「金倉さん、お電話」
呼ばれて、返事をするのに少し間があった。
「——ありがとう」
正巳は、電話を取った。「もしもし、金倉です」
——正巳は、周囲の目がチラチラと自分の方を向いていることに気付いていなかった。
「もしもし?」
「——どうも。いつもお世話様」
人を小馬鹿にしたような口調。正巳は、しかし怒りを覚える気力もなかった。
「何かご用ですか」
「お忙しいでしょうね。ちょっと出られます?」
「今、ですか」
「ええ、ほんの十分くらいでよろしいの」
C生命の浅香八重子——いや、ほとんど職業的な恐喝者と言ってもいいだろう。
正巳など、この女の前では蛇ににらまれたカエルみたいなものである。
「分りました。手短かに——」
「もちろんよ」
「どこへ行けばいいんです?」
「ビルの正面玄関へ出て下されば分るわ」
と、浅香八重子は言った。「じゃ、待ってますよ」
正巳は電話を切ると、
「ちょっと下へ行くよ。十分くらいで戻るから」
と言って席を立った。
——正巳がいなくなると、
「変よね、やっぱり」
「ノイローゼかなあ」
「でも、そんなに神経細い?」
と、遠慮のない意見が飛び交うのである。
正巳の方は、そんなことにはまるで気付かないまま、ビルの一階へとエレベーターで下りて行く。
一階で扉が開くと、危うく目の前に立っていた伊東真子にぶつかりそうになった。
「あら、お出かけ?」
「いや、ちょっと人に会うだけだ。すぐ戻るよ」
「そう」
真子が、チラッと正巳の後ろ姿を気にしていたが、急ぐ用を抱えて、エレベーターへ飛び込んだ。
正巳は、ビルの正面玄関を出た。
午後の日射しは、もうビルの谷間を影で充たしている。
どこにいるんだ、あの女?
正巳は左右へ目をやった。そして——ふと道の向い側に立っている女性に、目を止めた。
あれは? 誰だろう。
手を振ってる。——しかし——まさか!
コートをはおって、こっちへ合図しているその女は、どう見ても円谷沙恵子だった。
間違いない! 正巳は目を疑った。
沙恵子! 沙恵子!
正巳は、そのまま広い通りを渡ってしまいそうになった。
道の向うで、沙恵子があわてて止れ、と合図をする。それを見て、正巳はハッと足を止めた。
そのまま、真《まつ》直《す》ぐ沙恵子に向って駆け出していたら、まず間違いなく車にはねられていただろう。正巳はそう思い付いてゾッとした。
横断歩道。——そうだ、横断歩道。
「落ちつけ。落ちつけ」
自分にそう言い聞かせつつ、正巳は何とか横断歩道を渡って——信号が青になるまでが一年もかかったような気がしたが——沙恵子の所へ駆けつけた。
が——向い合ったものの、何をどう言っていいやら……。
「沙恵子——」
と、言ったきり、後が続かない。
「心配かけて、ごめんなさい」
沙恵子はしっかりした声で言った。
「大丈夫……か」
「ええ。自由にしてくれたの。あなたのおかげで」
「そうか。ともかく……良かった!」
抱きしめてやりたかった。しかし、いくら正巳でも、人目というものを気にしてしまう。
「立ち話じゃ……。どこかへ行こう」
「でも、お仕事中でしょ」
「いいんだ。ちゃんと、出かけると言って来た」
沙恵子が、正巳の足へ目を落とした。サンダルばきのままである。
正巳は頭をかいて、
「これじゃ出かけられないな」
と、苦笑した。「まさか君がここにいるなんて思わなかったから……」
「無理しないで。でも——もうずいぶん無理して下さったのよね」
沙恵子は涙ぐんだ。「私のせいで、とんでもない負担があなたに……」
「おい、泣くなよ。——待っててくれ。な? 今、ちゃんと着替えてくるから」
「だって——仕事中なのに」
「早退する。なに、一日ぐらい僕がいなくたって、どうってことないさ」
正巳は、沙恵子の肩をギュッとつかんで、「待っててくれ! いいね」
と、駆け出した。
社へ戻り、早退届を出して、急いで着替えをする。——届を出すといっても、自分が課長だ。
上着を着て、鏡を見ながら、ネクタイを締め直していると、
「課長さん」
と、課の女の子が呼んだ。「あの、ちょっと……」
「何だい? 急いでるんでね」
と、正巳は更衣室を出て、「明日にしてくれないか」
「でも……」
と、女子社員は当惑顔で、「今夜の会議、どうします?」
言われて、正巳はハッとした。
しまった! すっかり忘れていた。
今夜は得意先を交えての会議である。先方の都合を考えて夜に開くことになっていて、これにはどうしても出席しなくてはならないのだ。
しかし——沙恵子が待っている。
俺《おれ》のために、あんなひどい目に遭った沙恵子が……。
正巳が心を決めるのに、数秒しかかからなかった。
「急病だと言っといてくれ」
そうだ。本当に急病や、けがをすることだって、ないことではない。——正巳はエレベーターへと大《おお》股《また》に歩いて行った。
正巳が行ってしまうと、女子社員は困ったようにため息をついた。
「——金倉さん、どうしたの?」
と、伊東真子がやってくる。
「あ、伊東さん! 課長、今夜会議なのに、早退届出して、帰っちゃったんです」
「今、行ったの?」
「ええ」
「私に任せて」
真子は、エレベーターのボタンを押したが、あいにく正巳の乗った以外は、上りである。真子は少し迷ってから、階段へと駆けて行った。
カタカタとサンダルの音が響く。
しかし、やはりサンダルで急ぐのは危なかった。転びそうになって、どうしても足どりは慎重になる。
やっと一階へ着いたときには、真子もさすがに息が切れていた。
玄関から出て、正巳の姿が見えないかと見回す。
ちょうど、道の向い側に正巳はいた。しかし、一人ではなかった。
円谷沙恵子だ。二人はタクシーを停めて乗り込むところだった。
止めるすべはない。——真子は、タクシーが走り去るのを、肩で息をつきながら、見送った。
——どうしちゃったんだろう?
円谷沙恵子と、何かあるのだ。あの様子は普通ではない。
「——伊東さん?」
そばで声がして、真子はゆっくりと振り向いた。
まさか……。でも、やっぱり!
「奥さん……。どうも」
と、真子は金倉陽子に頭を下げた。
「お久しぶり」
と、金倉陽子は微《ほほ》笑《え》んで、「変らないわね、少しも」
「そんなこと……。胴回りが大分変ってますわ」
と、真子は何とか笑顔を作った。
「どうしたの、息を切らして?」
「いえ、ちょっと……。急ぎの用があったものですから」
「あら、それじゃ、呼び止めて悪かったわね」
「いいえ、もうすんだんです」
陽子は、チラッとビルの方を見て、
「主人、いるかしら?」
「え、あの……」
真子は迷ったが、「今……今しがた外出されたばかりです」
「あら、そうだったの」
「何かご用が——」
「そういうわけじゃないんですけどね。義《ち》父《ち》の見舞の帰りなので、寄ってみたんです」
「ああ、大変ですね。ご病気とか」
「大したことがなくて、ホッとしてるんですけどね。——じゃ、これで」
「お帰りですか?」
「少し買物をしてから。病院って、疲れてしまうから、少し息抜きがしたいの」
「分ります」
と、真子は肯《うなず》いた。
「あ、そうね。伊東さんもお母様が寝こまれてるんでしょ? 看護疲れで、あなたが倒れないように」
「ありがとうございます」
「じゃあ、ここで……」
陽子が会釈して立ち去るのを、真子はホッと息をついて見送った。
正巳が、円谷沙恵子と二人でタクシーに乗って行くのは、陽子の目に止まらなかったようだ。とりあえず、真子としては言いわけができて良かった。
しかし——こういうことは、いずれ陽子に知れるだろう。
真子は、そういえば奥さんもどことなく沈んだ様子に見えるわ、と思った。何か気が付いているのだろうか。
——仕事がある。
真子は、足早にビルの中へ戻った。
今夜の会議に出ないと、正巳は少々まずいことになるかもしれない。真子はそれを思うと気が重かった……。
陽子は振り向いて、伊東真子がビルの中へ入って行くのを見た。
あの人を困らせたくない。その思いが、陽子にああいう振舞いをさせたのだ。つまり何も気付かなかったというふりをさせたのである。
陽子は見ていた。ちゃんと、夫が若い女とタクシーに乗って行くところを。
陽子は、公衆電話で夫の会社へかけてみた。
「——金倉は早退いたしましたが」
という返事は、予期していたとはいえ、ショックだった。
夫が本当に「仕事で」外出したのなら、と思ったのだが、やはりそうではなかった。
タクシーに乗る二人の様子に、陽子はピンと来るものがあったのだ。それを確認しただけのことだった。
陽子はタクシーを停め、義父の入院している病院へ向った。——伊東真子には帰りだと言ったが、本当はまだこれから出向くところだったのである。
夫は忙しくて、そう毎日寄っていられないというので、今日、もし五時で帰れるようなら、待っていて一緒に行こうか、と思いついたのだった。
それが、たまたま今日でなかったら。あと二、三分遅かったら……。
ふしぎなものだ、と陽子は思った。そして、むしょうに円城寺に会いたくなった。
タクシーに電話がある。陽子は、ほとんど無意識の内にそれをつかんでいた。
円城寺は会議中だったが、
「金倉様ですね。お待ち下さい」
と、秘書らしい女性は言った。
「でも、お忙しいでしょうから……」
「お呼びしないと叱《しか》られます」
と、笑って、「このままお待ち下さい」
本当に、十秒と待たずに円城寺が出た。
「——私です」
「どうも。どうなさってるかと思って——」
「会いたいんです」
と、陽子は言った。
少し間があって、
「いいですとも」
円城寺は簡潔に、「六時過ぎても?」
「構いません」
「じゃ、この前のロビーで」
二人の間では、「この前のロビー」で通じる。初めて陽子が円城寺と唇を重ねた場所である。
「はい。——必ず」
手短かな、でも必要充分な会話。
電話を切って、陽子はゆっくりと座席に落ちついた。
心も騒がなかった。ごく当り前のことに思えた。
自分の行動だけではない。夫がああして若い女と会っていること。それさえも、大したことではないような気がした。
義父の所に、それでも一時間くらいはいられるだろう。
亜紀は今日早く帰るのだったかしら?
でも、大丈夫。子供じゃないのだ。病院から電話を入れてみよう。
陽子の気持は、台風の翌日の空気のように澄んで、軽やかだった。
何か重苦しいものが、正巳の中に淀《よど》んでいた。
暗く、どこかじめじめとした空気が二人を包んでいる。
夜じゃない。真昼なのだ。不自然な暗さだった。
「——何を考えてるの?」
正巳の腕の中で、沙恵子の暖かい体が動いた。
「いや、別に……」
「隠さないで」
沙恵子は正巳の胸に顔を当てて、「私を他の男がもてあそんだから……。もう触りたくないんでしょ?」
「馬鹿言うな! 僕を見損なわないでくれ」
正巳は本気で怒った。
「ごめんなさい……。そうね。あなたは本当にいい人だわ」
沙恵子は正巳の頬《ほお》を指先でなぞると、「でも……」
「もうやめよう。戻れない所まで来てるんだから」
「あなたは戻れるわ。戻らなきゃ。ご家族があるのに」
「君を見捨てられるか」
「嬉《うれ》しいわ……。でも、一体あの人たちにいくら払ったの?」
正巳は、仰向けになって天井を見上げた。
——ホテルの天井には、小さな明りが灯って、ホタルでも飛んでいるようだ。
「君は気にするな」
「そうはいかないわ」
沙恵子は体を起して、「借金したんでしょう?」
「僕の意志でしたことさ」
正巳は、沙恵子を抱きしめた。
——もう、戻れない。
正巳は今初めてそう感じていた。やがて、陽子にも知れるだろう。
正巳が家と土地を担保にして、金を借りたことが。
あの連中は、もともと正巳が金を返すことなど期待していない。奴らの狙《ねら》いは、土地と家を手に入れることなのだ。
しばらくは大丈夫だろう。しかし——いつまで?
正巳は、沙恵子を抱く手に力をこめて、
「な……。二人で、どこかで暮そう」
と言った。
沙恵子がそろそろと顔を向け、
「今、何を言ったか、分ってるの?」
「うん」
「とんでもないこと言って!」
と、息をつく。「不可能だわ」
「なぜ?」
「だって——あなたには、家族も家もあるのよ。それを捨てるの?」
と、沙恵子は非難するように言った。
正巳はしばらく答えなかった。
沙恵子は、正巳が「答えられない」と受け取ったのか、
「そうでしょ? 馬鹿なことを考えちゃだめよ」
と、念を押した。「これ以上、あなたに迷惑はかけられない。でも、もうできてしまった借金は仕方ないから、私、ともかく少しずつでも、働いてお宅へ送金するわ。とても足りないでしょうけど、足しにして」
「沙恵子……」
「私なんかと係《かかわ》り合ったばっかりに。——ごめんなさいね」
沙恵子は正巳にキスして、「今日限りで、私は姿を消すわ」
と言った。
正巳は頭を上げて、
「どこへ行くんだ?」
「分らないけど、あの連中の手の届かない所へ逃げるわ。どこか小さな町で名前を変えて、ひっそり暮していれば、大丈夫。それとも、都会の方が見付けにくいのかしら」
正巳は、沙恵子の裸の肩を撫《な》でながら、
「——僕も行く」
と言った。
「もうやめて。嬉しいわ、気持だけで」
「そうじゃない」
と、正巳は首を振った。「そうじゃない」
「どういう意味?」
「もう、僕は家を捨てたんだ。——家も土地も、担保にとられた。とても返せない借金だ。どうせ、長くはいられない」
沙恵子は息をのんで、
「——ご家族はそのことを?」
「知らないよ、もちろん」
「大変なことを……」
「君を捨てておけなかったんだ。そうだろう? 君を助けるためだ。後悔はしてないよ」
沙恵子はギュッと正巳に抱きついた。息が苦しくなるほど、二人は唇を押し付けあった。
「——私、何をしてもあなたを食べさせてあげる。本当よ」
「僕だって働けるさ」
と、正巳は笑って言った。
「ああ! 愛してるわ」
「僕もだ」
二人は、それきり言葉をおさめて、ただひたすら肌を触れ合せていた。
いつしか、外も夜になり、部屋の暗さには追いついて来たが、二人とも、まだ外は明るいと思い込んでいた。
夜になったのにも気付かないほどだったのである。
正巳は、沙恵子の重みを受け止めながら、しばらく眠りに落ちた。少なくとも、夢は楽しいものだった……。