「ああ、おいしかった!」
と、マリは言って、水をガブガブ飲んだ。
「——まだ物足りねえな」
と、ポチが文句を言う。「大体食器がいけないや。やっぱりウェッジウッドか、ヘレンドでなきゃ」
「何言ってんの。犬が食器のブランドにこだわるなんて、聞いたことないわ」
と、マリは顔をしかめる。「感謝してよね。私が皿洗いして働かなかったら、あんただって、ご飯にありつけなかったんだから」
「恩着せがましいこと言うなよ。俺《おれ》が皿洗いを手伝ったりしたら、それこそ大変だろ」
そりゃそうだ。何といっても、その名の通り、ポチは真黒な犬なのだから。
もちろん、それは外見だけのことで、ポチの正体は「悪魔」。それも、落ちこぼれの悪魔という情けない奴《やつ》である。地獄から叩《たた》き出されて、人間界に修《ヽ》業《ヽ》にやって来た。
一方のマリは、といえば、こっちは同じ「落ちこぼれ」でも天国の下級天使。さぼったり遊んだりが過ぎてお目玉をくらい、「人間界のことを勉強して来い!」と研《ヽ》修《ヽ》に出された。
マリの方は女の子に、ポチの方は前述の如《ごと》く黒い犬になって、人間界を一緒に旅している。そのいきさつや、名前の由来は、このシリーズの第一作をお読みの方ならご存知だろう。
ともかく、仮の姿とはいえ、今は生身の女の子と犬である。食べなきゃ生きていけない、というので、マリは仕事の口を捜しているのだが、ちょっと若い女の子になりすぎてしまって、なかなか雇ってくれる所がない。
お金がなくては生きていけない! というわけで……。
通りかかったこのラーメン屋さんで、
「お皿洗うから、何か食べさせてくれませんか」
と、頼み込んだのである。
幸い、おかみさんが親切で、簡単な皿洗いをしただけで、チャーハン、ギョーザ、ラーメン、とたっぷり食べさせてくれた。
「これで一日はもつ」
と、マリは息をついた。
「俺はもたないよ」
「もたせなさい。ダイエットになるわよ」
と、マリは言ってやった。
念のためだが、ポチと話せるといっても、もちろん、ポチの言葉は、人間には単なる犬の唸《うな》り声にしか聞こえないのである。
「——どう? お腹《なか》一《いつ》杯《ぱい》になった?」
と、おかみさんが店の奥から出て来た。
「ええ、おかげさまで。どうもありがとうございました」
と、マリは礼を言った。
「いいのよ。どうせ今は暇な時間だしね。——でも、あんたも大変ねえ、そんな大きな犬までつれて」
「ええ、手がかかるんです」
「——うるせえ」
と、ポチがふてくされる。
「ねえ……。可《か》哀《わい》そうだけど、その犬……。どうしても、っていうんだったら、保健所へ頼んで始末してもらったら?」
ポチがギョッとして目をむいた。
「あ——いえ、でも、そういうわけにもいかないんです」
と、マリが言った。「両親がとても可《か》愛《わい》がってたんで……。兄妹同様に育ったんです」
「そう。でも、ちょっと可愛げのない犬ね」
「大きなお世話だ」
と、ポチがますますむくれた。
「あら、お客さんだわ。——ゆっくりしててね。お茶、勝手に注《つ》いで飲んでちょうだい」
と、おかみさんが言って、入って来た客の方へと歩いて行く。
入って来たのは、いかにもくたびれた感じのコートをはおった中年男。
「ラーメン一つ」
と、力のない声で言って、「TV、つけていいかね」
と訊《き》いた。
「どうぞ」
おかみさんは、店の奥へ入って行き、中年男は、棚の上の、一体何年前の型か分らない古いTVのスイッチを入れた。
「——おっ、俺の好きな子が出てるぜ」
とポチが、TVに映ったアイドル歌手を見て言った。
「あの歌の下手くそなこと! 私の方がよっぽどましよ」
と、マリは顔をしかめた。
何しろ天国では合唱練習が毎日の日課なのである。
「地獄なら大歓迎だぜ、音痴な奴は」
と、ポチは言って、「チェッ、チャンネル変えちまいやがった! おい、元に戻《もど》して来いよ」
「いやよ。犬が見たがってます、なんて言えないでしょ」
と、マリは言って、「さ、もう一《いつ》杯《ぱい》お茶飲んだら、行こう」
と、立って、カウンターに置いてある、お茶の入ったポットを取りに行った。
「おい、お茶こっちにもくれよ」
TVをつけた中年男が、マリのことをウェイトレスと思ったらしく、声をかけて来た。
「あ。——はいはい」
これぐらいは手伝ってあげよう、とマリは、湯《ゆ》呑《の》み茶《ぢや》碗《わん》に薄いお茶を入れ、「はい、どうぞ」
と、持って行った。
「ああ。ありがとう」
と、その中年男はお茶を受け取ったが——。
マリの顔をふと見上げると、ハッと息をのんで、
「加奈子!」
と、言った。「お前——」
「え?」
マリの方もびっくりした。が、その男の驚きも、ほんの何秒かで、失望に変った。
「いや……。すまん。——ちょっとね」
無精ひげののびた、疲れた顔を、少し伏せ気味にして、「知ってる子に、ちょっと似てたもんだから……。いや、悪かった」
「いいえ」
マリは快く言って、席に戻った。
「何だい、あのおやじ」
と、ポチが言った。
「分んないけど、私のこと、誰かと間違えたみたい」
「ふーん、お前に似てるのがいるのか。物好きだな」
「好みの問題じゃないでしょ」
マリが熱いお茶を飲んでいると、もう一人、客が入って来た。
寒い季節らしい黒っぽいコートをきっちりとはおって、入口近くのテーブルについた。伏せがちにしているので、顔はよく見えない。
「いらっしゃいませ」
と、気付いたおかみさんが声をかける。
「おい見ろよ」
と、ポチが言った。
「何?」
「TVさ。——ほら、ニュースをやってる」
マリは、カラーTVといっても、何だかわずかばかり色がついてるだけ、という、お店のTVへ目をやった。
何だか、妙な白い服を着た女の子が、大勢の人の前で、両手を合せてお祈りみたいなことをやっているのだ。
「何なの、あれ?」
「知らないけどさ」
と、ポチが愉快そうに、「お前とよく似てるぜ」
「女の子が?」
マリはTVへ目をやって、「ちっとも似てやしないじゃないの」
「いや、似てる。お前、自分の方が可《か》愛《わい》いと思ってんだろ」
「誰が」
マリはツンとして、「そういううぬぼれは、天国じゃ罪になるのよ」
「ハハ、無理してら」
「余計なこと言ってないで、もう行きましょ」
マリがお茶を飲み干す。——すると、さっきの中年男が、振り返って、またマリの顔をじっと眺めている。
マリは無視することにした。カウンターの所へ行って、
「どうも、ごちそうさまでした」
と、おかみさんに声をかける。
「あら、行くの? 気を付けてね」
「ええ。どうも……」
マリは、ポチを従えて、店を出ようとした。後から入って来た黒いコートの男のそばを通る。
その男は、コートを脱ごうともせず、じっと座っていたが、通りがかったマリの方をふと見上げて——なぜかドキッとした様子で、目を見開いた。
マリも天使ではあるが、結構気の強い方なので、
「何か顔についてます?」
と、言ってやった。
男はあわてたように、
「いや、別に……。どうも失礼」
と、首を振った。
——外へ出ると、マリは、肩をすくめて、
「世の中にゃ、変った人も沢山いるわね」
と、言った。
心の中で、「私って、そんなに可愛いかしら?」と付け加えたが、ポチに何か言われそうで、口には出さなかった。
「どこへ行くんだ?」
と、ポチは言った。
「さあ……。ともかくここに立っていても、何も見付からないわ。出発!」
「——全く、計画性ってもんがねえんだからな」
と、ついて歩きながら、ポチはブツブツ言った。「天国にゃ年間予算ってのはないのか?」
二《ヽ》人《ヽ》はもちろん知らなかった。
あの黒いコートの男が、何も注文せずに千円払ってラーメン屋を出ると、二人の後を尾《つ》けて歩き始めたこと。
そして店に残っていた中年男が、もう別のニュースになってしまったTVの画面に向って、
「加奈子……。加奈子……」
と、呟《つぶや》いていたことを。
職業安定所に勤めて二十五年になる、その女性は、ほとんど本名で呼ばれることがなく、専ら「ツルさん」の愛称で呼ばれていた。
細くて長い首、尖《とが》った顔が、いかにも「鶴《つる》」みたいだったからである。
もちろん、鶴の方からは、「メガネなんかかけてないわ」という異議が上ったかもしれないが、そこはまあ、うるさく言うこともあるまい。
「——そうねえ」
この「ツル」女史も、こういう相談人を受け持つのは初めてであった。「あんた本当に十八歳?」
その少女は、見たところ十六、七にしか見えなかった。
「間違いありません」
と、マリと名乗った少女は熱心に言った。
「ふーん、何か証明になるものは?」
と、「ツル」女史は言った。
「本人がそう言ってるんですから、間違いないでしょ?」
と、少女は言った。「私、嘘《うそ》はつきません」
「そう……」
嘘でしょ、とも言いにくいので、「ツル」女史は、メガネを直して、「まあ、あなたを信じないわけじゃないのよ」
「そうです、信じるものは救われます」
「え?」
「あ、いえ——いつも上級の天使からそう聞かされてるもんですから、つい出ちゃうんです。気にしないで下さい」
「上級の——」
「ここ、ずいぶん古い建物ですね」
と、少女は話をそらした。
「それだけ由《ゆい》緒《しよ》があるの。分る? 歴史があるのよ」
「分ります。天国も、もうずいぶん古くてあちこち直さないと……」
「どこが?」
「あ、いえ、何でもないんです。それで、何か私にできる仕事、ないでしょうか」
「そう。——仕事ね」
どうも調子が狂ってしまう。「でもねえ、あなたみたいに若くて、特別な技能がない子はねえ……」
「でも、一生懸命働きます」
「そりゃそうでしょうけどね。住み込みでも可、っていうのは分るけど……。犬と一緒でないとまずいの?」
「ツル」女史は少女の足下に、いやにでかい態度で座り込んでいる真黒な犬を見て、訊《き》いた。
「そうなんです。ずっと一緒にいるもんですから」
「犬ごと住み込み、っていうんじゃ、やっぱり難しいと思うわよ。その犬どこかへやるとか預けるとか、できないの?」
「それは、ちょっと……」
と、少女が目を伏せる。
「じゃあ、よく捜しとくわ。二、三日したらまた来てちょうだい」
と「ツル」女史は言った。
「そうですか……」
「あなたの方もね、犬と別になれないか、よく考えて」
「じゃ、話し合ってみます。ポチと」
「ポチと——ね」
「ツル」女史は、少女と犬の出て行く後ろ姿を見送って、首をかしげた。
少しおかしいのかしら? そんな風にも見えないけど。
長年の経験から、女史は人を見る目に自信を持っていたが、この日、その自信は多少、揺らいだのである。
女史の手もとの電話が鳴った。
「はい、もしもし。——はあ、さようでございます。——ええ、求人の。——はあ。——女の子。十八歳の。——そうですか。それはまあ……。え?——何《ヽ》と《ヽ》一緒ですって?」
と、「ツル」女史は目をパチクリさせた……。
安定所を出て、マリとポチは、すぐそばのペンキのはげたベンチに腰をおろした。いや、腰かけたのは、もちろんマリだけである。
「困ったわね」
と、マリが言った。
「俺《おれ》のこと、放っぽっとけばいいじゃねえかよ」
と、ポチは言って、欠伸《あくび》をした。「何も、お前の方は一緒にいなきゃならない義理はねえだろ」
「そんなわけにいかないわよ」
と、マリは少し怒ったように言った。「あんたはそりゃあ、たまには頭に来ることもあるけど、一緒だから、やってける、ってこともあるし、私のこと、助けてくれたことだってあるじゃない。天使はね、人の恩は決して忘れないの。犬だって、本当はそうなのよ」
へっ、ありがたいこった。——ポチは内心舌を出した。
マリは知らないが、ポチがこうしてマリについて歩いているのは、ある下心があってのことで……。
実は、ポチが地獄へ戻《もど》るには、一つ条件がある。「堕《だ》落《らく》した天使」を一人、連れて帰る、というのである。
マリが人間を信じなくなって、そう口に出したとしたら、それで「天使」としては永久に失格になる。で、ポチはマリを召《めし》使《つかい》にして、地獄へ堂々と帰って行ける。
それを狙《ねら》って、ポチはマリにくっついているのだ。それには多少、マリを油断させる必要もある……。
「それじゃ、また車にはねられる真《ま》似《ね》でもするか」
「やめなさいよ。あの時はうまくいったけど、二度目もうまくいくとは限らないわ」
「そうだな、結構痛いしな……」
「おお寒い」
木枯しが吹きつけて、マリは身震いした。「天使が寒さに震えてるなんて、上級の天使が見たら、何て思うかしら」
「何か芸でもやって、稼ぐか」
「あんた何かできる?」
「俺は無芸大食。——お前、一応見た目は女の子だぜ」
「だから何よ」
「風俗産業ってのがあるだろ。ちょっと脱いで見せたりして」
「けとばすわよ!」
と、マリはかみつきそうな顔で言った。
すると、安定所の扉が開いて、さっきの女性があわてて飛び出して来たのだ。
「——ああ良かった! まだいたのね」
「何か……」
「たった今、電話で求人があったの。十八歳ぐらいの女の子って」
「まあ。でも……」
「条件が一つあるの」
「やっぱりこのポチが……」
「犬《ヽ》を《ヽ》一《ヽ》緒《ヽ》に《ヽ》連《ヽ》れ《ヽ》て《ヽ》る《ヽ》こ《ヽ》と《ヽ》、っていうの」
マリは目をパチクリさせた。
でも——まあ、良かった!
「こんなにぴったりの求人なんてね」
と、その女の人は言った。
「ありがとうございました。で、どこへ行けばいいんですか?」
と、マリは訊《き》いた。
「ええ……。向うが、お金は出すって言うの。ちょっと遠いんだけどね」
と、その女の人は言った。