「——よく晴れたな」
と、伊波は言った。
「そうね」
律子が肯《うなず》く。「もう列車が来るわね。あの人、何してるのかしら?」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だよ」
雪がまぶしい。——駅のホームにも、白く、分《ぶ》厚《あつ》い雪がつもっている。
他にはほとんど客もなかった。
「——色々お世話になって」
と律子が言った。
「よせよ、変だぞ」
と、伊波は笑《わら》った。
「そうね」
律子は微《ほほ》笑《え》んだ。「どうするの? 東京に出て来る?」
「さあ。——差し当り、金がなくなるまで、Mホテルでのんびりするよ」
「またいつか会える?」
「そうだな。そいつは偶《ぐう》然《ぜん》に任《まか》せようじゃないか」
「洒落《しやれ》てていいわ」
律子は、ちょっと顔を赤らめた。「しばらくは忙《いそが》しいと思うの。主人と話し合って——子《こ》供《ども》を作ろう、ってことになったから」
「そいつはいい。おめでとう」
「気が早いのね。まだできたわけじゃないのよ」
二人は一《いつ》緒《しよ》に笑《わら》った。
「——やあ、遅《おそ》くなった!」
小池がみやげ物の袋《ふくろ》を下げてやって来る。
「何を買ったの?」
「課の連中へ、さ。これも付き合いだ」
「ああ、列車が来ましたよ」
と、伊波は言った。「じゃ、これで——」
「色々どうも」
当りさわりのない言葉を交わして、伊波はホームから出た。
「——送りましょうか」
駅の前に、村上が立っていた。
「もういいんですか、体の方は?」
「無《む》理《り》さえしなけりゃ大丈夫、ってことです。しかし、どこまでが無理なのか、教えてくれませんのでね」
と村上は笑《わら》った。
村上の車に乗って、Mホテルへと向う。
「——あなたのことを疑《うたが》っていて、すみませんでした」
と村上が言った。
「何のことです?」
「あの血《けつ》痕《こん》ですよ。てっきりあなたの所にいる謎《なぞ》の女と、あなたの共《きよう》謀《ぼう》だと思ったんですがね」
「一度疑われると、いつまでも忘れてくれませんね」
「以後は気を付けましょう」
——俺《おれ》の気持は分るまい、と伊波は思った。やってもいない殺人で、みんなに疑いの目を向けられ、「社会的有《ゆう》罪《ざい》判《はん》決《けつ》」を受けたことが、どんなに人を傷《きず》つけるものなのか。——警《けい》察《さつ》の人間に、それが分るだろうか? あの、武井の胸《むね》の痛《いた》みが、到《とう》底《てい》理《り》解《かい》できないように、おそらく、法の守り手には、分らないだろう。
「——すみませんが、例の喫《きつ》茶《さ》店《てん》で降《お》ろして下さい」
と伊波は言った。
「いいですよ。当分はホテル住いですか」
「そうなるでしょう」
「また本が出たら読ませていただきますよ」
そうだ。これも読者の一人なんだ。
「よろしく」
と、伊波は言った。
——カウンターの奥《おく》では、相変らず、エプロンをかけた主人が、カップを洗っている。
「やあ先生」
「やあ」
いつものテーブルにつく。
また、元の通りだ。
「大変でしたね、色々」
と、主人がカップに、コーヒーを注ぎながら言った。
「ありがとう。——しかし、すっかり片《かた》付《づ》いたよ」
「肝《きも》を冷やしましたね、お互《たが》い」
「全くだ」
と、伊波は肯《うなず》いた。
誰かが店に入って来た。——伊波の前の席に座《すわ》る。
「東京へ行ったんじゃなかったのか」
と、伊波は言った。
「戻《もど》ってきたの」
と、侑子は言った。「ここにいていい?」
「ああ、もちろん。——何か飲むかい?」
「良かった!」
侑子は息をついた。「あ、コーヒー下さい。——もう東京にいても仕方ないし、ここに来るしかなかったんだもの。あなたに帰れ、って言われたら、どうしようかと思ってたの」
「おい、待てよ」
と、伊波はあわてて言った。「君が今、『ここ』って言ったのは——」
「この町に、ってことよ」
「僕は、その席のことかと思った……」
「もう遅《おそ》いわ! OKって言ったんですからね。——ねえ、聞いたでしょう?」
店の主人は、ただニヤニヤ笑《わら》っている。
武井は、侑子を雪の上に残して、崖《がけ》から落ちて行った。侑子は、一人ぼっちになってしまったのだ。
「しかし、もう住む所がないんだよ」
と、伊波は言った。「二人でホテル暮《ぐら》しじゃ、いくら金があっても足りない」
「本を書けば?」
「気安く言うね」
「若《わか》い奥《おく》さんのためには、多少、張《は》り切《き》ってくれなきゃ」
伊波は呆《あつ》気《け》に取られて、侑子を眺《なが》めていた。
「——私、ずいぶん財《ざい》産《さん》を相続したのよ。いくらでも若い人を見付けられるわ。それでも、あなたの所に来たのよ」
「押《お》し付けがましいね」
「そうよ。好きなんだもの。——愛は押し付けがましいものなのよ」
およそロマンチックなセリフじゃない、と伊波は思った。
窓《まど》から入る、雪の照り返しが、侑子——一人の少女の若々しい頬《ほお》を光らせている。