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創造の人生04

时间: 2020-10-28    进入日语论坛
核心提示:母と子 安城での生活は井深の母、さわにとって必ずしも快いものではなかったようだ。女子大を出て、進歩的な考えをもっていただ
(单词翻译:双击或拖选)
 母と子
 
 安城での生活は井深の母、さわにとって必ずしも快いものではなかったようだ。女子大を出て、進歩的な考えをもっていただけに、昔気質の舅のもとでの田舎暮らしは息苦しかったのだろう。二年後には自活の道を求めて上京する決意を固めた。
 やがて母校の日本女子大附属幼稚園に職を得たさわは、幼い井深を伴って上京した。新しい住居は目白の住宅街の一角にあった借家で、井深はここから母と一緒に幼稚園、附属小学校に通うようになった。教育熱心だったさわは、暇をみつけては井深を博覧会や博物館に連れて行った。それが後に自分の人生の方向を決める伏線になろうとは、井深自身、知る由もなかった。
 前に述べた目覚し時計の例でもわかるように、もともと井深は手先の器用な少年であった。それを象徴するような話がある。幼稚園時代、たまたま母に連れられて亡父の友人の家を訪れた。そこで珍しい玩具を見つけた。大小の鉄板をねじとナットを使って組み立て、汽車とか風車の模型をつくる〈メカノ〉という外国製の教育玩具である。それに興味をもった井深は、その家の子供ができないいろいろな模型をつくってみせ、周囲の人を驚かせた。おかげで井深は、その玩具を褒美にもらい意気揚々と帰って来たという。
 ところで、この頃、井深は自分の生涯にとってかけがえのない大事な人と出会っている。のちに『銭形平次捕物控』など、数多くの大衆時代小説を書き有名になった野村胡堂と、その夫人である。当時、野村は報知新聞の記者をしながら創作活動をしていたが、ひどい貧乏暮らしをしていた。小説が売れなかったからだ。夫人が女学校の教師をしながら生計を支えていたのもそのためである。野村の住居は井深母子が住む目白の家の近くにあった。夫人と井深の母は女学校時代の親友であった。そのため両家は親類同様の交際をしていた。そんな関係で井深は野村を慈父のように慕い、野村の家で好き放題に遊び回った。
 しかし、こうした東京での楽しい生活も一年半ほどで終わる。さわの父、井深にとっては母方の祖父が病いで倒れたため、北海道の苫小牧に転居せざるを得なくなったためだ。井深が小学一年の二学期を終えた直後であった。
 母方の祖父は、長年、苫小牧の郵便局長をやっていた地元の名士の一人で、二万坪の土地をもつ大地主であった。もっともこの土地は、知人のたっての頼みで心ならずも買い取ったもので、入手価格は、当時の金で五円だったという。ところが、のちに王子製紙が進出したため、その所有地は町の目抜きの場所になり、祖父は苫小牧でも有数の資産家になった。その遺産で、井深は何一つ不自由なく暮らすことができたが、その頃の苫小牧は子供の教育には不向きなところであった。それに引き換え、父方の祖父の住む安城は、日本農業の先覚者といわれた山崎延吉の指導で新田開発が順調にすすみ、日本のデンマークといわれるほどになっていた。井深少年の教育に人一倍気を配っていたさわは、安城町に戻ったほうがよいのではと考えるようになった。
 こうして大正六年三月、井深少年はふたたび安城の祖父のもとで生活をはじめることになった。そんな矢先、井深の人間形成にとって大きな節目となった母、さわの再婚話がもちあがった。相手は山下汽船の元船長で、当時、神戸で海事審判補佐人(海事関係の弁護士)をしていた人だった。さわは、ずいぶん迷ったらしい。考え抜いた挙句、それとなく井深の気持ちを打診してみる気になった。
「実はね、こういう話があるけど、どうだろう。お前がいやならやめてもいいんだよ」
 と、母は口ごもりがちに話しかけた。九歳になったばかりの井深は、しばらく考えてからこういった。
「母さんがいいと思うなら、賛成だよ。すこし淋しい気もするけど、ぼくに新しいお父さんができるのが嬉しい」
 それを聞いたさわは、幼い井深の身体を力いっぱい抱きしめたに違いない。まさかそんな健気な返事が戻ってくるとは思っていなかったからだ。やがて話がまとまり、さわは神戸へ嫁いでいった。幼い井深を残していくのは、身を切られるほど辛かったはずである。子供心にそれがわかったとみえ井深も努めて明るく振舞ったという。
 現実に母かいなくなってみると、井深は心に大きな空洞ができたような思いに駆られた。それから井深の孤独との戦いがはじまる。もちろん、井深はいつもと変わらない表情で地元の小学校に通っていた。そんな井深を見かけた近所の人が「こんな小さな子供がいるのにネ」と同情の声を漏らした。たまたまそれを耳にした井深は、幼い子を残して再婚した母を非難する声の主にひどく反感を覚えたという。母をそんな目で見てほしくないと思ったのである。
 しかし、心のなかは口では表現できないほど複雑だったはずだ。もっていき場のない心のいらだちのはけ口を、井深は、算数や理科の学習、好きな機械いじりに求めた。問題の本質を自分で納得できるまで見定めようと、子供なりに執念を燃やした。こんなことがあった。
 小学校三年のとき、時計屋のショーウインドウに電鈴(ベル)が陳列されているのを見かけた。井深はそれがほしくてたまらず、さっそく、祖父にねだって、電池とベルを一揃え買ってもらった。そして夜中にそれをリンリン鳴らし、だいぶ叱られたという。
 この程度ならいたずらの域を出ないが、井深の場合は、それからもっと独創的な遊びに発展する。井深自身は次のように語っている。
「ベルと電池をつなぐ電線を長くしますとね、電池が一・五ボルトなので、鳴らなくなっちゃうんです。その頃は電線の内部抵抗が働くなんて知らなかった。電線を延ばしてどのくらいの距離までなら鳴るか、なんて調べたりしましてね。そのうちベルを鳴らしている電磁石を使って電信機をこしらえ、勝手な信号を決めて、隣の家の友達と交信したりして遊んだものです」
 単なるベルが、井深の手にかかるといろんなものに化けていく。
 好奇心がつのると、ときとして危ない目にあうことがある。電池の両極をつないでいた電線が火傷するほど熱せられることを覚えたのもその頃だし、祖父の使っていた自転車についていた灯火用のアセチレンランプの構造が知りたくて、分解しはじめたら、何かの拍子で爆発し、すんでのところで大怪我するところだったという失敗も演じている。
 この時分は本もよく読んだ。中学初期の児童を対象にした『理科少年』という雑誌を、毎月定期購読していたし、『婦人画報』や菊池幽芳の『己が罪』『お夏・文代』、小杉天外の『魔風恋風』、徳富蘆花の『思い出の記』という大人向けの小説も、むさぼり読んだという。小学校三年前後のことだけに、その内容をどれだけ理解していたか知る由もないが、ずいぶんませていた子供だったことは確かである。
 小学校時代は字が下手であったが、文章を書くのは好きで、作文はいつもいい点を取っていたという。苦手な科目は習字と国語、その代わり算数と理科は学年を通じて常にトップの座を譲らなかったそうだ。幼稚園時代に芽生えた科学への関心は、この頃から次第に大きくふくらみはじめた。
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