玄《げん》関《かん》のチャイムが鳴った。
「はーい」
千枝は、手を拭《ふ》きながら、玄関へと急いだ。「どなたですか?」
「私だよ」
「お父さん。待って——」
チェーンを外し、ドアを開ける。「もう大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》なの?」
「ああ、少し痛むがね」
小西は、さげて来た紙《かみ》袋《ぶくろ》を、ちょっと照れくさそうに持ち上げて、「ケーキを買って来た」
と言った。
「まあ。千晶はあんまり食べないのよ、甘《あま》いもの。私がいただくわ」
千枝はそっと、紙袋を受け取った。「上って」
「千晶は?」
「お昼《ひる》寝《ね》中」
「そうか。じゃ、あんまり大きな声は出さん方がいいな」
「いいわよ。一度眠《ねむ》ったら、そう簡単に起きないもの」
——小西は、少し片足を引きずるようにしながら、リビングルームのソファに腰《こし》を落ちつけた。
「いつ退院したの?」
と、千枝が、お湯を沸《わ》かしながら言った。
「おとといだ」
「呼んでくれれば、手伝いに行ったのに」
「まだ、自分の面《めん》倒《どう》ぐらいみられるさ」
——小西は、ベランダへ出るガラス戸越《ご》しに、明るい戸外を見やった。
「——すぐ、お茶をいれるわ」
千枝は、ソファの上に開いたままの雑誌を片付けて座ると、「顔色、良さそうね」
と言った。
「そうか? 入院といっても、ただの静養だからな。休《きゆう》暇《か》みたいなもんだ」
小西はそう言って、ちょっと笑うと、すぐに続けた。「今日づけで辞めた」
「そう」
千枝は肯《うなず》いた。
「昨日《 き の う》一日、大変だったよ」
小西は、息をついて、伸《の》びをした。「もう何度もしゃべったことを、またしゃべらされて……。まあ、事件が事件だ。仕方ないがね」
「で、結局、どうなったの?」
「またこれからが大変だ。——あの谷での三十一人の焼死体は別にしても、金山医師、宮田尚美、その父親……。説明が必要な死体はいくらもある」
「お父さんが射殺した男は?」
「あれは一応、正当防衛で通すことになった。その交《こう》換《かん》条件が辞表だ」
「そういうことなの……」
千枝は、目を伏《ふ》せた。「千晶のことは?」
小西は首を振《ふ》った。
「誰《だれ》も信じやしないよ。八歳《さい》の子供の超《ちよう》 能《のう》 力《りよく》で、吸《きゆう》血《けつ》鬼《き》を灰にしましたなんて言ったところで」
「でも——」
「我々だって、現実に彼《かれ》らが灰になるところを見てはいない。見ていたのは宮田尚美だけだろうが、彼《かの》女《じよ》も死んでしまった」
「千晶が嘘《うそ》をついてる、と?」
「いや、私は信じてるさ。お前もそうだろう。あの谷の有様は、ただの火事ぐらいじゃ説明がつかない」
と、小西は言った。「しかし、実際に、あの惨《さん》状《じよう》を見ていない人間に、それを信じろと言っても無理だろうな」
「分るわ」
千枝は肯《うなず》いた。
お湯が沸《わ》いて、千枝は紅茶をいれて来た。
「でも、まだ心配だわ、私」
「あの町のことか」
「ええ。まだ、彼らの仲間が残っているかもしれないじゃないの」
「それはそうだ。しかしな、考えてみろ。吸血鬼があの町を支配していたなんて話を、一体誰《だれ》が信用する? しかも、三木も栗原多江も、灰になって消えてしまったというのに」
小西は、ゆっくりと首を振《ふ》った。「——警察の上層部の連中を、こんな話で納得させるのは、とても不可能だよ」
「でも——」
千枝は、ムッとしたように、「あんな思いをして——千晶は誘《ゆう》拐《かい》までされたのよ! それなのに、信じてくれないなんて!」
「お前の気持は分る。私も同じ気持さ。しかし、他《ほか》にも問題があるんだ」
「どういうこと?」
「この話がマスコミに乗って全国に流れたらどうなるか、ってことだ。信じない者が大部分だろう。面《おも》白《しろ》おかしく取り上げられ、忘れられて行くのがオチだ」
「でも、そんなこと、言ってられないじゃないの!」
千枝は、思わず身を乗り出した。「もし、連中の仲間が残っていたら——」
「分ってるよ」
と、小西が肯《うなず》く。「だから——おい、誰《だれ》か来たようじゃないか」
玄《げん》関《かん》のチャイムが鳴っているのに、千枝はやっと気付いた。つい、興奮していたようだ。
急いで玄関へ出てみると、意外な顔があった。
「その節はどうも」
と、頭を下げたのは、宮田信江だった。
「まあ、嬉《うれ》しいわ。どうぞ。——あら、本沢さんも」
三歩退《さが》って、ではないが、少し離《はな》れて、本沢が照れくさそうな顔で立っていた。
「まあ、それじゃ——」
と、千枝は、ちょっと部《へ》屋《や》の中の方へ目をやった。「父が呼んだのね? 一言も言わないんだもの。さあ、入って下さい」
居間に、四人が揃《そろ》うと、何となく口が重くなった。誰もが、尚美の死を思い出すからだろう。
「姉と父の葬《そう》儀《ぎ》には、わざわざおいでいただいて——」
と、信江が小西に礼を言った。
「いや、当り前のことだ。いわば戦友だからね、君の姉さんは」
小西は静かに言った。
「でも、このまま、何もかも曖《あい》昧《まい》に終ってしまうんじゃ……」
と、本沢は不服そうである。「桐山の奴《やつ》は精神鑑《かん》定《てい》まで受けてますよ」
「その方が彼《かれ》にとっては有利かもしれんがね。しかし、真実は真実だ」
「そうですわ」
信江は肯《うなず》いた。「あちこちで起った連続殺人とか、あの町や谷での出来事とか……。色々調べれば、そんないい加減な説明じゃ済まないのが分ると思うんです」
「そうだよ」
本沢も同調した。「奴《やつ》らが一人でも残っていたら、またいつか同じことが起きるかもしれない」
「私も、その点は心配なんだ」
小西は、三人の顔を眺《なが》め渡《わた》して、「どういう手を打つべきか、相談したくて、こうして来てもらったんだがね」
「警察は何もしないんですか?」
「公式見解としては、三木も行《ゆく》方《え》不明のままだ。一応、連続殺人犯として手配はされているが、まさか灰になりましたとも言えない」
「公式ってのは厄《やつ》介《かい》ですね」
本沢がため息をついた。「桐山も、町の連中に監《かん》禁《きん》されてたと訴《うつた》えてるらしいけど、取り合っちゃくれないようなんです」
「でも——分るわ」
と、千枝が言った。「何も知らない人が、私たちの話を聞いて、信じてくれるかって考えたら、ね……」
「町へ行きましょう」
と、本沢が言った。「町が今どうなっているか。それを見るしかないんじゃありませんか?」
「私もそう思う」
小西は肯《うなず》いた。「一《いつ》緒《しよ》に来てくれるかね」
「もちろんですよ!」
本沢は肯いた。信江が、ちょっと微《ほほ》笑《え》んで、
「本沢君、あなた別人みたいになったわね。とても素敵よ」
と言った。
「そ、そうかな……」
本沢がとたんに赤くなる。
「何が素敵なの?」
という声にみんなが振《ふ》り向《む》く。千晶が目をこすりながら立っているのだった。
「——小西さんですね」
と、出て来た老人が言った。「これはどうも……」
小西は、一《いつ》瞬《しゆん》戸《と》惑《まど》った。
その老人が誰《だれ》なのか、分らなかったのだ。いや——しかし、これが、河《かわ》村《むら》だろうか?
この老人が?
「お忘れですか。——河村です」
「いや、憶《おぼ》えてるとも」
小西は、やっと平静な表情を保って、「久しぶりに会ったね」
「ええ……。お変りなくて」
と、河村は言った。「この前お会いしたのは、私がまだ町の駐《ちゆう》在《ざい》所《しよ》にいたときでしたね」
——町の外れ。
ポツン、と離《はな》れて建った一《いつ》軒《けん》家《や》に、河村は一人で住んでいた。
まだ、それほどの年《ねん》齢《れい》ではない。少なくとも、小西よりはずっと若いはずだ。
それなのに、河村の髪《かみ》はすっかり脂《あぶら》っけを失って白くなり、肌《はだ》も乾《かわ》いて、つやが消えていた。もう老人と呼ぶしかない変りようだ。
小西は、その様子に、一瞬ゾッとするものを覚えた。
「上られませんか」
と、河村は訊《き》いた。
「いや、ここで結構」
「そうですか。——ちょっと陽《ひ》に当りましょうかね。いい天気だ」
河村は、サンダルをはいて、玄《げん》関《かん》から外へ出た。
庭——というのではない、ただ、道とつながった空地へ出ると、河村は、町の方へ目を向けた。
「私もね——」
と、小西が言った。「もう警部じゃない。隠《いん》退《たい》したんだ」
「そうでしたか。それはご苦労様でした」
河村は、ちょっと頭を下げて、「——町へは、また何のご用で?」
と訊《き》いた。
「町がどうなったか、見たくてね」
小西はそう言って、「それに君の話も聞きたかった」
「私の話、ですか……」
河村は、弱々しく呟《つぶや》いて、微《び》笑《しよう》した。
「君は、彼らと一《いつ》緒《しよ》にいた。その間のことを聞かせてくれ」
「聞いてどうなさるんです?」
河村は町の方へ目をやった。「もう町は終りだ。人間で言えば、臨終の時を迎《むか》えていますよ」
「というと?」
「小さな町で、若い男たち——といっても、四十代、五十代の者もいたわけですが——三十人もが一度に死んでしまった。その家族たちは、出て行くしかありませんよ」
小西は、黙《だま》って、町の方へと目を向けた。
確かに、町は、ゴーストタウンのように、ひっそりと静まり返っていた。
「しかしね——」
と、小西が言いかけると、河村は肯《うなず》いて、
「分っていますとも。この町は、奴らに支配されていた。町の連中は、怯《おび》えながら暮《くら》していたものです」
と言った。「死んだ男たちも、奴《やつ》らの命令で動いていたんです。哀《あわ》れといえば哀れですよ」
「彼《かれ》らに殺された者もいるよ」
「宮田と、その娘《むすめ》ですな」
河村は、ため息をついた。「ですが、信じて下さい。みんな、血に飢《う》えた殺《さつ》人《じん》狂《きよう》だったわけじゃない。ただ、あいつらの下で生きて行くには、進んで、あいつらに近づくしかなかったんです。あいつらに喜ばれるように行動しなくては、安心して眠《ねむ》ることもできなかった……」
そういう気持が、奴らをはびこらせたのだ、と言おうとして、小西は思い止《とど》まった。今は河村にしゃべらせなくてはならない。
「君は、気に入られたんだろう」
と、小西が言うと、河村は初めて少しむきになって、
「とんでもない!」
と言い返した。「私を見て——分りませんか? 私は一年で十歳《さい》も年を取ったような気がしたもんです」
「つまり……」
「彼《かれ》らは私を殺そうとしていました」
河村は視線を足下に落とした。「私には分っていました。私は彼らのことを知り過ぎていた……。私は進んで彼らのために働きました。向うが、私のことを、生かしておいた方が重宝だ、と考えるまでね」
「そして命拾いをしたわけか」
「こうして、一人で退《たい》屈《くつ》な日々を送っているわけですよ。——卑《ひ》怯《きよう》者《もの》と言われても、抗《こう》弁《べん》はしません。事実ですからね」
小西は、すっかり無気力になっている河村を見ていて、おそらく町の人間たちも、みんな似たようなものだったろう、と思った。
「もう彼らはいない。——そうだろう?」
小西は、河村の顔を、じっと見ていた。
「そう。——たぶんね」
河村は、呟《つぶや》くように言った。
「まだ、誰《だれ》か残っているかもしれないと思っているのかね?」
「いや——いないでしょう。みんな姿が消えた。あの谷は、滅《ほろ》びたんですか?」
「少しも嬉《うれ》しそうではないね」
と、小西は言った。
河村は、ちょっと唇《くちびる》の端《はし》を歪《ゆが》めて笑った。そして、何のためにそこにあるのかもよく分らなくなった、古い柵《さく》に、ゆっくりと腰《こし》をおろした。
「あなたには分りませんよ」
河村は、小西から目をそらしたまま、言った。「どんなに不自由な秩《ちつ》序《じよ》でも、それが一年、二年と続けば、人間はそれに慣れて来るものです。その中で、楽しみや生きがいを見付ける。——そうしなきゃ、やって行けませんからな。この町だって、そうだったんですよ。最初は、みんな奴《やつ》らを憎《にく》んでいた。でも、恐《おそ》ろしかったからね、奴らが。殺しても死なない。——あいつらは人間じゃなかったから……」
「それで諦《あきら》めた、というわけか」
「日がたつにつれて、町の人間の中にも、諦めの早い奴と、そうでない奴が出て来る。そうなると、もう団結して奴らと戦うことなんてできやしません。奴らに気に入られた者とそうでない者が、町の中で対立するようになる。極《きよく》端《たん》に走る者は、敬遠されます。みんな、面《めん》倒《どう》なことは嫌《きら》いですからね、人間ってのは。いやな生活だと思っていても、じゃ、そこから脱《ぬ》け出すために命を賭《か》けて戦うかと言われたら……。誰《だれ》だって、家族もあるし、命も惜《お》しい。責められませんよ」
それは君の言うセリフじゃあるまい、と小西は心の中で呟《つぶや》いた。
「結局、多江がこの町の女王のような存在になりました。周囲を、谷の連中が取り巻いて……。町の中の勢力関係を、多江はうまく利用したんです」
「というと?」
「今まで、町の中ではどっちかというと、目もかけられなかった、役立たずの連中——馬《ば》鹿《か》にされて来た者を、自分の配《はい》下《か》に置いたわけです。そういう連中は、町の人間に恨《うら》みがありますからね、喜んで威《い》張《ば》り散らす。我が物顔にのし歩いて——といっても、こんな小さな町ですがね」
河村は苦笑した。「町長も、そういう連中の中から多江が選んだ。学校の教師も。役所の人間も。——店の一軒《けん》一軒だって、今度はその連中のご機《き》嫌《げん》を取らないと、やって行けなくなったんです。しかしね、多江の利口なところは、やり過ぎを許さないところでしたね。町長が酔《よ》って町の娘《むすめ》に暴行したら、容《よう》赦《しや》なくクビにしてしまった。その後、どうなったのか、姿を消して——たぶん殺されたんでしょう。ともかく多江は、そうやって、町の人間たちに、『これはこれで、まあ悪くもないじゃないか』という思いを植えつけて行ったわけです」
「犠《ぎ》牲《せい》者《しや》はあったんだろう」
「ええ。——みんな、それには目をつぶっていましたね。見ないふりをしていた。私もそうです」
「一つ訊《き》きたいんだが」
と、小西は言った。「あいつらは、何が目的だったんだ? 他の町でも、三木のような奴《やつ》が、人を殺していた。何のためにあんなことをしたんだ? 自分たちの仲間をふやそうとしたのか?」
「それは違《ちが》いますね」
と、河村は、ちょっと笑った。「吸《きゆう》血《けつ》鬼《き》に血を吸われて、みんな吸血鬼になるなんて、怪《かい》奇《き》映画のような話が本当なら、今ごろ世界中が吸血鬼だらけになっているでしょうね」
「それはそうだな」
「勘《かん》違《ちが》いなさっちゃいけません。彼らは、自分たちから進んでここの町の支配者になったわけではない。谷で、彼《かれ》らは静かに暮《くら》していたんです。それを逆に追《お》い詰《つ》めて、滅《ほろ》ぼそうとしたのは、町の人間たちですよ。彼らは、自分たちの身を守るために、町を支配したんです」
「君が言いたいのは——」
「人間が、彼らを呼んだ、ということです。三木だって、それまではごく普《ふ》通《つう》の人間として、ずっと暮していたわけでしょう。しかし、この町で一《いつ》旦《たん》、恐《きよう》怖《ふ》で人を怯《おび》えさせる快感と血の味を覚えたら、もうそれを忘れることはできなかったんでしょうね。——もっとも、それが彼らの命取りになったわけですが」
河村は、ゆっくりと首を振《ふ》った。
小西は、黙《だま》って、河村の話に耳を傾《かたむ》けながら、その語ることにも、一面の真実があることを、認めざるを得なかった。
「——町へ行ってごらんなさい」
と、河村は言った。「みんな、途《と》方《ほう》にくれていますよ。男たちが大勢死んだこともありますが、それだけじゃなくて、突《とつ》然《ぜん》、秩《ちつ》序《じよ》が消えてしまったことに、呆《ぼう》然《ぜん》として、ついて行けないんです」
「なるほど」
「人間関係も、これまでとは変って来ます。町長はどうしていいか分らなくてただオロオロしているでしょうね。これまで幅《はば》をきかしていた連中が、突然、昔《むかし》の通りの役立たずに戻《もど》ってしまった……。そうですよ。あなた方が、奴《やつ》らを滅《ほろ》ぼしたことを、必ずしも喜んでいない者もいます」
小西は肯《うなず》いた。——思いもかけないことだったが、分らないではない。
「しかし——」
河村は、一つ息をついて、言った。「それはそれで、また新しい秩序が出来て来るでしょう。時間はかかってもね。もちろん、これで町が空っぽになれば別ですが、たぶん、そうはならないだろうし……」
「やがて忘れて行く、か……」
「もう、みんな、あの連中のことは、口に出しませんよ。町へ行って、訊《き》いてみましたか?」
「ああ」
小西は肯《うなず》いた。「だから、こうして君の所へ来たわけだ」
「なるほどね」
河村は微《ほほ》笑《え》んだ。「みんな、あれはただ悪い夢《ゆめ》だった、と思おうとしてます。早く忘れたい、とね。マスコミが、話を聞きつけてやって来ても、きっと何一つ、得ることはないでしょうね」
小西は、町の方へ目をやった。——そこには日常がある。母親にとっては、過去を振り返って悩《なや》むよりも、夕食のおかずの方が問題だろう。
それが生活というものだ。
「私も、町の人たちの生活を、かき回したいわけじゃないよ」
と、小西は言った。「ただ、奴《やつ》らが、もう残っていないかどうか、それだけが気になって、やって来たんだ」
「それはまあ、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》でしょう。あの谷で何があったのか、私も見たわけじゃないけど、見ていた人間の話では、一人残らず、青い火で焼き尽《つ》くされたそうですからね」
「それならいいが……。邪《じや》魔《ま》したね」
「いいえ。懐《なつか》しかったですよ。——またこの辺に来られたら、お寄り下さい」
「ありがとう」
小西は歩き出した。
本沢との旅も、結局むだ足だったようだ。
もちろん、あの連中が、もう残っていないと確かめれば、それでいいのだから、目的は達したともいえる。
しかし、多くの犠《ぎ》牲《せい》者《しや》たち——あの、中《なか》込《ごめ》依《より》子《こ》を初めとする、死者たちへの追《つい》悼《とう》には、不《ふ》充《じゆう》分《ぶん》かもしれない。
だが、これ以上、何ができるだろうか?
町にとって、もう総《すべ》ては過去の出来事になってしまっているのだ。
小西が振《ふ》り返《かえ》ると、もう河村の姿は見えなかった。
河村は、息を切らしながら、山《やま》間《あい》の道を歩いて来た。
以前は、一日に往復したって平気だったものだ。以前は?——いつのことだろう。もう自分でも思い出せない。
少し歩いては休み、進んでは一息ついて、やっと、大きな木の下へやって来た。
河村は、木の太い枝《えだ》を見上げた。
この枝に、多江を吊《つる》したのだ。——あの若い女教師は、やめて、と叫《さけ》んでいた……。
今も鮮《あざ》やかに、河村の瞼《まぶた》に焼きついている。
私刑《 リ ン チ》で奴《やつ》らを葬《ほうむ》り去ることができる、と思い込《こ》んでいたのだ。
多江を吊し、あの女教師をも片付けようとしたとき、地面が盛《も》り上って、そこからあの女が——大《おお》沢《さわ》和《かず》子《こ》が、土をかき分けて出て来たのだった。
あのときの恐《きよう》怖《ふ》は、集まっていた町の男たちを、慄《ふる》え上らせるに充《じゆう》分《ぶん》だった。河村の髪《かみ》は、あのときから、急に白くなり始めたのだった。
殺して埋《う》めた大沢和子が、立ち上り、吊されて息絶えたはずの多江が、突《とつ》然《ぜん》笑い出す……。
あれこそが「悪《あく》夢《む》」だった。二人と闘《たたか》おうとする者は、一人もいなかった。もちろん河村もだ。
彼らには勝てないのだ。河村は、あのとき、そう悟《さと》ったのだった。
——河村は、しばらく、太い枝を見上げていたが、やがて、そこから十メートルほど奥《おく》に入って、地面に膝《ひざ》をついた。
そこは、ほとんど分らないが、わずかに土が柔《やわ》らかく、ふくらむように盛り上っていた。
「——小西が来ましたよ」
と、河村は言った。「まだ残っていないか、と訊《き》きにね。もちろん、いないと答えておきました。信用して帰ったようです」
河村は、ちょっと息をついて、
「町は、やっと生き返り出した、というところでしょうね。もう、あんたの出る幕はありませんよ。一人じゃ、何もできますまい。——私も、二度とここには来ないつもりですから」
と、ちょっと笑って、「この年《と》齢《し》じゃ、もうこの道はきつくてね。まあ、あんたもゆっくり眠《ねむ》ることですな」
河村は、地面の、少し土が盛り上ったところを、手でならした。——これでいい。
河村は立ち上ろうとした。
突《とつ》然《ぜん》、土を割って、二本の腕《うで》が突《つ》き出《で》たと思うと、河村の首を、両手でがっしりと捉《とら》えた。
河村の目が、飛び出さんばかりに見開かれた。必死で、首に食《く》い込《こ》む指を引き離《はな》そうとするが、それは空《むな》しい努力に過ぎなかった。
何秒かで、河村は、ぐったりと白《しろ》眼《め》をむいて息絶えた。
河村の首をつかんだまま、腕は地中へと戻《もど》って行く。——土を押《お》しのけるようにして、河村の体は、頭から地中へ突っ込んで行った。
頭が消え、肩《かた》が、胸が、地中へと潜《もぐ》り込んで行く。
何分間かの後、河村の体は、地中へと消えていた。
かき乱された土は、そのままだった。
雨や、風や、長い日々が、土をきれいにならして行くだろう。長い眠りを、その下に埋《う》めたままで。
その眠りが、いつか覚めることがあるのかどうか、山も木も、誰《だれ》も知らなかった。