいて、
「イワ、イワ」
と、岩松の傍《そば》に寄った。が、岩松は深く眠りこんでいた。
再び、ドウ・ダーク・テールが、
「イワ、イワ」
と、やさしく呼んだ。
と、その時、アー・ダンクがつかつかとやって来たかと思うと、いきなり腰の鞭《むち》を取って、眠っている岩松を殴《なぐ》った。岩松ははっと目を覚ました。アー・ダンクの目が陰険に光っていた。
岩松はたった今、夢を見ていたのだ。熱田神宮の杜《もり》を、岩松は絹の肩を抱くようにして歩いていた。暗い道だった。真っ暗な筈《はず》なのに、しかし両側の松の木|肌《はだ》がはっきりと見えていた。
「いないわ、いないわ」
絹が吐息をつきながら言う。二人は岩太郎を探していたのだ。
「イワ! イワ」
岩松は岩太郎を呼びながら絹を抱えている。と、向こうから岩太郎が駈《か》けてくるのが見えた。まだ一歳の岩太郎がよちよちと駈けてくる。そのうしろから絹が駈けてくる。絹の白い足がちらちらと裾《すそ》から見える。岩松が肩を抱えているのも絹で、岩太郎のあとから駈けてくるのも絹だ。
(お絹が二人いる?)
そうは思ったが、さほど不思議とも思わず、岩松は大手をひろげて絹と岩太郎を待ち迎えた。今、まさに、その絹と岩太郎を腕の中に抱こうとして、岩松は殴られたのだ。
目を覚ました岩松に、再び鞭が鳴った。途端に岩松が大声で怒鳴った。
「何で殴るんだ!?」
海で鍛えた大きな声であった。アー・ダンクの口が歪んだ。と思うと、三度岩松の肩に鞭が鳴った。したたかな鞭であった。
「野郎!」
岩松は土間《どま》に飛び降り、仁王《におう》立ちになって、アー・ダンクを睨《にら》みつけた。ドウ・ダーク・テールが、二人の間に割って入り、岩松を背にアー・ダンクに何か言った。が、アー・ダンクは首を横にふり、ドウ・ダーク・テールを押し退《の》けようとした。ドウ・ダーク・テールは何か叫んだ。「なぜ殴る」と言ったのだ。アー・ダンクが大声で「奴隷《どれい》のくせに、起こされても起きないからだ、怠け者だ」と、罵《ののし》った。音吉も久吉も、岩松の怒声に驚いて目を覚ましていた。二人は岩松の背に両側から寄りそっていた。
アー・ダンクの鞭《むち》が、岩松よりも先に、若者ドウ・ダーク・テールに向かってふり上げられた時、酋長《しゆうちよう》が近づいて来た。酋長が低い声で何か言い、アー・ダンクの肩を叩《たた》いた。アー・ダンクは語気強く言い返した。酋長は首を横にふり、再び同じ言葉を言った。アー・ダンクは不満げに口を結ぶと、鞭をふりながら外に出ていった。酋長はアー・ダンクにこう言ったのだ。
「こいつは俺の大事な財産だ」
と。酋長は岩松のみみず腫《ば》れになった肩に手を置き、顔をしかめて何か言った。
「痛いか」
と言ったのだと三人は思った。が、酋長は、
「こわされるところだった」
と言ったのだ。酋長たちには、奴隷《どれい》は物であった。その酋長のうしろに、女や子供たちが立っていた。アー・ダンクの妻だけが、少し離れて岩松の顔をみつめていた。酋長の妻が、いつのまにか、小さな壺《つぼ》に入れた油を持って来、岩松の肩にていねいに塗った。マカハ族の女たちの指は、節が太い。よく働くからだ。酋長の妻の指も、他の女たちに劣らぬほどに太かった。その指先を、アー・ダンクの妻ヘイ・アイブはじっとみつめていた。
やがて、男たちは皆、鯨獲《くじらと》りに出て行った。酋長も出て行った。鯨獲りのカヌーには八人乗れる。アー・ダンクは、岩松を漁につれて行くつもりだったが、酋長が許さなかった。アー・ダンクと岩松が海に出て、ひと騒動起こしそうな不安を酋長は感じたのだ。
男たちが出て行ってしまうと、女子供たちはそれぞれ、自分の床の中に戻《もど》って寝た。岩松は不貞《ふて》たようにごろりとマットの上に横になった。
「痛かったやろな、舵取《かじと》りさん」
音吉が心配そうにのぞきこんだ。
「蝮《まむし》は半気ちがいや」
久吉も憤慨した。ここに来て、久吉も音吉も、日に一度や二度はアー・ダンクに鞭《むち》で殴《なぐ》られた。何か言われて、ぼんやりしているとすぐにアー・ダンクは鞭を振るうのだ。酋長《しゆうちよう》や他の者たちは、たとえ言葉が通じなくても、手真似《てまね》で命じてくれた。薪《まき》を割る真似をすれば、薪を割れということだとすぐにわかる。水を汲《く》む皮袋を指して何か言えば、水を汲むことだとわかる。が、アー・ダンクはそうした工夫を全くしない。ドスの利いた声で、最初から居丈高《いたけだか》に怒鳴るのだ。傍《かたわ》らに誰かいて、素早く手真似で通訳してくれれば、何とか事は足りるが、傍らに誰かいなければ、殴られるだけなのだ。だが、みみず腫《ば》れになるほど殴られたことはまだなかった。痛くはあっても、仕事をしているうちに忘れる程度の痛さだった。だが、今夜、岩松を殴った殴り方は、尋常ではなかった。岩松が反抗の色を見せたからでもあった。
奴隷は、岩松たちのほかに、男が二人と、女が二人この家にいた。何年も前に、バンクーバーから買われて来たというこれらの奴隷たちは、言葉が通じた。そしてそのうちの二人は夫婦になっていた。だから、初めは彼らが奴隷だということを、岩松たちは知らなかった。只《ただ》、時折《ときおり》アー・ダンクが荒々しく怒鳴ったり、鞭《むち》を振るう真似《まね》をしたりするので、次第にわかって来たのだ。
「眠れるかい、舵取《かじと》りさん」
音吉が岩松の肩に手を当てた。岩松が、
「心配するな、音」
と、かすかに笑ってみせたが、
「酒でも飲みてえよ」
と久吉を見た。
「ほんとやなあ。酒があったらなあ、何でここには酒がないんやろ。なあ音」
「ほんとにな。舵取りさんは酒が好きなのにな。憂《う》さばらしもできせん」
他のインデアンたちとちがって、このマカハ族には酒がなかった。
岩松は今、音吉と久吉の言葉を聞きながら心の底深く、一つのことを決意した。
「音、久吉」
寝ころんでいた岩松が、起き上がって二人の顔を見た。只《ただ》ならぬ顔であった。男たちが出て行ったあと、灯はいつものとおり二箇所になった。薄暗い中で、岩松の目が異様に光った。
「何や、舵取《かじと》りさん」
不安げに顔を寄せる久吉に、
「俺はここを逃げ出すぜ」
岩松はきっぱりと言った。
「逃げる!?」
久吉は思わず声を上げ、あわてて口をつぐんだ。誰も日本語は知っていないと知りながら、思わず口を閉じたのだ。
「うん、逃げる!」
「どうやって逃げるんや、舵取りさん」
音吉の声も不安げであった。
「今すぐとは言わん。だが必ず逃げて見せる」
「舵取りさん一人でか」
「お前たちの気持ち次第や」
「そりゃ言わんでも決まっとるがな舵取りさん。な音吉」
「うん、決まっとる。死ぬも生きるも、舵取りさんと一緒や」
「そうか。それで決まった。とにかく俺は、あの蝮《まむし》の顔を見ていると、叩《たた》き殺してしまいたくなる。殺すのはたやすいが、そのあとが面倒だ。そんなことにならねえように、何とか逃げ出さなあかんでな」
「…………」
岩松は心の中で、手紙を書こうと決めた。バンクーバー島から、時折《ときおり》カヌーがやって来る。毛布や小麦粉や、砂糖などをカヌーは運んで来る。それはバンクーバー島から運んで来るのだが、むろん岩松たちはその船がどこから来るのか知らない。岩松は書いた手紙を、よそから来る船に渡そうと思うのだ。たとえ相手が日本の文字がわからなくても、いつかは日本の地に届くような気がする。世界の地理も事情もわからぬ岩松だが、とにかく救出をねがう手紙を書こうと決意したのだ。先程《さきほど》の鞭《むち》の痛みが、岩松に決意させたのだ。
(だが、何で書く?)
岩松は痛む肩に手をやりながら、まばたきもせずに考えた。船箪笥《ふなだんす》も懸硯《かけすずり》も酋長《しゆうちよう》に奪われてしまった。あの懸硯には、筆も硯も半紙も入っている。が、ついぞ酋長が字を書いている姿を見たことがない。いや、酋長だけでなく、他の男も女も子供も、字を書いている姿を見たことがない。入り口の柱や扉に、絵は描いてある。それも奇妙な鳥の絵が多い。その奇妙な鳥が「雷の鳥」と呼ばれるものだとは、岩松たちは知らない。その鳥は、空を覆うほどの大きな翼を持ってい、その翼を動かすと、雷が鳴るとインデアンたちは信じていた。そしてまた、山に雷が落ちると、インデアンたちは総出で山探しをした。
それは、こうも信じられていたからだ。物凄《ものすご》い大男のインデアンがいて、そのインデアンの食物は鯨《くじら》だった。この大男は鳥の頭や、大きな翼を身につけ、腰のまわりには、龍《たつ》の落とし子に似た、光を放つ魚をつけている。雷が落ちると、その光を放つ魚もどこかに落ちて、その骨の一つでも拾った者は、鯨獲りの名人になると伝えられていた。それを信じて、インデアンたちは一心に山の中を探すのだ。こういうわけで鯨獲りを主とするマカハ族は、どこにでもその鳥を描いておくのだ。
それはともかく、インデアンたちが字を書いている姿を見たこともなければ、インデアンの字らしいものを、岩松は見たことがない。
(ここには文字はないのだ)
岩松はそう見て取っていた。字を書かぬここの人間たちに、筆や硯や半紙は無駄《むだ》だと岩松は思う。今、岩松は無性《むしよう》に筆と墨が欲しかった。紙が欲しかった。ここでの実情をのべ伝える手紙を、とにかく書かねばならぬと思った。岩松は日本の言葉しか知らない。日本の言葉を書いても、誰も読み得ないなどとは、岩松は考える余裕がなかった。誰か必ず、手から手へ、その手紙を然るべき人間に届けてくれるような気がしてならなかった。そう思うほどに、岩松はここでの生活に命の危険を感じた。アー・ダンクという男の目の光が、尋常には思えなかったのだ。
(どうやって、墨と筆を取り戻《もど》せるか)
不安げに自分を見ている音吉と久吉を、岩松は見た。
「舵取《かじと》りさん、もう少し眠ったら……」
おずおずと音吉が言う。どこかで赤子の泣き声がした。
「うん」
岩松はうなずいたが、
「いいか、久、音。男共は、明日の昼過ぎまで海にいる」
二人はうなずいた。男たちが鯨獲《くじらと》りに出るのはたいてい夜中で、翌日の昼過ぎにならなければ帰って来ない。
「その間に、何とか筆と墨を取り返すんだ」
「だって、女たちが見張っているで」
「うん。そこでだ。頼みがある。久公、音、明日になったら、何か外で騒ぎを起こすんだ。みんながわっと外へ出て行くような騒ぎを起こすんだ。その間に俺が懸硯《かけすずり》の中から取り戻す」
岩松は、自分が悪いことをするなどとは思わない。元々、船箪笥《ふなだんす》も衣類も、自分たちの物なのだ。それを奪ったのはここの男共だ。そう岩松は思っている。返してくれと言って返してくれる相手ではない。いや、言いたいにも言葉が通じないのだ。
「わかった、舵取《かじと》りさん。だけど、どんな騒ぎを起こしたらええやろ。俺が、死んだふりをしたらええやろか」
「死んだふりなあ。しかし、死んだと知らせる言葉がわからん」
「そうやなあ。したら、わしが大声を上げて、訳のわからんことを言って、海のほうを指さすか。みんな、何かと思うて飛び出すかも知れせんで」
「そうやな。それも一法だ。音も一緒に騒げるか」
音吉はうなずき、
「騒いでみる。騒いでみるわ」
と答えた。
「もっといい知恵がないかな」
三人は顔を寄せて、ひそひそと話し合う。
「もっとましな考えはないかな」
「そや! あのな舵取りさん。俺も音吉も、小野浦では竹馬乗りの名人やった」
「なるほど」
「それで、竹馬を造るのは訳はない。竹馬に乗って、二人でとんとん跳《は》ねて見せるのや。みんな珍しがるで」
「うん! それがいい。それなら女たちも、出て見るかも知れん」
「じゃ、明日早く起きて、その辺にある材料で造ってみるわ。この辺の山には竹は全くあらせんけど、細木でも伐ればええでな」
久吉の言葉に音吉もうなずいた。
三人はそれぞれ、まんじりともせず夜の明けるのを待った。そして朝がきた。
男たちのいない家の中は、和《なご》やかだった。女たちが声高く話しながら、籠《かご》を編んだり、マットを造ったりしている。子供たちが、笑ったり叫んだりしながら、土間を駈《か》けめぐったり、外に走り出たりしている。女も子供も、男たちが海に出たあとは、解放感に浸される。時折《ときおり》男たちは、大声で自分の妻を罵《ののし》り、素手《すで》で頬《ほお》を殴ったりするからだ。
岩松は土間《どま》で、大きな水桶《みずおけ》を造っていた。一枚の杉の板の面をのみで滑らかにし、ぬるま湯でぬらす。そして三本の溝《みぞ》で板を四等分し、その溝の部分をゆっくりと曲げるのだ。ここに来てから二つ目の仕事だから、むずかしくはない。岩松の手は動いてはいるが、耳は外に向けられている。岩松の坐《すわ》りこんだ土間は、酋長《しゆうちよう》の住む一画《いつかく》の傍《かたわ》らだ。水桶はそこに置かれるからだ。
時折、岩松の目が懸硯《かけすずり》に行く。
(そろそろ、始めてくれなけりゃ、昼飯の仕度が始まる)
岩松は少しいら立ってきた。音吉と久吉は外で薪割《まきわ》りをしているのだ。そして頃合《ころあ》いを見て竹馬に乗る筈《はず》だった。
(何をしてるんだ)
岩松は用を足すふりをして、よほど外に出ようかと思った。と、その時、戸を押して子供たちが騒ぎながら家の中に入って来た。見ると、久吉と音吉が竹馬に乗って、二、三歩土間に入って来た。女たちが驚きの声を上げた。と、久吉と音吉が、すぐさま向きを変えて外に出て行った。家にいた子供たちも、仕事をしていた女たちも、珍しいもの見たさに外に走って行った。ピーコーのはしゃぐ声がその中にあった。
(今だっ!)
岩松は家の中に誰もいなくなったのを見すますと、素早く立ち上がって酋長《しゆうちよう》のマットの上に飛び上がり、懸硯《かけすずり》の引き出しに手をかけた。硯、筆、墨、そして半紙を鷲《わし》づかみにして、岩松はうしろをふり返った。誰もいない。外では騒ぐ声がする。が、岩松の胸はとどろいた。岩松は急いで入り口近くの自分の場所に戻《もど》ると、梯子《はしご》を登って、一番上の音吉の寝床に上がった。音吉にも小さな籠《かご》が与えられ、そこに僅《わず》かな私物を入れてある。岩松はその籠の中に、今奪い返した物をそっと入れた。大仕事をした後のように、岩松は肩で大きく息をした。そして、降りようと梯子《はしご》に足をかけ、はっと息をのんだ。梯子の下には、アー・ダンクの妻ヘイ・アイブが、大きく目を見ひらいて岩松を見上げていた。