この寒いのに……。
亜紀は、一瞬そう思って——でも、考えてみりゃ自分もそうなんだ、と気が付いて笑ってしまった。
北風が川《かわ》面《も》を渡って、土手の道に吹きつけてくる。
学校帰りの亜紀は、マフラーを巻き直して、それでも土手の道を歩いていた。その少し前を、やはりトコトコと行く男の子。
あれ、もしかして……。
「モンちゃん!」
と呼ぶと、びっくりして振り返る。「やっぱり!」
「お前か」
門井勇一郎は、急にシャンと背筋を伸ばした。
「寒いね」
「冬だからな」
変な会話で、しかし、ともかく二人は並んで歩き出した。
「——元気?」
と、亜紀は訊いた。
「ああ……。お前んとこ、大変だったんだな」
と、勇一郎は言った。
「そうか……。モンちゃんにここでキスされたのが九月……。まだ何か月もたってないのにね。何年も昔のことみたいだ」
と、亜紀は言った。
「でも、ちっとも変んないな。安心したよ」
勇一郎の口調は、いかにも嬉《うれ》しそうで、亜紀はちょっと胸が熱くなった。会うことはなくても、きっと話は聞いていて、心配してくれていたのだろう。
「大分大人になったのよ」
と、亜紀は秘密めかして言った。
「お前——」
「そんな、不機嫌な顔しないでよ!」
と、亜紀は笑った。「ね、うちへ寄る?」
「でも……。いいのか?」
勇一郎も、つい笑顔になる。「俺《おれ》はどうせ暇だけど」
そこへ、
「亜紀君!」
と、後ろから声がした。
「君原さん!」
亜紀が振り返って手を振る。
君原が土手の道を走って来る。毎日のランニングの途中だ。
「——きっと、君だと思ったよ」
と、君原は並んで歩きながら、首にかけたタオルで汗を拭《ぬぐ》った。「お父さん、どうだい?」
「ええ、ずいぶん元気になったわ。友だちに電話したりして、仕事を捜してる。今はなかなか見付からないらしいけど」
「そうか。でも良かったな」
と、君原は肯《うなず》いた。
勇一郎も、一緒に歩いてはいたが、口をへの字に曲げてそっぽをむいている。
「今度、クリスマスに人形劇をやるんだ」
と、君原が言った。「もし良かったら、君も見に来てくれよ」
「行く行く!」
と、亜紀は飛び上らんばかり。「佐伯さんたちがやるんでしょ?」
「うん。僕は背景作りさ。初めは『クリスマス・キャロル』をやろうか、って言ってたんだけどね。外国人の人形って、少ないんだ。日本に移すと、話がおかしくなるから、諦《あきら》めてね。別の話にした」
「そう。——ね、モンちゃんも見に行こうよ! 面白いから」
と、亜紀がつっつくと,
「人形なんて、興味ねえや」
と、勇一郎はすっかりすねている。
「そんなこと言わないで。一緒に行こう。ね?」
亜紀が念を押すと、
「俺、これで!」
と言うなり、勇一郎は斜面を駆け下りて、下の道へと行ってしまった。
「危ないよ! ——もう!」
亜紀は呼んだが、勇一郎は一目散に駆けて行く。
「悪かったかな」
と、君原が言った。
「そんなことないわ。モンちゃん、久しぶりだから」
「幼なじみって、難しいよな。いつの間にか大人になってて、でも、お互い、なかなか気付かなくて」
「そんなこと、考えたことないけど……」
考えたことない。——考えなくても、でも自分の知らないことが、世の中には一杯あるんだ。
亜紀は、すっかり日の沈むのが早くなった西の方角へ目をやった。
祖父、茂也はまだ当分入院してリハビリが続きそうだが、藤川ゆかりがついているので張り切っている。ゆかりとは、退院したら結婚することになっていた。
母、陽子は昼間、働きに出ている。事務の仕事で、そう大した収入にはならないまでも、正巳の仕事が見付かるまでは、貴重なお金である。
亜紀も、アルバイトしようかと思ったが、今はまだ学校の勉強をきちんとしておく方が先、と思い直した。
服や小物などは、新しく買わずに前のものを利用するようにしていた。
心がければ、ずいぶんむだづかいしていたところが見えてくるものだ。
「——亜紀君」
「うん?」
「クリスマスに……一緒にいられるかな」
君原が、少しおずおずと言った。
クリスマス、か……。
亜紀は、少しの間迷っていた。
普通の恋人同士なら、二人で過したいと思って当然だろう。母だって、君原となら「出かけちゃだめ」とは言うまい。
でも……。
「今年は、ごめんね」
と、亜紀は言った。「今年は我が家にとって、激動の年だったからね。家族でゆっくり過したい」
「そうか」
と君原は肯いた。
「ごめんね」
「いや、よく分るよ」
「クリスマスの後、一日ゆっくりしたいな」
「よし! じゃ、僕も張り切って——あ、レポート、まだ出してないのが一杯ある!」
と、君原が頭を叩《たた》いて言った。
亜紀は笑ってしまった。
——君原と別れて、家の玄関の鍵《かぎ》をあけて中へ入ると、ちょうど電話が鳴り出していた。
急いで駆けつけて、
「——はい、金倉です」
「亜紀か?」
「お父さん。どこから?」
「母さん、まだ帰ってないか」
「うん。何か用事?」
「仕事が決った」
亜紀は、胸が一杯になって、言葉が出なかった。
父の声の響き。——喜びだけではない。家族への罪の意識から、ずっと逃げられずにいたに違いない父にとって、それは「解放」の瞬間でもあったろう。
「——亜紀? 聞こえたか?」
「うん。おめでとう」
「これで、少しは母さんを安心させてやれる」
「帰ったら、言っとく」
「うん。もう少し細かいことを打ち合せてから帰る」
「分った。それじゃ」
亜紀も、いやに足どりが軽くなって、電話を切った後、家の中を飛んで歩いたりした……。
着替えをして、亜紀が下へ下りていくと、ちょうど玄関の鍵があいて、
「——お母さん! 早いのね」
「ただいま」
陽子が息をついて、「いつも遅くて買物しそこなうから、きょうは早く帰してもらったのよ」
両手一杯に紙袋を下げている。
「持つよ!」
亜紀は笑って、その袋を受け取った。
その日の夕食が、ちょっとした「就職祝い」となったのは、まあ当然のことだろう。
「月給は前の半分くらいだ。しかし、頑張るからな」
と、正巳は言った。
「体が大切よ。無理をしないで」
と、陽子が微《ほほ》笑《え》んで言った。「亜紀、おかわりは?」
「うん……」
と、少し迷って、「やっぱり食べよう! ご飯半分に減らしても、食費が半分になるわけじゃないしね」
「あのね……。栄養失調なんかで倒れたりしないでよ、みっともない」
と、陽子は笑って、ご飯を大盛りによそった。
「はい!」
「ちょっと……。私のこと、ブタにする気?」
正巳は、妻と娘のやりとりを、楽しそうに眺めていた。
「——あ、電話だ。私、出る」
と、亜紀は立ち上った。「向うからかかってきたときは、できるだけ長くしゃべろう」
「亜紀ったら……」
と、陽子が苦笑い。
亜紀が出てみると、
「やあ、松井健郎だよ」
と、懐かしい声。
「あ、もうすっかりいいんですか?」
「ピンピンしてるよ。——今、出られるかい?」
「今ですか?」
「うん、そこの近くの土手の道にいるんだけど」
あの寒い所に! 風邪をひかせちゃいけないというので、亜紀はあわてて、「すぐ行きます!」と答えた。
急いでハーフコートをはおり、家を飛び出すと、風は一段と強くなって、首筋を冷たい指みたいになでていく。
首をすぼめた亜紀が、土手へと駆けて行って、見上げると——。
三人もいる?
一瞬、亜紀は浅香八重子の子分か何かが仕返しにでもやって来たのかと思った。しかし、向うですぐ亜紀を見分け、
「おい、ここだよ!」
と手を振ったのは、確かに松井健郎。
土手の道に上った亜紀は、男三人——健郎と君原、そしてモンちゃんまでいる! その三人が、並んで亜紀を待っていたのだ。
「どうしたの?」
と、亜紀が目を丸くしていると、
「君と付合って行く上で、君がキスしたことのある三人が揃《そろ》って話し合うことにしたんだよ」
と、健郎は言った。
「キス……」
間違いはないけど……。亜紀はすっかり面食らっていた。
「亜紀がこんなにもてるなんて、思わなかったよ」
と、門井勇一郎が言った。
「ちょっと、それどういう意味?」
亜紀は腕組みして勇一郎をにらんだ。「私だって、好きでキスしたわけじゃない……ってことはないわ」
と、ややこしいことを言い出す。
「もちろん、好きだから、いや、とは言わなかったのよ。でもね……」
「僕らとしては、君がまだ高校生だってことを考えれば、焦るべきじゃないってことで同意したんだ」
と、健郎が言った。
「ありがとう」
「だから、決して三人の間で、こっそり抜けがけしない。デートするときは三人一緒」
「え? ちょっと待ってよ!」
「ま、それは冗談」
「良かった!」
と、胸をなで下ろし、「ともかく、ここじゃ寒いから、下へ下りない?」
「一度ずつキスしてから」
「——いやよ!」
と、真赤になって、「こんな……他の二人が見てる前で?」
「公平を第一にすることで合意したんだ」
健郎の言葉に、君原も笑っている。
亜紀は、この三人の「彼氏」たちを眺め渡した。
みんな、私を支えてくれた。もちろん、これから将来、どうなっていくのか、亜紀にも見当はつかない。
君原か、松井健郎か、「モンちゃん」か——。三人の内の誰かと「恋人」同士になるのだろうか?
他の出会いもあるかもしれない。むろん、この三人にとっても同じだ。まだみんな若いのだ。
亜紀よりずっとすてきな女の子に巡り合うかもしれない。
でも、ともかく今はみんな私の「恋人」なのだ。何てすてきなことだろう!
「分ったわ」
と、亜紀は、「一人ずつね」
と肯《うなず》く。
今度は、三人の間で「誰が先か」でもめて、結局、ジャンケンで決めることになった。
「あ、もう一人いた」
と、亜紀が言った。「あの、けがした落合って人」
「あれはボランティア活動とみなすことにしたんだ」
と、君原が言った。「さ、ジャンケンだ!」
三人の男が大《おお》真《ま》面《じ》目《め》に、土手の道で北風に吹かれながらジャンケンをしている。——亜紀は笑いをこらえながら、胸が熱くなった。
ジャンケンの結果、健郎、モンちゃん、君原、という順番になった。
「——じゃ、後の二人は向うに行って!」
健郎が二人を追いやって、「いくら抱きしめても、もう傷は痛くないよ」
「はい、はい」
と、亜紀は笑いをこらえて、健郎を抱くと、キスを受けた。
「ね」
と、健郎が囁《ささや》いた。「君のために大けがしたんだからね。僕に多少余分にやさしくしてくれるよね?」
「え、ええ……」
健郎がちょっとウインクして、
「はい、次の人!」
何だかレントゲン写真でもとってるみたいだ。
「モンちゃん、おませね。十七じゃまだ早いわよ」
と、亜紀も多少気が楽だ。
「負けてられるか! 何しろお前と一番長い付合いなんだぞ。それに——」
「それに?」
「お前の両親だって、俺《おれ》ならよく分ってて安心だ。そうだろ?」
「——まあね」
二人は唇を重ねた。
なまじ小さいころから知っていると、キスしていても、つい昔のことを思い出しちゃったりして……。あんまりときめかないのは仕方ない。
「はい、ご苦労さん」
と、健郎が仕切っているのがおかしい。
「じゃあ……。よろしく」
と、君原は余裕の態度で、「可《か》愛《わい》いよ、亜紀君」
「ありがとう」
と、照れている。
それ以上何も言わずに唇を寄せて……。今のところ、一番「恋人らしい」のは、やはり君原かもしれない。
「——凄《すご》いことやっちゃった」
と、亜紀は呟《つぶや》いた。
わずか五分ほどの間に、違う三人の男とキスしたことのある子なんて、まずいないだろう!
でも、嬉《うれ》しかったのは、三人がすっかり仲良くなった様子で、一緒に笑ったりしながら亜紀を家まで送ってくれたことである。
「——じゃ、おやすみ」
と、亜紀は手を振った。
三人がめいめい手を振って帰って行く。
亜紀は見送って、軽く息をついた。そっと唇に指先を触れる。——二《ふた》股《また》かけて、どころか三人と同時にキス! 友だちが知ったら目を回すだろうな。
亜紀は家の中に入って行った。
「お母さん——」
亜紀がダイニングへ入っていくと、父も母も姿が見えない。
「お父さん……」
居間にもいない。——どこに行ったんだろう?
首をかしげつつ、夕ご飯が食べかけのままなので、一人でまた食べ始めた。
しかし、一《いつ》旦《たん》席を立ってしまったので、何だかお腹が一杯になってしまい、ともかく、残ったご飯にお茶をかけて、かっ込んだ。お茶を飲んでいると、
「——あら、戻ってたの」
と、陽子がやって来る。
「戻ってたの、じゃないでしょ。どこに行ってたの?」
「二階よ」
当り前の調子で、「もう、ごちそうさま?」
「うん。——お父さんは?」
「二階で横になってるわ。少し疲れたんでしょ」
「ふーん。食べすぎじゃないの」
などと勝手なことを言っていると、当の正巳が、
「また腹が空いたな!」
と、やけに元気よく入って来たのである。
「あなた……」
と、陽子がにらむ。
「あ、いや、体調が戻ってるのかな。食欲が出て、困るくらいだ」
と、正巳がわざとらしく笑う。
——そういうこと? 夕食の途中に、しかも亜紀が出かけたほんのわずかの間に、「夫婦の対話」ですか。人が心配してりゃ、馬鹿らしい!
亜紀が口をへの字にしていると、
「ね、亜紀。クリスマスはどうするの?」
と、陽子が言い出した。
「クリスマス? ——どうして?」
「君原さんと出かけるんでしょ?」
陽子の口調には、「そうしてほしい」という響きがある。
「もしかしたら、ね……。まだ分んないんだけど」
「ね、お母さんとお父さん、二晩泊りくらいで、ちょっと温泉にでも行って来ようかと思ってるの。あなた一人でも大丈夫よね」
亜紀は頭に来た。
一家でクリスマスを過そうと、君原の誘いを断ったのに……。それが「邪魔だから、誰かと出かけろ」って? けれども、
「——一人でも平気よ!」
と、亜紀は言っていた。
「じゃ、頼むわね。あなた、明日、チケットが取れるか訊《き》いてね」
亜紀は、ちっとも感傷的になっていない母を見て、呆《あき》れながらも、「あれが私の将来か」と考えていたのだった。