「そうそう。——そうなのよ。——だから、何も心配することないわ。——うん。じゃ、また明日ね」
私は、電話を切った。
千恵の声も弾んでいた。——当然だろう。
「奈々子。ご飯よ」
と、母が声をかけて来る。
「うん!」
「——何だかいやに元気がいいのね」
と、母は笑って言った。
「お母さんほどじゃないでしょ」
と、私は言ってやった。
「まあ」
——久しぶりに、母と二人、明るい食卓だった。
もちろん、黒田のことは、何も解決していないのだが、今はともかく、この上機嫌な気分を、そのまま保っていたい。
今夜ぐらいはね。せめて……。
「——あら」
と、母が顔を上げた。「誰かしら」
玄関のチャイムが、少ししつこく鳴った。——誰だろう?
父ではない。父はこんな鳴らし方はしない。では——黒田?
たちまち、私の明るい気分は吹っ飛んでしまいそうになった。
「出るわ」
母が立って行く。——インタホンで、
「どなたですか?」
と、訊《き》く母の声。「はい。——どうぞ」
「どうしたの?」
「荷物ですって」
「何だ」
私はホッとした。「じゃ、私が受け取るわよ」
私は玄関へ出た。ドアをノックする音。
「はあい」
私はドアを開けた。
——荷物ではなかった。
男が二人、アッという間もない内に、上り込んで来た。
「ちょっと!」
私は叫ぶように、「何ですか?」
母もびっくりして出て来る。
「どなたですか」
と、母が面食らって訊《き》くと、
「警察の者です」
と、手帳を覗《のぞ》かせて、言った。
——警察!
私と母は思わず顔を見合せた。
「何のご用ですか」
と、母は青ざめた顔で言った。
「黒田さんをご存知ですね」
と、刑事の一人が言った。
「ええ……」
「ここに来ませんでしたか」
「来ました。でも……」
「いつ帰りました?」
「さあ……。もうずいぶん前です」
「ちょっと捜させてもらいます」
「あの——」
母が止めるのは、無理な話だった。
刑事たちは、マンションの中を、素早く見て回った。
「——いないな」
「どういうことですの?」
と、母が、腹立たしげに言った。
「黒田さんの奥さんが行《ゆく》方《え》不《ふ》明《めい》でしてね」
「行方不明?」
「別れようとしていたのは、ご存知でしょう」
「はい」
「あなたが原因ですね」
母は、少しためらって、
「まあ……そうです」
と、言った。
「奥さんは拒んでいた。そのことで、大分、ケンカしていたようです」
「そうでしょうけど——」
「そして、突然、奥さんの姿が消えた」
刑事は意味ありげに言った。
「そんなことが——」
「どうもね。黒田さんが奥さんを殺した、とも考えられるんです」
母がよろけた。私はあわてて母を抱きかかえると、ソファに座らせた。
「母は体が丈夫じゃないんです」
私は、刑事に向って、食ってかかるように言った。
「失礼。しかし、どう言っても同じことですからね」
と、刑事は淡々と言った。
「そんなこと……ありえません」
と、母はやっと口を開いて、「奥さんと、別れる話をしている、と……」
「彼が言っただけでしょう? 奥さんに、直接会いましたか」
「いいえ」
「そうでしょう」
刑事は肯《うなず》いて、「それに心配した奥さんのご両親が、上京しようとしていました」
「そんなこと、初耳です」
「途中で、夫婦とも亡くなったんですよ」
母がポカンとして、
「——亡くなった?」
「車が湖へ落ちた、というニュースを見ませんでしたか」
母が私を見た。——私には、何も言わなかった。
「殺されたんです。それから車ごと湖へ落とした」
「それも——黒田さんがやった、と?」
「嫌疑がかかっています」
「嘘《うそ》です、そんな!」
「まあ、当人を見付けるのが第一ですね」
と、刑事は言った。「どこにいるか、心当りは?」
「家へ——帰ったと思ってました」
「いや、いません。大分あわてて、姿をくらました形跡があります」
「そうですか……」
母は呆《ぼう》然《ぜん》としている。——実感がないのは当然のことだろう。
「いいですか」
と、刑事が言った。「もし、黒田さんから連絡が入ったら、警察へ出頭しろと言って下さい」
「はあ」
「本人のためです。もし無実なら、その説明を聞きたい」
刑事たちは、互いに肯《うなず》き合って、
「では」
と、帰って行く……。
私は、複雑な思いだった。
——こうなればいい、と願っていたはずなのに、いざ、母が呆然としているのを見ると、母が哀れに思える。
「元気出して」
と、私は母の肩に手をかけて、「まだそうと決ったわけじゃないんだし」
「そうね……」
母は立ち上って、「ご飯、食べてしまいましょ」
と、フラフラとダイニングへ入って行く。
「お母さん。——お父さんを呼ぼうか?」
と、私は言った。
「うん……。そうね」
「分った」
私は、父の所へ電話をかけた。
「——やあ、どうした」
「あのね、今、刑事が……」
「刑事?」
私の話を聞いて、父は、ため息をついた。
「なるほど。——来るものが来たか」
「お父さん……じゃないの?」
「警察へ連絡したのがか? いや、違う」
「そう。ともかく、お母さんが参っちゃってる」
「分った。すぐ行くよ。母さんを気を付けててくれ」
「うん」
私は、電話を切った。
「——すぐ来るって」
母は、窓から外を見ていた。
「いるわ」
「え?」
「今の刑事さん。ここを見張ってるんだわ」
私も覗《のぞ》いてみた。なるほど、一人の刑事が道に立って、マンションの方を見ている。
「——何てことかしら」
母は、呟《つぶや》いた。
電話が鳴り出す。——母が、びっくりするような勢いで、飛んで行った。
「お母さん!」
あわてて後を追う。
「——もしもし」
電話を取った母が、息をのむのが分った。「黒田さん! どこにいるの?」
と、母が叫ぶように言った。