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創造の人生03

时间: 2020-10-28    进入日语论坛
核心提示:祖父・井深 基 一方、井深については、自身による著作『私の履歴書』(日本経済新聞社刊)や、本人の談話が、いろいろな刊行物
(单词翻译:双击或拖选)
 祖父・井深 基
 
 一方、井深については、自身による著作『私の履歴書』(日本経済新聞社刊)や、本人の談話が、いろいろな刊行物で何度も採り上げられているだけにその上塗りをするのはなるべく避けたいのだが、ハワード・ヒューズと共通点を探るため、関連のありそうなところを選び、あえて再現することにした。
 井深大(いぶかまさる)は、ヒューズが生まれた二年四ヵ月後の一九〇八年(明治四十一年)四月、栃木県日光町字清滝の古河鉱業日光製銅所の社宅で産声を上げた。
 父の甫(はじめ)は新渡戸稲造の門下生で、札幌中学から蔵前高等工業(現東京工業大学)の電気化学科を出た、先見性のある技術者であった。学生時代、静岡県御殿場線の小山に、洋書と首っぴきで設計して、小さな水力発電所をつくった。その実績が高く評価され、五人の卒業生のなかでただ一人だけが〈天下の古河〉に入社できたのである。
 母親のさわは、北海道苫小牧出身だが、明治三十年代、日本女子大学を卒業したインテリ女性のはしりともいうべき人である。しかし、いわゆる〈才女〉というタイプでなく、伊東深水画伯の美人画から抜け出したような目元の涼しい、やさし気な人であった。
 この夫婦の一粒種として生まれた井深は、これといった病気もせず、すくすく育った。井深が三歳になったとき思わぬ不幸が訪れる。父の甫が突然この世を去った。銅山を歩いて裸電線に触れ、それがもとで病没したことになっているが、もともと虚弱な体質だったらしい。そのため井深と、若くして未亡人になった母のさわは、愛知県碧海郡安城町(現在の安城市)に住んでいた父方の祖父のもとに引き取られることになった。
 ここで井深の祖父のことに触れておく必要がありそうだ。井深の人間形成の核になる人だからである。祖父は名を基といい、かつて会津松平藩の藩士で、生家は一〇〇〇石取りの家老格という名門の嫡男であった。よく知られているように、徳川家親藩であった会津藩は、江戸末期、薩長連合を主体とする官軍に抵抗、最後は若松城にたてこもったが、武運拙なく敗れ去った。一八歳未満の若い藩士で結成された白虎隊が、飯盛山で自刃して果てたのはその直後であった。
 当時、基は一九歳になったばかりで、朱雀隊(すざくたい)(一八歳から三五歳)に属し、官軍と干戈を交えたが生き残り、藩主容保とともに官軍に降った。その後、戦後のきびしい処分がはじまり、藩主容保は江戸送り、藩の重臣たちは、高田藩、古河藩、彦根藩、南部藩に預けられる。基は、容保のあとを継いだ容大(当時、二歳)に従って、新領の津軽斗南藩に移住したが、禄高は三万石(実質七千石)に減封されていた。
 このとき会津からは藩士や農家など二〇〇余戸が行をともにした。ところが、斗南は降雪が多いうえに土地は荒れて、開墾には不向きであった。このため前途を悲観した移住者のなかから会津に逃げ帰ったり、他藩に失踪するものが続出した。だが基は幼い旧藩主のもとを離れようとはしなかった。
 明治四年七月、新政府は廃藩置県の政令を発布し、日本人はみな天皇の御親政を仰ぐ民となった。これを契機に、基は幼君のもとをはなれ、北海道開拓の仕事に取り組むことを決意する。北海道に移住する者はこれまで通り士族の身分を保証されるが、現住地に留まると百姓(平民)に身を落とさなければ食べていけない。それが嫌だったのである。
 こうして基は家族とともに札幌に移り、北海道開拓使の役人になった。この頃、北海道開拓を志したのは斗南藩の藩士だけではない。戊辰の役で官軍に抵抗した仙台藩、南部藩の藩士も、大挙して北海道に渡り、道南地方の開拓事業に加わっている。室蘭本線の伊達紋別には仙台藩の開発拠点としていまでも当時の史跡が残っている。
 明治政府の手厚い援助のもとではじまった開拓事業は容易でなかった。幸い基は県令の深野一三に重用され、指導的な役割を果たした。のちに深野が愛知県の県令に転じたとき、基はとくに望まれ、愛知県に同行している。北海道開拓使での実績がかわれたのであった。
 愛知県に着任した深野は、基を県の課長に登用、重要な職務に就かせようとしたが、基はそれを辞退、一郡の行政官である郡長の仕事を望んだ。斗南、道南開拓の貴重な体験を活かし、新田開発に取り組んでみようと思ったのだ。つまり、地位よりも、いかに農民の生活を豊かにするかに情熱を燃やしていたのだ。
 その成果の一つが明治用水から水を引くためにつくった愛知県碧海郡高岡町に現存する駒場用水である。この用水の完成で数百戸の農家が恩恵に浴し、現在でも感謝されている。その後、基は県の商工課長、部長職を歴任、愛知県の産業振興に大きな貢献をしている。そんな気骨のある基が井深母子を引き取ったのは、県の役人をやめる前であった。
 基夫婦は、若くして未亡人になった嫁のさわと孫の大を暖かく迎え、何かと面倒をみてくれた。祖父母との生活に馴れてくると、井深は次第に持ち前の茶目っ気を発揮する。ある日、親戚の家に遊びに行き、金屏風にいたずら描きをして大騒ぎになった。もちろん、基もきびしく叱った。以来、幼い井深の関心は身の回りの小物いじりに移ってゆく。最初は目覚し時計をバラバラに分解し、元通りに組み立てることからはじまった。しかし、三歳や四歳の幼児に簡単に復元できるわけがない。そのときは、子供心にたいへんなことをしてしまったと思い込み、ベソをかいたと井深は述懐している。だが、井深少年はそれに懲りることなく、何度も挑戦した。そしていつの間にか元通りに組み立てることができるようになった。もっとも、そのために何個も目覚し時計を壊し、母をハラハラさせたらしい。だが、それによって井深少年の機械に対する関心がますます強くなったことは確かである。祖父や母から聞かされた優れた技術者であった亡父の話が、少年の隠れた資質を刺激したのかもしれない。
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