家に入ると、電話が鳴っているのが聞こえて、亜《あ》紀《き》は急いで居間へ駆け込んだ。
お母さんかな、と思いつつ出てみる。
「——もしもし」
「あ、亜紀君? 君《きみ》原《はら》だよ」
亜紀は思ってもみない声を聞いて、ペタッとソファに座り込んでしまった。
「——もしもし? 亜紀君、聞いてる?」
「ええ」
と、ため息と共に、「あんまりびっくりして……」
「ごめんごめん。ずっと連絡しなかったからな」
「いえ、そういう意味で言ったんじゃないの!」
と、亜紀はあわてて言った。「嬉《うれ》しかったの。それだけ。本当よ」
「ありがとう。——実は、この前の人形展で会った佐《さ》伯《えき》さん、憶《おぼ》えてる?」
「ええ。人形劇団の方ね」
「そうそう。あの人がね、急に団員の一人が入院しちゃったって連絡して来てさ。僕に手伝ってくれないかって」
「あら、すてきじゃない」
「僕も、三日間だけだって言われて、気軽に引き受けたんだ。そして待ち合せの場所に行ってみたら、凄《すご》いオンボロトラックが来てさ、ガタガタ揺られて、何と七時間!」
「どこに行ったの?」
「山梨の山の中でね、小学校にトラックで乗り入れて、荷台をそのまま舞台にして人形劇を見せるんだ。夜はその小学校の校庭でテント張って寝る。——てっきり昼間だけだと思ってたから、面食らっちゃって」
と言いつつ、君原も笑っている。
「じゃ、三日間ずっとそんなことしてたの」
「一週間! ——団員は三日で治って出て来るはずだ、って言われたけど、そんな無茶して具合悪くなっても大変だろ。だから、僕がやるって言ったんだ。きっと佐伯さんもそのつもりだったんだよ」
「見たかったな、その様子。子供たち、喜んでた?」
「うん。いくら山の中っていっても、今の子はTVで何でも見てるから、どうかなと思ったんだけど、人間が目の前で人形を操っているってのは全然違うらしいんだ。凄く喜んでくれた。——もちろん、下手なんだけどね」
「そんなこと……。熱意が伝わるんだわ」
君原の笑顔が目の前に見えるようだ。そして、一《いつ》旦《たん》そのまぶしい笑顔を思い出すと、会いたくてたまらなくなって来た。
「君原さん、今、どこ?」
と、亜紀が訊《き》くと、
「うん……」
と、君原はなぜかためらって、「実はね……」
亜紀は不安になって、
「はっきり言って。——もう帰って来ないの?」
と言った。
「まさか! 大学生だぜ、こっちは」
と、君原は言った。
「じゃあ……」
「実は……今、君の家のすぐ近くにいるんだ」
「え?」
「あの、いつかのコンビニ。あそこからかけてる」
「何だ!」
と、亜紀は笑って、「心配しちゃった!」
「ちょっと、その……」
「早く来て! 待ってるわ」
と、亜紀は言って、「玄関に出てるからね!」
と、電話を切ると、玄関へと駆け出して行った。
外へ出て、まだ制服のままだったことに気が付いた。
——ま、いいや。
「早く来ないかな」
と、呟《つぶや》いていると……。
ガタガタ、ドン、と凄い音がして、目を丸くしている亜紀の方へ、スクラップ同然のトラックがやって来たのである。
トラックが、亜紀の家の前で停ると、
「やあ!」
運転席から顔を出したのは、佐伯である。
「どうも……」
「すまんね! ちょっと邪魔するよ」
「はあ」
荷台から、ドスンと降りて来たのは、ひげののびた男で——。
「——話をする前に切っちまうから」
「君原さん!」
「僕、そんなにひどいかい?」
「——うん」
と、素直に肯《うなず》く。「じゃ、今、帰り?」
「そうなんだ。みんな一週間、風《ふ》呂《ろ》に入ってなくて……。このままじゃ帰れないって言うから……」
亜紀は、ふき出してしまった。
「どうぞ! お風呂ぐらいいくらでも」
「ありがとう!」
と、君原が手を合せた。
荷台から、三人、四人と降りて来る。
中には若い女性もいて、亜紀はびっくりした。
「じゃ、女性優先だ。お湯、今入れます」
「悪いね。シャワーだけでいいよ」
「お湯に浸った方がいいですよ。疲れも取れるわ」
とはいえ、何と総勢七人! お風呂に全員入ったら、何時間かかるか。
しかし、今さら断れっこない。亜紀は手早く着替えると、湯舟にお湯を入れた。——みんな、見分けがつかないくらい汚れている。
亜紀は、居間へ入って、
「今、お湯入れてますから——」
と言いかけて、「どうしたんですか?」
佐伯を始め、もちろん君原も、全員が居間の床に座っているのである。
「あの……。ソファに座った方が楽ですよ」
と、分り切ったことを言うと、
「いいんだよ」
と、佐伯が肯いて、「何しろみんな汚れているからね。床は後で拭《ふ》けばきれいになるが、ソファを汚しちゃそうはいかない。だから床に座ってるのさ」
お尻《しり》が痛いだろうに。大体、今までトラックに揺られて来たのだ。
亜紀は、佐伯たちの「礼儀」に感動した。決して佐伯の命令にみんなが従っている、というのではない。いつもこうなのだろう。
羨《うらや》ましい、と思った。
「じゃあ……。今、お茶でもいれますね」
亜紀は台所へ行った。
茶《ちや》碗《わん》を出していると、君原がやって来て、
「悪いね、突然押しかけて」
と言った。
「いやなら断ってるわ。私、喜んでやってるの。気にしないで」
亜紀はそう言って、「コーヒーか紅茶の方がいい? 疲れてるでしょ。甘いものの方がいいかな」
「ああ、それじゃ——。インスタントでいいから、コーヒーを」
「はい。カップ、同じものが揃《そろ》ってないけど我慢してね」
亜紀は、コーヒーカップを出して並べた。
「手伝おうか」
「いいの。これぐらいやらせて。君原さん、沢山手伝って来たんでしょ」
亜紀は微《ほほ》笑《え》んで、「向うで待ってて。床に座ってね」
「——うん」
君原のいつに変らぬ笑顔が、不精ひげの下から覗《のぞ》いた。
亜紀は手早く(母の手伝いをするときには、こんなにできないのに!)仕度して、盆にコーヒーカップをのせて運んだ。
みんな、カップに思い切り砂糖を沢山入れて、大喜びで飲んだ。
亜紀は嬉《うれ》しかった。人形劇のお手伝いはどうせできないのだ。せめて、こんなことで喜んでもらえれば……。
亜紀は、あの本屋での出来事など、忘れそうになっていた。
電話が鳴って、急いで出ると、
「亜紀?」
「お母さん。今ね——」
「もしもし? 外からなの。聞こえる?」
「うん」
「今夜、藤《ふじ》川《かわ》ゆかりさんとお話ししてから帰るから、少し遅くなるわ」
「分った」
と、亜紀が言った。「何か食べるから」
「そうしてくれる? ——誰かみえてるの?」
陽《よう》子《こ》は、亜紀の声の他に何かおしゃべりの声が聞こえてくるのに気付いた。
「あ、お友だちが二、三人来てるの」
「そう。じゃ、良かったら一緒に何か食べなさいね。じゃあ……。そんなに遅くはならないから」
「はい」
陽子は電話を切った。
運転席で、円城寺は黙ってハンドルを握っている。陽子は、
「お電話、お借りして」
と言った。
円《えん》城《じょう》寺《じ》の車の電話を借りていたのである。
「そんなことでお礼を言われても……」
「いえ……。自分のためなんですわ」
「自分のため?」
「娘に嘘《うそ》をつきました。ですから、せめて礼儀正しく、と……」
「なるほど。しかし——」
円城寺は車をマンションの駐車場へと入れながら、「お嬢さんに気付かせないのも、愛情というものですよ」
「言わないで下さい。——辛《つら》いわ」
車を停めてエンジンを切ると、円城寺は、急に二人を包み込む静けさの中で、
「どうします?」
と言った。「食事だけで帰ってもいいんですよ」
陽子は、ゆっくりと顔を上げて、
「いえ……。もう心を決めたんですから」
と言った。「参りましょ」
二人は車を降りて、エレベーターで上って行った。
「お宅ですの?」
「いえ、違います。仕事が深夜にかかったりしたとき泊るように借りてるんです」
「奥様は、ご存知?」
「ここに部屋があることは知っていますが、来たことはありません」
「そうですか……」
エレベーターが停った。
マンションの中は静かで、人が住んでいるとも思えなかった。
廊下を歩く二人の足音が響いて、寂しげだった。
「入って下さい」
円城寺の案内した部屋は、そう広いわけではなかったが、あまり物がなくてすっきりしている。
「——奥に寝室が」
と、円城寺は言った。「奥さん……」
「そう呼ばないで下さい」
陽子は、バッグを足元へ落とすと、円城寺の胸に顔を伏せた。
円城寺の力強い腕が自分の体を締めつけるのを感じると、陽子は烈《はげ》しく心臓が高鳴って来て、こめかみにまで響くようだった。
何も言わずに、二人は唇を重ねた。
もう何も言う必要はない。いや、何か言えば却《かえ》って二人をためらわせるばかりだろう。
陽子は、円城寺に肩を抱かれて、せかせかとした足どりで奥のドアから中へ入った。
明りが消えていて、暗い。円城寺が手探りでスイッチを押した。
「さあ——」
と、円城寺は言いかけて、言葉を切った。
ベッドがある。——が、シーツも枕《まくら》もなく、マットレスがむき出しのままだ。
「いつも使ってるわけじゃないから……」
と、円城寺は言いわけするように、「その辺の戸棚に入ってるはずだ。待ってて下さい」
「カーテンを閉めないと……」
「そうですね」
「私、シーツを捜しますわ。カーテンを」
「分りました」
円城寺が、手早く窓のカーテンをきちっと引いた。
陽子は、作りつけの戸棚を開けてみたが、どこにもシーツや枕は見当らない。
「——ないわ。変ですね、クリーニングにでも出てるのかしら」
「いや、それにしても、替えのシーツぐらいありそうなもんだ。他を捜してみます」
円城寺は、バスルームへ入って行くと、片端から戸棚や引出しをあけてみた。
陽子も、居間へ戻ったり、納戸らしい扉を開けてみたりしたが、どこにも見当らない。
寝室へもう一度入って行くと、円城寺がふくれっつらでベッドのマットレスに腰かけている。
「ない! 何してるんだ、畜生!」
「怒っても……。どなたが管理してらっしゃるんですか?」
「さあ……。たぶん、総務の人間でしょう。秘書任せなので、よく知らないんです」
陽子も並んで腰をかけた。
もう心臓も普通のペースに戻って、穏やかに打っている。
「奥さん——」
「この上で、ってわけにいきませんわ。そうでしょ?」陽子は微《ほほ》笑《え》んで、「今日はやめとけってことなんだわ、きっと」
「そんなことはありません! 今からだってどこかホテルを取って——」
「それじゃ、帰りが遅くなりすぎます」
と、陽子は言った。「いや、というわけじゃないんです。もう——たぶん、私たち、浮気してるんですもの。心の中では、立派に。立派に、っておかしいかしら」
陽子は笑った。円城寺もつられたように笑い、陽子の額に唇をつけた。
「可《か》愛《わい》い人だ」
と、円城寺は言った。
「そんなこと、何十年ぶりかしら、言われたの」
陽子が照れて赤くなる。「——今日、主人が若い女とタクシーに乗るところを見てしまったんです」
「会社の帰りですか?」
「いえ、会社を早退して。——あの様子、普通じゃありませんでした」
陽子は目を伏せて、「ショックでなかったとは言いません。何となく感じてはいましたけど」
「当然です。——僕がこんなことを言うのはおかしいが、当然ですよ。お宅のご主人の性格を考えると、心配だな」
「ありがとう。そう言って下さると救われます」
円城寺が陽子の肩へ手を回し、軽く抱き寄せる。陽子は相手の肩に頭をのせた。
「でも、誤解しないで下さいね」
と、陽子は言った。「そのショックであなたに抱かれてもいいと思ったわけじゃないんです。顔を見たくなったの。それだけでも良かったけど、もういつでも抱かれる気持になっていたから……」
「嬉《うれ》しいな、そう聞いて」
円城寺は、もう一度陽子の額にキスした。
「抱き締めて」
陽子は自分から腕を伸ばして相手を抱いた。唇は少し乾いていたが、触れ合うと陽子の胸に目に見えない熱いものが流れ込むようだ。
「——口紅が」
と、息を弾ませて、「香水はつけていませんけど、気を付けて。奥様が気付かれますわ」
「少し、ゆっくりしてから帰りますよ」
——二人は、食事をとっていなかった。お腹どころじゃなかったのだ。
しかし、こうしていると陽子もお腹がグーッと鳴って、
「何か簡単に食べません?」
と、円城寺から離れて立ち上る。
「そうしましょう。——できれば、今度いつ会えるか、うかがいたいな」
「ちゃんとシーツも——」
「むろんです!」
即座に答えて、円城寺は笑った。
「——あ、カーテンを」
「そうだ、開けとこう」
円城寺はカーテンを開けた。
——明るい窓に夫の姿が見えるのを、小《さ》百《ゆ》合《り》は表の通りに立って見上げていた。
どうしたのだろう?
ずいぶん早い。ほんの十分足らず?
明りが消えた。——結局、夫と金《かね》倉《くら》陽子の間には、何もなかったのだろうか?
小百合は、暗がりの中に立っていた。