澄んだ青い空が、岩松、久吉、音吉の、三人の上にあった。今、三人は河口に近い洗濯場《せんたくば》で、与えられた洗濯物を洗っていた。傍《かたわ》らには、炉の中からすくってきた灰が、木の器に入れてある。
「これ、舵取《かじと》りさんの刺し子やな」
久吉が両手に紺の刺し子を持って、岩松に見せた。岩松はその刺し子を見たが、何も言わない。目の底にかすかに怒りの色があるのを音吉は見た。久吉が、
「なあ音吉、これ舵取りさんのやな」
と念を押す。
「そうや、舵取りさんのや」
黙っている岩松の心が、音吉にはわかるような気がした。この刺し子を縫ったのは、あの熱田で見た岩松の妻なのだと、音吉は思う。まさかそれが取り上げられて、インデアンの男たちに着られるとは、絹は夢にも思わなかったにちがいない。
何となく三人は黙った。言いたいことがたくさんある。が、言ってみてもどうにもならぬことばかりなのだ。
(家の者はどうしているか)
(いつになったら帰れるのか)
(ここでこのまま一生を終えるのか)
(米の飯《めし》を食べてみたい)
どれもこれも、くり返し語り合って来たことなのだ。それでもなお、幾度となく語り合いたいことなのだ。だが今、岩松が自分の刺し子を前にして、ひとことも語らぬのを見ると、それらの言葉を口から出しては悪いような気がする。
洗濯物《せんたくもの》に灰をふり、そこに置かれた大きな石の上に置く。そして、平たい石でこすったり叩《たた》いたり、手でもんだりして洗うのだ。いくら暖かいといっても、十二月の風は冷たい。三人の手に、ひびが幾つも切れている。水も冷たい。只《ただ》半裸に馴《な》れた水主の三人には、それほど辛《つら》くはないというだけだ。
濯《すす》がれた洗濯物が、杉の皮で編んだ籠《かご》の中に次々と入れられていく。音吉はふっと目を上げて、遥《はる》か彼方の水平線を見た。この海の果てに日本がある。そう思うと、音吉はたまらなくなる。いつも水平線を見る度に思うことなのだ。と、久吉が言った。
「なあ、音。この海は日本までつづいているんやもな」
「うん、そうやなあ」
やはり久吉も同じことを考えていたのかと音吉は思った。が、岩松は険しい顔をして二人を見た。岩松は、音吉たちが日本の話をすると、時にこんなきびしい顔をする。はじめは、それが音吉には不思議だった。が、この頃《ごろ》では、そんな気持ちもわかるのだ。岩松には妻子もいれば老いた養父母もいる。故国のことを思うといても立ってもいられなくなるのだ。
宝順丸の上にいて、日本を思うのと、インデアンたちの中に奴隷《どれい》として生活しながら日本を思うのとでは、大きな差があった。
見たこともない他民族の中に、こき使われながら生きていると、日本は余りにも遠い遥かな国に思われてくる。宝順丸はまだ日本の延長であった。米もあれば障子《しようじ》もあった。刺し子も股引《ももひ》きも手拭《てぬぐ》いもあった。布団もあれば、かいまきもあった。茣蓙《ござ》もあれば、和紙もあった。いや、何よりも神棚《かみだな》があり、仏壇があった。そして船玉《ふなだま》さまが厳然としてあった。宝順丸の中には、このように日本があった。
インデアンたちは、仏壇や神棚を何と思ったのか、叩《たた》き壊して、浜べで焼き捨ててしまった。
(船玉さまだけは……)
心ひそかに音吉はそう思って、浜べに打ち上げられている宝順丸のほうに向かって、いつも手を合わせてきた。だが岩松も久吉も、
「船玉さまは、脱《ぬ》けてしまったでな」
そう言って手も合わせない。破船する前に、船玉は必ずその船から消えてしまうと言い伝えられていたからだ。それは破船した船を解体してみても、確かに入れて置いた筈《はず》の髪の毛や、五穀《ごこく》が見えなくなっていることが多いからでもあった。船を上がる時、それらを誰かが持ち去ったものであろうと見る者もいた。だから大方は、
「船玉さまに見捨てられたから、破船した」
と、信じていた。
音吉はしかし、あの宝順丸から船玉が消えたとは思っていない。琴の髪の毛が入っている筈の船玉が、自分を見捨てて消え去ることはないと、確信している。体に暇が出来たら、必ずその有無を確かめようと心に決めていた。
「それにしても酋長《しゆうちよう》は、あの宝順丸をどうする気なのだろう」
三人はよく語り合う。
「あったかくなったら、あの船を修理するつもりかも知れせんな」
「それとも、ばらばらにして、何かに使うかもな」
「薪《まき》にして燃やすのや」
「いやいや、死人がたくさん出た船や。これ以上手をつけられせん」
三人はそんなことを語り合い、もし修理が可能なら、あの船に乗って逃げようと話し合ったこともある。
と、そこに、人影がさした。アー・ダンクの妻ヘイ・アイブだった。ヘイ・アイブは何か言った。久吉と音吉がヘイ・アイブを見上げた。
「きれいな目やなあ」
久吉は、言葉が通じぬのをよいことに、大きな声で言った。ヘイ・アイブはにっこりと笑った。が、岩松は見向きもせずに、洗濯《せんたく》をつづけている。ヘイ・アイブはその岩松の横に屈《かが》みこんで、手に持っていた小さな籠を置いた。うまそうな、煎餠《せんべい》に似た菓子がその中にあった。
「ありがとう」
音吉が礼を言った。
「ありがとう」
久吉も言った。女はうなずき、岩松の顔をのぞきこむようにした。岩松は横目でちらりと見て、かすかに笑った。音吉がはっとする程《ほど》、男らしい笑顔だった。ヘイ・アイブは川上を指し、何か言った。何を言っているのか、依然としてわからない。只《ただ》、ピーコーの名が二度|程《ほど》女の口から出た。何のことかと思った時、灌木《かんぼく》の繁みの方から、子供たちの歌声が聞こえて来た。大勢の声だ。ヘイ・アイブは岩松を見、再び笑顔を見せると、三人の傍《かたわ》らをゆっくりと離れて行った。
「何や、大勢の子供たちやな」
久吉が手籠《てかご》の煎餠《せんべい》を頬張《ほおば》りながら言った。音吉も煎餠を手に取った。岩松は二枚同時に手に取って口に入れた。
ピーコーを囲んで、この数日子供たちは歌いつづけだった。その子供たちが、今度は外に出て来たのだろうか。訝《いぶか》しく思った三人の目に、小川のほとりに出て来た子供たちの長い列が見えた。一番前に頭から毛布をかぶった子が歩いて来る。この集落の子供たちは、全員ついて来たようであった。
「ピーコーや!」
久吉が叫んだ。ヘイ・アイブの立っている所に、子供たちは集まった。と、ピーコーが毛布をさらりと脱《ぬ》ぎ捨てた。音吉は息をのんだ。全裸のピーコーを冬陽が照らした。ピーコーは静々と流れの中に入って行く。
「どうしたんや!?」
久吉が驚きの声を上げた。
「潔《きよ》めや」
ぶっきら棒に岩松が言った。
「潔め?」
久吉は怪訝《けげん》な顔をしたが、すぐにうなずいて手を叩き、
「なあんだ、そうか。やっぱり別鍋《べつなべ》だったんやな」
と、音吉の顔を見た。音吉はひどく悪いことをしたような気がして、ピーコーから目を外《そ》らした。
「けど舵取《かじと》りさん。子供たちは何であんなに歌ったんやろ」
「知らん。多分魔よけやろな。子供たちが歌っていれば、悪魔や病気がつかんと言う迷信でもあるんやろ」
「へーえ、魔よけか。毎月別鍋の度《たび》に、あんなに歌わんならんとは、かなわんな」
「まさか、毎月やないやろ。ピーコーは恐らく初めてのことや。あれは初めての儀式や。祝いや」
水の中に白く見えるピーコーの裸身に目をやりながら岩松は言った。
「これ、舵取《かじと》りさんの刺し子やな」
久吉が両手に紺の刺し子を持って、岩松に見せた。岩松はその刺し子を見たが、何も言わない。目の底にかすかに怒りの色があるのを音吉は見た。久吉が、
「なあ音吉、これ舵取りさんのやな」
と念を押す。
「そうや、舵取りさんのや」
黙っている岩松の心が、音吉にはわかるような気がした。この刺し子を縫ったのは、あの熱田で見た岩松の妻なのだと、音吉は思う。まさかそれが取り上げられて、インデアンの男たちに着られるとは、絹は夢にも思わなかったにちがいない。
何となく三人は黙った。言いたいことがたくさんある。が、言ってみてもどうにもならぬことばかりなのだ。
(家の者はどうしているか)
(いつになったら帰れるのか)
(ここでこのまま一生を終えるのか)
(米の飯《めし》を食べてみたい)
どれもこれも、くり返し語り合って来たことなのだ。それでもなお、幾度となく語り合いたいことなのだ。だが今、岩松が自分の刺し子を前にして、ひとことも語らぬのを見ると、それらの言葉を口から出しては悪いような気がする。
洗濯物《せんたくもの》に灰をふり、そこに置かれた大きな石の上に置く。そして、平たい石でこすったり叩《たた》いたり、手でもんだりして洗うのだ。いくら暖かいといっても、十二月の風は冷たい。三人の手に、ひびが幾つも切れている。水も冷たい。只《ただ》半裸に馴《な》れた水主の三人には、それほど辛《つら》くはないというだけだ。
濯《すす》がれた洗濯物が、杉の皮で編んだ籠《かご》の中に次々と入れられていく。音吉はふっと目を上げて、遥《はる》か彼方の水平線を見た。この海の果てに日本がある。そう思うと、音吉はたまらなくなる。いつも水平線を見る度に思うことなのだ。と、久吉が言った。
「なあ、音。この海は日本までつづいているんやもな」
「うん、そうやなあ」
やはり久吉も同じことを考えていたのかと音吉は思った。が、岩松は険しい顔をして二人を見た。岩松は、音吉たちが日本の話をすると、時にこんなきびしい顔をする。はじめは、それが音吉には不思議だった。が、この頃《ごろ》では、そんな気持ちもわかるのだ。岩松には妻子もいれば老いた養父母もいる。故国のことを思うといても立ってもいられなくなるのだ。
宝順丸の上にいて、日本を思うのと、インデアンたちの中に奴隷《どれい》として生活しながら日本を思うのとでは、大きな差があった。
見たこともない他民族の中に、こき使われながら生きていると、日本は余りにも遠い遥かな国に思われてくる。宝順丸はまだ日本の延長であった。米もあれば障子《しようじ》もあった。刺し子も股引《ももひ》きも手拭《てぬぐ》いもあった。布団もあれば、かいまきもあった。茣蓙《ござ》もあれば、和紙もあった。いや、何よりも神棚《かみだな》があり、仏壇があった。そして船玉《ふなだま》さまが厳然としてあった。宝順丸の中には、このように日本があった。
インデアンたちは、仏壇や神棚を何と思ったのか、叩《たた》き壊して、浜べで焼き捨ててしまった。
(船玉さまだけは……)
心ひそかに音吉はそう思って、浜べに打ち上げられている宝順丸のほうに向かって、いつも手を合わせてきた。だが岩松も久吉も、
「船玉さまは、脱《ぬ》けてしまったでな」
そう言って手も合わせない。破船する前に、船玉は必ずその船から消えてしまうと言い伝えられていたからだ。それは破船した船を解体してみても、確かに入れて置いた筈《はず》の髪の毛や、五穀《ごこく》が見えなくなっていることが多いからでもあった。船を上がる時、それらを誰かが持ち去ったものであろうと見る者もいた。だから大方は、
「船玉さまに見捨てられたから、破船した」
と、信じていた。
音吉はしかし、あの宝順丸から船玉が消えたとは思っていない。琴の髪の毛が入っている筈の船玉が、自分を見捨てて消え去ることはないと、確信している。体に暇が出来たら、必ずその有無を確かめようと心に決めていた。
「それにしても酋長《しゆうちよう》は、あの宝順丸をどうする気なのだろう」
三人はよく語り合う。
「あったかくなったら、あの船を修理するつもりかも知れせんな」
「それとも、ばらばらにして、何かに使うかもな」
「薪《まき》にして燃やすのや」
「いやいや、死人がたくさん出た船や。これ以上手をつけられせん」
三人はそんなことを語り合い、もし修理が可能なら、あの船に乗って逃げようと話し合ったこともある。
と、そこに、人影がさした。アー・ダンクの妻ヘイ・アイブだった。ヘイ・アイブは何か言った。久吉と音吉がヘイ・アイブを見上げた。
「きれいな目やなあ」
久吉は、言葉が通じぬのをよいことに、大きな声で言った。ヘイ・アイブはにっこりと笑った。が、岩松は見向きもせずに、洗濯《せんたく》をつづけている。ヘイ・アイブはその岩松の横に屈《かが》みこんで、手に持っていた小さな籠を置いた。うまそうな、煎餠《せんべい》に似た菓子がその中にあった。
「ありがとう」
音吉が礼を言った。
「ありがとう」
久吉も言った。女はうなずき、岩松の顔をのぞきこむようにした。岩松は横目でちらりと見て、かすかに笑った。音吉がはっとする程《ほど》、男らしい笑顔だった。ヘイ・アイブは川上を指し、何か言った。何を言っているのか、依然としてわからない。只《ただ》、ピーコーの名が二度|程《ほど》女の口から出た。何のことかと思った時、灌木《かんぼく》の繁みの方から、子供たちの歌声が聞こえて来た。大勢の声だ。ヘイ・アイブは岩松を見、再び笑顔を見せると、三人の傍《かたわ》らをゆっくりと離れて行った。
「何や、大勢の子供たちやな」
久吉が手籠《てかご》の煎餠《せんべい》を頬張《ほおば》りながら言った。音吉も煎餠を手に取った。岩松は二枚同時に手に取って口に入れた。
ピーコーを囲んで、この数日子供たちは歌いつづけだった。その子供たちが、今度は外に出て来たのだろうか。訝《いぶか》しく思った三人の目に、小川のほとりに出て来た子供たちの長い列が見えた。一番前に頭から毛布をかぶった子が歩いて来る。この集落の子供たちは、全員ついて来たようであった。
「ピーコーや!」
久吉が叫んだ。ヘイ・アイブの立っている所に、子供たちは集まった。と、ピーコーが毛布をさらりと脱《ぬ》ぎ捨てた。音吉は息をのんだ。全裸のピーコーを冬陽が照らした。ピーコーは静々と流れの中に入って行く。
「どうしたんや!?」
久吉が驚きの声を上げた。
「潔《きよ》めや」
ぶっきら棒に岩松が言った。
「潔め?」
久吉は怪訝《けげん》な顔をしたが、すぐにうなずいて手を叩き、
「なあんだ、そうか。やっぱり別鍋《べつなべ》だったんやな」
と、音吉の顔を見た。音吉はひどく悪いことをしたような気がして、ピーコーから目を外《そ》らした。
「けど舵取《かじと》りさん。子供たちは何であんなに歌ったんやろ」
「知らん。多分魔よけやろな。子供たちが歌っていれば、悪魔や病気がつかんと言う迷信でもあるんやろ」
「へーえ、魔よけか。毎月別鍋の度《たび》に、あんなに歌わんならんとは、かなわんな」
「まさか、毎月やないやろ。ピーコーは恐らく初めてのことや。あれは初めての儀式や。祝いや」
水の中に白く見えるピーコーの裸身に目をやりながら岩松は言った。