「見れる」などの「ら抜きことば」は正しい表現だと思う?
こたえ
「見れる」についていえば、「見られる」が正しい言い方です。可能動詞形にできるのは五段活用の動詞だけだと思います。一段活用の「見る」を「見れる」としてはいけません。
記述的な見方をすれば、「見られる」と「見れる」との関係は、ことばの「ゆれ」だということになりそうです。実際に両形が用いられ、どちらが正しいという性質の問題ではありません。他方、規範的な見方をすれば、「見られる」のみが正しいわけで、「見られる」と「見れる」との間に「ゆれ」などはありえないのです。もちろん、実際には「見られる」と話す人は少なくなってきており、特に若い世代ではほとんどいないでしょう。しかし、「『見れる』が正しい」ということができるようになるためには、まだ時間が必要です。「『見られる』が正しい!」と考える人は、少なからず生存していますから(わたくしもその一味です)。ことばが社会的なものであるとすると、上の世代は標準形を下の世代に伝達する文化的な責務があると考えます。ことばの規範が変化するには、世代交代が完全になしとげられなければなりません。もちろん、世代交代はできるだけ速やかであるほうが良いのでしょうが、実際にはそれほど簡単でもないのです。
「見られる」が正しいといっても、必ずしも「『見られる』といわなければならない」とは思いません。いうまでもないことかもしれませんが、ことばは正しく使わなければならないという性質のものではないからです。「文は人なり」といわれますが、すがたかたちが人と違っても構わないように、言葉づかいも人それぞれでよいものでしょう。特に、話しことばが公式のものであることはまれですから、好きなように話せばそれで良いわけです。
しばしば、ことばは時代によって変わってゆくものだといわれます。ただ、〈変わる〉ということと〈変わるべき〉ということとは違うでしょう。ことばが〈変わる〉かどうかは、記述の視点をどこに置くかという問題で、ことばが〈変わるべき〉かどうかは、規範に対してどのような立場をとるのかという問題ではないでしょうか。また、後者は、ことばを〈変えるべき〉かどうか(言語改良)という議論とも関わってくるかもしれません。なお、わたくしはことばが〈変わるべき〉だとは思いませんが、表記や敬語の複雑さなどを〈変えるべき〉だという意見には必ずしも反対しません。