「勝った、勝った!」
と、ジャンプしながら亜紀が駆けてくる。
「何でしょ、小さい子供みたいに」
と、陽子は笑って言った。「手、これで拭《ふ》いて」
「嬉《うれ》しいことは素直に喜ぶことにしてるの!」
と、息をついて亜紀は父と母の間に窮屈そうに割り込んだ。「——サンキュー」
ウェットティッシュで手を拭くと、早くも亜紀はお弁当へ手をのばす。
「よかったわ、いいお天気になって」
と、陽子が青空を見上げてまぶしげに目を細める。
——体育祭は、珍しくほぼ予定通りの時間で進行し、お昼休みに入っていた。
亜紀のクラスは、午前中の最後のプログラム、〈大玉送り〉で勝ったのだった。
「一度玉が落ちそうになったでしょ。ドキッとしたわ」
と、陽子が言うと、
「そう! 私が防いだのよ、あれ。落ちてたら負けてた」
「お前は反射神経がいいからな」
正巳も上機嫌で、「ちゃんと写真を撮っといた。ま、ここからじゃ小さくて分らんだろうがな。うちもビデオカメラでも買うか」
「買うなら、もっと早く買わなきゃ」
と、陽子が笑って、「もう高二よ、亜紀は」
「そうか……。しかし、何もないよりゃいいだろ。最近はずいぶん安いんだぞ」
正巳は「一家の主」にしては、電気、機械系統に至って弱い。その正巳がビデオカメラを買おうと言い出すなど、全く珍しい話であった。
「じゃ、来年の体育祭のときでいいじゃないの。今買っても、撮るものがないわ」
陽子の言い分は誠にもっともだった。
「お母さん、お茶……」
おにぎりを頬《ほお》張《ば》りながら、亜紀が言った。
そして、紙コップにもらったお茶を一気に飲み干すと、
「私、クリスマス会のソロになるの、たぶん」
と言った。
「クリスマス?」
と、正巳が面食らっている。
「ほら、いつも講堂であるじゃないの」
と、陽子が言って、「でも、そうね、お父さんは行ったことないわよ」
「あ、そうか」
「でも、亜紀、ソロって——歌うの?」
「まさか踊るわけないでしょ」
と、亜紀が少し照れながら言って、「でも、まだ本決りじゃないの。先生に言われてるから、たぶん確かだけど」
「お前、歌が上手いのか?」
カラオケで、いつも恥をかいている正巳がびっくりして言った。
「お父さんよりはね」
と、亜紀は、もう二つめのおにぎりを食べ終えて、「でも、まだみんなには発表してないの。言わないでね、誰にも」
「はいはい」
と、陽子は微《ほほ》笑《え》んで、「じゃ、お父さん、やっぱりビデオカメラがいるかしらね」
「そうだな」
と、正巳は笑った。
その「クリスマス会」なるものがどんなことをやるものなのか、正巳は知らない。しかし、亜紀がそこで一人で歌うというのは、何だかえらく立派なことらしい、と思った。
「ま、ともかく頑張れ」
と、正巳が言うと、亜紀は少し日焼けした顔で、
「今は、午後の出番を頑張らないとね」
当人の方がよほど落ちついている。
体育祭の昼休みはたちまち過ぎて行って、アナウンスが、
「午後の部の初めの競技に出る人は、入場門の所に集合して下さい」
と告げた。
「私、行かなきゃ」
と、亜紀は立ち上った。
「あら、出るの?」
「ううん、これは一年生の競技。私、先頭で連れて歩く役なの」
「あら、ご苦労様」
「じゃ……。終ったら、先に帰っててね」
「けがしないでよ」
と、陽子が声をかけたときは、もう亜紀はグラウンドを真《まつ》直《す》ぐに横切って駆けて行っていた。
「——やけに元気だな」
と、正巳は言った。
「いいじゃない。今の子は運動不足だもの」
陽子は別の包みを開けると、「サンドイッチもあるわよ。食べる?」
「いや、今はいい。また後でな」
正巳はよいしょと立ち上って、「手を洗ってくる」
「迷子にならないでね」
陽子の言葉に、正巳は自分でふき出してしまった。
去年、やはり体育祭でここへ来たとき、正巳はトイレに行って、戻れなくなってしまったのだ。どこへ出ても同じように見え、結局、グルッとグラウンドの外側を一周して、やっと陽子の所へ戻ったのは一時間以上たってからだった。
今日は大丈夫! 正巳は振り返って、陽子が座っている場所をしっかり頭に入れたのだった。
——トイレで手を洗い、ハンカチで拭きながら出て来た正巳は、生徒たちが競技に使うさおを運んでいたので、足を止めて通り過ぎるのを待っていた。
正巳と同じように、生徒たちが通り過ぎるのを待っている女性がすぐそばにいて……。
正巳はふとそっちへ顔を向けて唖《あ》然《ぜん》とした。
「円谷君!」
円谷沙恵子だったのである。
「——びっくりしたでしょう。ごめんなさい」
と、沙恵子は言った。
「いや……。まあ、びっくりしたがね」
と、正巳は正直に言った。「それにしてもよくここが……」
「娘さんがここへ通ってるって、聞いたことがあるし、私、もう何年も前だけど、仕事でよくこの近くへ来ていたんです」
と、沙恵子は言った。「お休みの日って何だか……落ちつかなくて」
「分るよ」
二人は、学校の校舎の裏手に来ていた。ともかく人のいない所を捜したのである。
空っぽの校舎は、静まり返っていて、中庭風になったその場所は、風で木の枝がざわついているだけだった。
「——いいえ、来ちゃいけなかったんだわ」
と、沙恵子が首を振って、「ごめんなさい」
「何かあったのか」
沙恵子の様子がどこかおかしい。——正巳は気になって訊《き》いた。
「あなたに迷惑はかけない。そう自分に誓ったんですもの」
「しかし……」
「私、やっぱり出て行きます。あのマンションから。捜さないで下さい」
沙恵子は目を伏せて、「でも——その前にどうしてもあなたを一目見たくて。本当です。見るだけで良かったの。話をするつもりはなかったんですけど……。考えてみりゃ、あんな所であなたを見付けるのは無理ね」
「しかし、ちゃんと会えたじゃないか」
「ええ……」
「話してくれ。何があった?」
沙恵子は、少しためらっていたが、やがて肩をすくめて言った。
「手紙が——」
「手紙?」
「五千万、払えって」
正巳は唖然として、
「誰から?」
「名前はないの。いたずらかと思ってたら、ゆうべ電話が」
「何て言った?」
「私たちが——手塚を片付けたのを、たまたま見ていたって。黙っててほしければ、五千万用意しろって……」
「見てたって?」
「ええ……。やっぱり、私が自首すれば良かったんだわ!」
と、沙恵子は両手で顔を覆った。
そのとき、グラウンドの方からにぎやかな行進曲が聞こえてきた。
「体育祭、午後の部です」
と、アナウンスも聞こえる。
「——行って下さい。奥様、捜してらっしゃるわ」
と、沙恵子は急いで言うと、「お邪魔してしまって……」
「いや、そんなことは——」
と、正巳は言いかけて、しかしやはり陽子の所へ戻らなければならない。「ね、円谷君、早まっちゃいけない。僕に相談しないで出て行っちまったりしちゃだめだ。分ったかい?」
と、沙恵子の肩をつかんで言った。
「でも……」
「僕がやったことなんだ。手塚を殺したのは僕なんだ。君一人に結果を押し付けとくわけにはいかないよ。そうだろ?」
「金倉さん——」
「僕に任せて。今日は無理かもしれないが、明日は必ず行くから」
「でも、お父様が入院なさってるのに」
「一日ぐらい大丈夫さ。——もう行かなきゃ」
「ええ。それじゃ……私、待ってます」
と言うと、沙恵子は正巳の胸にしっかりすがりつくように身を寄せた。
正巳は、誰かに見られたら、と思うと気が気ではなかったが、それでもそっと沙恵子を抱いてやった。
「——じゃ、明日、待ってます」
と、沙恵子は離れて、「遅くなってもいいですから。待ってますから、私!」
歩き出しながら、そうくり返し、すぐに小走りに姿を消した。
正巳は、大きく息をついた。
誰かが見ていた? 手塚の死体を川へ放り込むところを……。
あり得ないことではないにしても、正巳と沙恵子にとっては最悪の展開だ。——何かの間違いか、いたずらだと信じたい。
しかし……。
ともかく——今は頭を悩ませてもしょうがない。
正巳は、校舎の中を抜けて、グラウンドの方へ戻ろうと急いだ。
「——おっと!」
廊下の角で危うく誰かとぶつかりそうになる。
「ごめんなさい!」
と、その女の子は言って、「——あ、亜紀のお父さん」
「え?」
行きかけて、びっくりして振り向くと、
「松井ミカです、私」
「ああ、どうも……」
正巳も、前に会ったことはあるが、格好も違うのでピンと来なかった。「ちょっと、家内の所へ戻るんでね」
正巳は、松井ミカに軽く会釈すると、急いでグラウンドへと戻って行った。
——ミカは、体操着姿のまま、校舎の中を小走りに、
「お兄ちゃん。——お兄ちゃん、どこ?」
と呼んで歩く。
すると、
「ここだ」
と、後ろで声がして、びっくりした。
「こんな所にいたの!」
と、ミカは息をついて、「ね、もう午後の部、始まるよ」
「聞こえてたさ」
と、兄の健郎は喫《す》っていたタバコを廊下の窓から投げ捨てて、「行こう」
と、歩き出す。
「——お母さん、気にしてたわよ。午後は帰んなきゃいけないみたいだから」
健郎は妹の言っていることを聞いていない様子で、何やら考え込んでいたが、
「——お前、今会ったおっさん、知ってるのか」
と、訊いた。
「おっさん、だなんて!」
と、ミカは笑って、「亜紀のお父さんじゃない。金倉さんだよ」
「ふーん。——何やってる人なんだ?」
「何って……。サラリーマンでしょ、普通の。でも、どうして?」
「いや、何でもない」
と、健郎が首を振る。
「変なお兄ちゃん」
と、ミカは言った……。
二人がグラウンドの方へ出ると、もう初めの一年生の競技はスタートしている。
「——さ、私もそろそろ準備だ」
と、ミカが伸びをすると、
「張り切りすぎて、けがすんなよ」
と、健郎がからかう。
「——あ、ミカ!」
と、旗を持った亜紀が駆けて来た。
「亜紀、どうしたの?」
「お父さんがトイレに行ったきり戻らない、ってお母さん、心配してて……」
「ああ、亜紀のお父さん? 今すれ違いに戻ってったよ」
「え? 本当? 何だ、じゃ入れ違ったんだ。人騒がせだな。こんな旗、持ったまま来ちゃった」
と、亜紀は笑った。
「亜紀。憶《おぼ》えてる? うちの兄よ」
と、ミカが健郎を紹介する。
「あ、今日は。金倉亜紀です」
「ああ。ずいぶん前に会ったことあるんだよね」
健郎が微《ほほ》笑《え》む。「妹がいつもありがとう」
「いえ、そんな……」
と、亜紀は少々照れている。
「じゃ、私たち定位置に戻るから」
と、ミカが兄へ言った。「亜紀、行こう」
「うん」
亜紀は肯《うなず》いて、健郎の方へ、「それじゃ」
と頭を下げた。
二人は行きかけて、ふとミカが振り返り、
「お兄ちゃん、最後まで見てる?」
「ああ、どうせ暇だしな」
「最後のリレー、亜紀も出るんだよ。見てて」
「やだ、ちっとも足なんか速くないのに」
と、亜紀は笑って言った。
「頑張って」
と、健郎は言って、駆け出して行く二人の少女を見送った。
そして、健郎はふと真顔になって、
「どうなってるんだろうな」
と、呟《つぶや》いた。
「——また迷子になったかと思ったじゃないの」
と、陽子が文句を言っている。
「ちょっと校舎の方をぶらついてただけさ」
正巳は、腰を落ちつけると、「亜紀は今度はどれに出るんだ?」
と、もうクシャクシャになってしまったプログラムを開いた。
——自分でも、よくこうして平然としていられるもんだ、と思っていた。
人を殺して——殺す気はなかったにしても——死体を川へ投げ捨て、挙句がゆすられるはめになって……。
こんな呑《のん》気《き》なこと、しちゃいられないのだ。——五千万。五千万も出せと言って来ている!
どうしたらいいんだ?
正巳は正直なところ、自分がどういう状況になっているのか、一向に実感できていないのである。
頭で分ることと、肌で実感することは別だ。
いや——円谷沙恵子を助けようとしたばかりに、とんでもないことになってしまったが、正巳としては「何も悪いことをしたわけじゃない」と思っている。だから、万一警察に捕まるようなことになったとしても、事情を説明すりゃ分ってくれて、
「そりゃ大変でしたね」
と、労をねぎらって——まではしてくれないにしても、罪になるようなことはない、と……。
楽天的というか呑気というか。ま、正巳自身、そういう性格なのだから、仕方ない。
「——あ、次、亜紀が出るわよ」
と、陽子が言った。
「そうか?」
正巳はあわててカメラをつかむと、レンズをシャツの袖《そで》で拭《ぬぐ》ったのだった。