手の甲が、地面にざらざらとこすれる感覚で、仁美は意識を取り戻した。
頭が痛い。——そうだ。殴られたんだ。
町の男たちに……。そして——どうなったんだろう?
地面に寝ている。起き上がろうとして、ハッとした。体が動かないのだ。真上には、月が——あの異様に光る月が、まるで巨大な頭《ず》蓋《がい》骨《こつ》のように、仁美を見下ろしていた。
手足を縛られている。それも、両手両足を大きく大の字に広げた格好で、手首足首から、ピンと伸びた縄が、木立ちの幹に結びついているのだ。
とても、自分の力で解けるものではなかった。——どうなるんだろう?
ふと、小石を踏む音を耳にして、ゾッとした。ぼろぼろに食い尽くされた死体のことを思い出したのだ。
「目が覚めたのか」
仁美を殴った、町の男たちの一人だ。「気絶してる方が楽だぜ」
「縄を解いて!」
「気の強い娘だな」
と、男は笑った。「悪く思うなよ。こっちも命がけなんだ」
男がナイフを取り出した。仁美は青ざめた。
「殺すの?」
「いや、死んじまったもんは食いに来ないからな、奴らも。活《ヽ》き《ヽ》のいいやつでないと」
仁美は理解した。自分は、人狼と化した人間たちをおびき寄せる、え《ヽ》さ《ヽ》なのだ。
「やめて……。人殺しよ、こんなこと!」
「分ってるとも。やらなきゃこっちがやられる。——戦争なんだ。犠牲はつきもんさ」
男が、両手で仁美の服の胸元を左右へ引き裂いた。
「子供の割にゃ、いい体じゃねえか」
と、男は言った。「味わってるひまがないのが残念だぜ」
ナイフの切っ先が、仁美の乳房の間をスッとたてに走って、仁美は痛みに悲鳴を上げた。
「我慢しな、もうすぐ楽になる」
男は立ち上がると、足早に姿を消した。
仁美は痛みに涙がにじんで来たが、もう声は出さなかった。
おそらく——血の匂《にお》いで「奴ら」を引きつけるのだ。そのために傷をつけて行ったのだ。
武彦!——助けに来て!
必死でもがいたが、手首と足首を縛った縄は、食い込んでくるばかりだった。
だめだ! とても……。
ここで死ぬんだろうか? 獣になった人々に、この体を食い尽くされて……。
想像力が、恐怖で凍りついたのだろうか。汗も出なかった。涙も、止った。
そうだわ。——私は死ぬつもりだったんだ。みんなと一緒に。それが何日か遅れただけ……。
誰も助けに来てはくれない。ここを知っているのは——あの男の子、田所進だけだ。一人でうまく逃げたのだろうか?
誰かを呼んで来てくれたら……。でも、町の人たちは、仁美を助けようとはしないだろう。たとえば後で仁美の死体が見付かったところで、一体誰がこんな出来事を信じるだろうか。
——ふと、何かの気配を、仁美は感じた。
誰かがいる。すぐそばに。
不意に、目の前に、顔が出て来て、仁美は短く声を上げた。——月の光を遮ったその顔は暗くかげっていたが、子供のように見えた。
「——ルミちゃんね? そうでしょう?」
その女の子が、体を起こして、月明りが顔を照らし出す。ルミだ。しかし——口のまわりから、顎《あご》、胸の辺りにかけて、黒く汚れがこびりついているのは、血だろう。
仁美はゾッとした。でも、この子のせいではないのだ。何《ヽ》か《ヽ》が、この女の子を変えてしまったのだ。
「聞いて。ルミちゃん。進君を憶《おぼ》えてるわね? あなたのお兄ちゃんを。心配してる。悲しんでるわ。お兄ちゃんの所へ帰って。——ルミちゃん」
進という名を聞いた時、ルミが一瞬たじろいだのを、仁美は見た。分っているのだ。
「ルミちゃん——」
仁美は、ルミが胸の傷の上にかがみ込んで、顔を近づけるのを見た。ルミの舌が、胸の傷をゆっくりとなめて行く。仁美は身震いして、目を閉じた。もう何もかもおしまいだ。
目を閉じると、父と母の顔でなく、武彦の顔が浮んだ。
もう少し——せめて、武彦と結ばれる年齢になるまで、生きていたかった。思い切り抱きしめられてみたかった……。
ルミが、体を起こした。目を開けると、ルミは仁美の顔を間近に覗《のぞ》き込んだ。その目は、どこか悲しげだった。
悲しげな、「子供の目」だった!
「ルミちゃん……」
ルミは、そっと息をついて、首を振った。それは、まるで絶望した大人のようなため息だった。父が破産して、死を覚悟した時のため息に似ていた。
「——分ってるわ」
と、仁美は言った。「いいのよ。私が死んでも、ルミちゃんのせいじゃないわ」
ルミは、じっと仁美の目に見入っていたが、やがて頭を上げて、ゆっくりと左右を見回した。
「町の人たちが……待ち伏せしてるわよ」
と、仁美は言った。
そう知れば、やって来ないだろうか?
ルミは、仁美の顔に、顔を寄せて来た。血の匂《にお》いがする。
しかし——ルミはかみつきはしなかった。仁美の頬《ほお》にキスしたのだ。そして、その時、ルミの唇から洩《も》れた言葉を、仁美ははっきりと聞いた。
「ママ……」
という言葉を——。
ルミが木立ちの奥に姿を消して、どれくらいの時間がたっただろうか。
たった数分か、それとも一時間か。——仁美にとっては永遠のように長い時間だった。
月はゆっくりと、確実に動いていた。それは手術台の上の仁美を照らす照明のようだった。
——来《ヽ》た《ヽ》。
仁美は、地面から直接に、足音を感じた。一人や二人ではない。
何人——いや、何十人の、忍ぶような足運びが、目に見えるようだった。
仁美は、目を閉じた。——覚悟を決めるしかない。
苦痛は長く続くまい。こらえずに、思い切り叫んでやろう。町の人々の耳の奥底に、いつまでも声が残るように。
茂みが揺れた。一人が近付いて来る。仁美の様子をうかがうように、ゆっくりと周囲を回った。
さあ、どう? 活きがいいでしょ?
仁美はふざけて呼びかけてやりたかった。
次の一人が。そしてまた一人が——。
町の男たちは? おそらく、もっと大勢出て来るのを、待ち構えているのだ。しかし、勝てるのだろうか? 人間でなくなった、この人たちを相手にして。
仁美を囲んだ三人が、動かなくなった。
そして……次々に誘われるように飛び出して来る、影、また影。五つ、六つまでは数えたが、もう数えられなかった。
仁美のそばへ寄って来たのは、ルミだった。
「ルミちゃん……。早く死なせてね」
通じないだろうとは思いつつ、仁美はそう言った。
ルミが、奇妙な唸《うな》り声を出した。すると、他の人たちがじりじりと仁美の周囲へと寄って来る。——不思議な印象を、仁美は受けていた。
ルミの言葉に、他のみんなが「従っている」ように聞こえたのだ。この女の子に?
そんなことがあるだろうか?
しかし、進は何と言ったろう。ルミが古い井戸を開けた、それがすべての原因だった、と……。
ルミが、もしかしたら、この人々全部をひきいているのかもしれない、と仁美は思った。誰もが、「まさか」と思うだろうが、しかし、ルミのような子供にこそ、その何《ヽ》か《ヽ》の支配は絶対のものになるかもしれない。
仁美の周囲に、今や人々はひしめき合っていた。命令一つで、仁美の肉体は、食いちぎられ、アッという間に骨と化してしまうだろう。
仁美は、目をつぶって、キュッと唇をかんだ。体の震えは、おさまっていた。
ルミが、突然、甲高い叫び声を上げた。
次の瞬間——仁美の周囲に固まっていた人々が一斉に、反対側の林に向かって、突っ込んで行ったのだ。
叫び声が上がった。銃が火を吹いて、一人が宙にはね上がるようにして血を吹き出した。
しかし、林の中は凄《せい》惨《さん》な戦いの場と化していた。
町の男が、首筋にかみついた女を振り払えずに、よろけながら林から出て来ると、倒れた。その男の上に、さらに二人の女が、飛びかかった。
仁美は、恐怖に凍りつきながら、目を離すことができなかった。男の肉が食いちぎられるのを、じっと見ていた。
これは現実なのか? 悪夢じゃないのだろうか?
林の中で、悲鳴が次々に上がった。
仁美は、急に足の片方が自由になって、ハッとした。——ルミが、縄をかみ切ったのだ。
「ルミちゃん!」
続いてもう一方の足も。ルミは、鋭い歯で、仁美の右手の縄も、たちまちかみ切ってしまった。
「ありがとう!」
左手首の縄を自分で解くと、仁美はよろけながら立ち上がった。
ルミが、仁美を一瞬見つめてから、林の中へと飛び込んで行く。
「ルミちゃん! 待って!」
仁美の叫びは、届かなかった。
——逃げるんだ。早く。
縛られていたせいで、足がしびれていたが、ともかく駆け出していた。
「待て!」
目の前に、仁美を縛った町の男が立ちはだかった。手にした日本刀の刀身が、月の光を受けて白く光っている。
「貴様もあいつらの仲間だな!」
刀が振り上げられた。よけるだけの余裕は、仁美にはなかった。両手を思わず前へ突き出すだけだった。
と、黒い影がその男にわきから体当りした。
「この野郎!」
ガッ、と拳《こぶし》が当る音がして、町の男はのびてしまった。
「武彦!」
「無事か!——逃げるんだ!」
「ルミちゃんが……」
と、仁美は言いかけて、進がいるのに気付いた。
進は、男が落とした日本刀を拾って、両手で持った。
「進君——」
止める間もない。進は日本刀を手に、駆けて行った。
その先に——ルミが立っていた。
月の光を受けて、返り血を浴びたルミは、まるで赤い衣を着た人形のようだった。
進が、刀を頭上に振りかざして、真直ぐに妹へ向かって突っ込んでいく。
「進君!」
と、仁美は叫んだ。
ワーッと叫んだのが、進だったのか、どうか。シュッと刀が空を切る音が、仁美にも聞こえたような気がした。
仁美は、目をそらして、月を仰《あお》いだ。吹き上げる血潮が、月へも届くばかりに、宙を飛んだ。
「仁美!」
武彦が仁美を抱く。仁美は武彦の胸に顔を埋めた。
激しく泣きじゃくる声は、仁美ではなく、進のものに違いなかった……。
車が揺れて、仁美は目を覚ました。
「武彦!」
「起きたのか」
「うん」
武彦の肩にもたれて、眠っていたのだ。
もう、夜は明けている。助手席の男が振り向いた。小西だった。
「大丈夫かね」
「小西さん……。父と母は?」
「心配するな。別の車で、東京へ戻るところだ」
「そうですか……」
体が、動けないほど疲れ切っている。
「君たちには、辛《つら》い思いをさせたね」
と、小西が言った。「しかし、もう終ったんだ」
終った?——そうだろうか?
町はどうなるんだろう? あれだけ大勢の人々の死をどう説明するのか。
——ルミの死で、人狼と化していた人々は次々に、失神して倒れた。駆けつけた白浜たち、そして、小西と、運転手の三神がいなかったら、町の男たちは、彼らを皆殺しにしていただろう。
彼らの多くは、まだ眠りつづけている。しかし目覚めた者は、自分が長い間、何をしていたのか、忘れてしまっているのだ。
「町の人たちは……」
と、仁美が言うと、小西は肯《うなず》いて、
「不幸なことだった。しかし、これは悪い夢だったんだ」
悪い夢……。しかし、進が妹を自分の手で殺したのは、「事実」なのだ。
「私の力で、できるだけのことはしたい」
と、小西は言った。「その井戸も、埋めてしまおう。一体何がいたのか分らないが……」
「小西さん」
と、仁美は言った。「知っていたんですか、あんなことが起こっていると」
「うん。——しかし、君らに話しても、信じてくれなかっただろう」
「でも、知らなければ、みんな死んでいたのかも……」
「分っているよ。もう、一家族が死んでいるのだ」
と、小西は言った。「娘たち一家は、あの時死んだのではなく、娘の夫の江田は、宏子と久弥が異常な行動を見せ始め、自分もそうなりつつあるのを知って、私に話しに来た。——私は、宏子と久弥を病院へ入れ、原因を探ろうとしたんだ。江田は姿をくらましてしまったが」
「何かにかまれたせいで?」
「それが分っても、治す手立てはない。そのために、江田の一家の代りに、君たちと同様、一家心中しようとしていた一家に、身代りになってもらったのだ。しかし、そこの夫が、やはり狂って、妻子を殺し、自殺してしまった」
「じゃ、娘さんたちは——」
「娘は死んだ。江田も、町の男に殺されていた。孫だけは、無事に元に戻れるだろう……」
小西は、低い声で言った。「——君らの力で、あの町も救われたわけだ。感謝するよ」
「いいえ」
と、仁美は首を振った。「町を救ったのはあの進君です」
「ともかく、君らの〈仕事〉は終った」
と、小西は言った。「約束通り、君らの借金は、すべて私が肩代りする。君らは新しい生活を始めたまえ」
——父と母と、三人の、新しい生活。
それは、仁美にとって、夢のようなことだったが、しかし、あまりに悲しい出来事の後では、喜ぶ気持にはなれなかった。
「だけど……何だったんだろうな、結局」
と、武彦が言った。
もちろん、答えられる人間は、一人もいなかった。
ベンツは、明るさを増す道を、人家の密集する町へと、走り続けている……。