お昼休みのOLたちが、そのレストランのほとんどのテーブルを占領していた。
陽子には、そのにぎやかさ、明るさがまぶしいほどである。伊東真子が予《あらかじ》めテーブルを予約しておいてくれなかったら、三十分は待つことになっただろう。
疲れもたまっていて、あまり食欲はなかったが、こんなランチタイムの混む時間に、お茶の一杯ですませるわけにはいかなかった。軽めの方のランチを頼み、実際食べてみると自分でもびっくりするような勢いで平らげてしまった。
一種、気晴しにもなったのだろう。——食事をすませたところへ、伊東真子がやって来た。
「——お待たせしてすみません」
と、真子は息を弾ませて、「仕事が長引いちゃって。あ、ちゃんとお食べになったんですね。良かったわ」
「お先に一人で食べちゃった」
と、陽子は微《ほほ》笑《え》んだ。
「ご心配なく。——私も同じランチね」
と注文すると、「早食いは有名ですから」
と笑った。
「少し落ちついた?」
「まあ、色々ありましたけど……。私の方は独り身ですから簡単で。——それより、奥さんの方、どんな風ですか?」
「実は——ゆうべのことなんだけど」
と、陽子は、松井健郎が重傷を負わされた出来事について話をした。
「まあ……。大変でしたね」
「私より、亜紀の方が辛《つら》いでしょう。一番の仲良しの子のお兄さんなのに……。その子と、ぎくしゃくしてしまうでしょうからね」
真子は、少し沈んだ面持ちで肯《うなず》いたが、
「——そうそう。これ」
と、メモを事務服のポケットから取り出して、「円谷沙恵子さんが会社に入るときの保証人って人に当ってみたんですけど、もう亡くなってしまってるんです。でも——半年ほど前に、同じ課の女の子たちと海外旅行をしたことがあって」
真子は、そのメモをテーブルに置いた。
陽子はそれを手に取って、
「大阪の人ね」
「〈緊急時の連絡先〉というのを、ツアーの申込書にどうしてもかかなきゃいけないと言って、幹事役だった子が円谷さんから聞いたそうです。そのときの申込書の控をその子が取っていてくれたので」
「ありがとう。——もしかすると、ここへ頼って行っているかも……」
「電話はしていません。もしそこにおられるのなら、電話なんかしたら、またよそへ行ってしまうかもしれないし」
真子の気のつかい方に、陽子は胸が熱くなった。
真子はランチが来ると、確かに陽子が目を丸くするほどの勢いで食べ始めた。
「——でも、忙しいのにこんなこと調べてくれてありがとう」
と、陽子は言った。
「いえいえ」
真子は水をガブガブ飲みながら、「——そこに気が付いたのは私じゃないんです。ほら、母のお通夜に来た子で——」
「ああ、何だか主人と銀行で会ったとか言ってた方?」
「ええ。今朝ね、仕事してたら突然、『そうだ!』って大声出して。みんなびっくりしちゃったんです。そしたら、円谷さんが海外旅行に行ったことを思い出して、一緒に行った人の所へ行って、『申込書の控、ありませんか』って」
「ずっと考えててくれたのね。ありがたいわ、本当に」
「それが手がかりになるといいですけどね。私、興信所の人を知ってるんです。当ってもらいましょうか。お訊《き》きしてからと思って」
「そうね……」
「奥さんが直接訪ねて行かれても、もしむだ足だったら……。交通費だけ損ですし」
「そうね、確かに。——あなたにそこまで甘えるのは申しわけないけど」
「とんでもない!」
真子は微笑んで、「あ、そのメモは持ってて下さい。私、コピーとりましたから」
と言って、食事を続けた。
——二人で一緒にコーヒーになって、
「こんなこと言うと、奥さんに叱《しか》られるかもしれませんけど」
と、真子は言った。
「まさか! どうして私があなたを叱るの?」
「円谷沙恵子のことなんです」
と、真子は言い辛そうに、「ご主人をたぶらかしたひどい女、と思われてるでしょうけど。——私、一緒に仕事してて、そんなに悪い人には見えなかったんです。確か家族をほとんど亡くしていて、それで連絡先もよく分らないんですけど、どことなく寂しそうな感じの、でもきちんと仕事はする人でした」
陽子は肯いて、
「話して」
と、促した。「気を悪くしたりしないから」
「いえ……。それだけのことなんです」
「私、主人が悪い女に騙《だま》された、って単純に思ったりしないわよ」
と、陽子は言った。「あなたがそう言ってくれると少しはホッとするの。あの人のこと、大事にしてくれてるだろうと思って」
真子は微笑んだ。
「いい方ですね、奥さんって」
そろそろ、昼休みが終る時間だった。
どうしてなのか、みんなが何が起ったか知っていた。
亜紀に同情してくれる子もいたが、それでもミカの兄と「付合いがあった」ということの方に興味があるようで、
「結構、亜紀って隅に置けないんだ」
なんてからかわれた。
亜紀は腹が立って、よっぽど言い返してやろうと思ったが、現実に包帯で包《くる》まれた健郎の姿を目にしなければ、分ってくれなくても仕方ないと自分に言い聞かせた。
——ミカは、一切亜紀を無視していた。
昼休みにも、ミカは亜紀と目を合せようともしなかった。覚悟していたこととはいえ、亜紀にとっては辛いことである。
しかし、自分の方からミカに親しげな口をきくわけにいかない。何といっても、ミカが許してくれるかどうか、それはミカ次第だ。
昼休みが終りかけたところに、
「——金倉さん」
と、事務室の女性が顔を出した。
「はい」
また何か……。一瞬、ヒヤリとする。
教室の中も、何となく静かになって耳をそばだてているのが分った。
「——今、お宅のご近所の方から電話があったの」
「近所の人?」
「お宅、引越すの?」
亜紀は当惑して、
「引越すって……。いつかはそうなるかもしれませんけど——」
「今ね、トラックが来て、お宅の家具をどんどん運び出してるんだって」
亜紀は愕《がく》然《ぜん》とした。事務室の女性は続けて、
「でも、お宅の方が一人もおられなくて、ヤクザみたいな男が指図してるので、おかしいと思って知らせて下さったのよ」
「帰ってみます!」
亜紀は、よろけるように席へ戻った。急いで帰り仕度をする。
「お母様は?」
「母、出かけてるんです。連絡つかないし」
「じゃあ……」
「私、大丈夫です。一人で帰ります!」
亜紀は教室を飛び出した。
——家までが、とんでもなく長い。
一体何ごとだろう? きっと——あの男だ。あいつが、いやがらせをしているんだ。
一一〇番しようかと思ったが、自分の目で確かめない内に届けるのもためらわれた。
家が見える所まで来たときには、亜紀は、ぐっしょりと汗をかいていた。走ったからばかりでもない。緊張と動揺が、亜紀の体のバランスを崩したのである。
そして、亜紀は足を止めると、信じられない光景を目にして立ちすくんだ。
これって——何なの?
悪い夢を見ているようだった。冷汗が背中を伝い落ちていくのが分る。
亜紀は、近所の人たちが何人か集って何やら話している方へ歩いて行った。
「——あ」
と、一人が気付いて、パッとわきへどいた。
それをきっかけに、みんなゾロゾロと道の端へ寄る。——道の真中はふさがれていたのだ。亜紀の家から運び出された家具で。
ダイニングのテーブルが逆さに引っくり返っている。居間のソファが横に倒れて埃《ほこり》にまみれていた。椅《い》子《す》は面白半分に積み上げたようになっていて、その下に亜紀の使っている勉強机の赤い椅子が覗《のぞ》いてる。
全部、ではない。ともかく二、三人で運べる物はどんどん積み上げたのだろう。
「——亜紀ちゃん」
と、近所のおばさんが声をかけて来た。「ハラハラしながら見てたんだけどね……。止めるわけにもいかなくて……」
亜紀は、膝《ひざ》が震えて立っているのもやっとだった。
「何か……運んでったんですか」
と、訊く声が震えていた。
「ううん。誰だかね、若い男の人が通りかかって、その連中に文句をつけたの。度胸あるわよ。一一〇番するぞ、って言って。道路をふさいでるだけでも違法だぞって怒鳴ったのよ。見ててドキドキしちゃった」
「男の人……」
「その連中は、渋々引き上げてったわ。トラックも空のままで」
一体誰が? ——しかし、ともかく今はこの運び出された家具をどうしたらいいのか、亜紀は途方にくれていた。
「じゃあ……私、用があって」
と、そのおばさんがいそいそと行ってしまうと、他の人たちも何となく立ち去って行く。
——亜紀は、近所の人たちの表情がはっきり「面白がっている」ことに気付いていた。父がいなくなったことも、当然噂《うわさ》になっている。
人の不幸がそんなに面白いの!
亜紀は、積み重ねられた家具の山をゆっくりと回って見て行き、足を止めて青ざめた。
亜紀の勉強机。散らばった本。そして、亜紀の使っているタンスが、投げ出されていた。——それだけではない。引出しが全部外されて、中のものが道路にぶちまけられていた。
亜紀の下着が散らばっている。わざとやったのだ。それを近所の人たちは面白がって眺めていた……。
亜紀はカッと顔を赤く染めて、夢中で下着をかき集めると、引出しへ詰め込んだ。涙が溢《あふ》れ出て止らなかった。
負けちゃいけない。
向うの目的は、うちの家具を持って行くことなんかじゃないのだ。ショックを与え、追い詰めて、亜紀たちが逃げ出すのを待っているのだ。
しかし——そう分っていても、現実に目の前に家具の山をみると、亜紀は何もかも忘れて逃げ出したくなる。近所の人たちの目も、辛《つら》い。
でも……どうしよう?
亜紀一人では、机一つ中へ運び込めない。途方にくれて立っていると、後ろから変なクラクションの音がした。
振り向くと、トラックがやって来る。一瞬、あの連中が戻って来たのかとギクリとしたが、すぐに分った。
あのオンボロトラック、君原たちが使っていたやつだ!
トラックが停ると、君原が運転席からポンと降りて来た。
「君原さん!」
亜紀は駆け寄った。
「大丈夫か」
と言う君原の胸に、亜紀は飛び込んだ。
泣きはしなかった。ただ、君原の鼓動を聞き、やさしく抱いてくれる腕のあたたかさを感じていると、再び立ち上る勇気が出て来そうだ。
「もう大丈夫だ。心配しないで」
と、君原は亜紀の背中を静かに叩《たた》いた。
「じゃ、君原さんだったの? あの連中を止めてくれたのは」
「そうさ。大学が休講になったんでね、どうしたかなと思って来てみたら、このありさまだろ。びっくりして」
「でも、危なかった!」
と、ゾッとして、「殺されちゃうわ」
「昼日中だよ。しかも、人目がある。あんな奴《やつ》ら、ものかげでなきゃ何もできないんだ」
「でも、危ないことはやめて。ミカのお兄さんが大けがしたの」
「何だって?」
「これを指図してたのが、きっとその男よ。用心してね。君原さんまで私のせいでけがしたら、私……」
亜紀は、どうにもたまらなくなって、君原に思い切りキスした。道の真中だろうと、昼間だろうと構うものか。
パチパチと拍手が起って、亜紀はびっくりした。
いつの間にか、トラックから降りて来たのは、亜紀の所でお風《ふ》呂《ろ》を貸してあげた、人形劇の人々。
「佐伯さん!」
亜紀は真赤になって言った。
「邪魔して悪いね。しかし、こりゃひどいなあ」
佐伯は憤然として言った。
君原は、亜紀の肩をつかんで、
「急いでこの間のみんなに連絡を取ってね。お風呂を貸してもらったお礼をしようというんで、喜んで駆けつけてくれた」
と言った。
亜紀はびっくりした。
「でも……」
「元気出せよ。あんな卑劣な奴らに負けちゃいけない。いいね」
君原はポンと手を打つと、「さ、みんなでこの家具を元通り中へ運び込もう」
「うん。今日はしっかり腹ごしらえしてあるからな」
と、佐伯が力強く肯《うなず》いて、「亜紀君、君は何をどこへ置けばいいか、指示してくれ。いいね」
「——はい!」
亜紀は胸が一杯になって、お礼の言葉さえ出て来なかった。何か言えば泣いてしまうに違いないと分っていた。
「よし、かかれ!」
佐伯の声に、他の面々が一斉に動き出す。
「——これは一緒にやりましょ」
と、女性のメンバーが亜紀に声をかけ、二人で下着をタンスへ戻し、後で洗わなくてはならないにしろ、ともかく引出しをきちんと入れて、運べるようにした。
亜紀はその気のつかいようが嬉《うれ》しくて、つい涙ぐんでしまった。
「——亜紀君」
と、君原が呼んだ。「雑《ぞう》巾《きん》を。ちゃんと拭《ふ》いてから中へ運ばないとね」
「はい!」
亜紀は家の中へ駆け込んで行った。
一体何から手をつけていいのか、考えることさえできなかったのに……。
わずか一時間ほどで、君原たちは道に積み上げられていた家具を元通りに戻してしまった。
亜紀は、一休みしているみんなに冷たいお茶を配った。
「汗かきましたね」
と、亜紀は言った。「また、お風呂に入ります?」
何人かがシャワーだけ借りると言ったので、早速タオルを出した。
「——気をつかわないで」
と、佐伯がやさしく言った。「君にはまだ重荷だよ」
「でも……こうなっちゃったんだから、仕方ないんです」
亜紀は、詳しい事情を君原たちに話した。
「——じゃ、お父さんが電話して来たんだね?」
「そうなんです。でも、凄《すご》くやかましい所で……。きっと、どこかのカラオケか何かじゃないかしら」
「カラオケ?」
「そんな感じの音でした。酔って怒鳴ってる声とか……」
亜紀は口ごもった。「お父さんが好き勝手をしたんだから、どこで何してたっていいけど……。でも、何だかとっても辛い」
「当然だ」
と、佐伯が肯いた。「身《み》許《もと》を調べないで雇ってくれるとなれば、やっぱりそういう仕事しかないからね。——きっと、お父さんだって辛いと思うよ」
「自業自得です」
「うん、確かにね。でも、君も辛いと感じてるってことは、やはりお父さんに早く戻ってほしいと思ってるからだろ」
「さあ……。よく分りません」
と、正直に答える。「松井さんがあんなひどい目に遭わされたり、今日みたいなことがあったり……。これからだって、何があるか分らないんですもの。みんなお父さんのせいだと思ったら……。赦《ゆる》す気持になんかなれないかもしれない」
亜紀の言葉に、君原は黙って肯くと、自分の手を亜紀の手に重ねた。
すると、玄関で物音がした。
「亜紀! ——亜紀、いるの?」
「お母さんだ」
と、立ち上ると、陽子が駆け込んで来た。
「亜紀! 大丈夫なの?」
「お母さん——」
「今、ご近所の人に聞いて……。家具が道に放り出されてたって……。こちらはどなた?」
陽子がハアハア肩で息をしている。
亜紀が君原たちを紹介し、事情を説明すると、陽子は、
「そうでしたか……。本当にありがとうございました」
と、深く頭を下げた。
「今、お風呂に入ってる方もいるわ」
「そう。——この間の方々ね」
陽子は、亜紀のことを疑っていたのを恥じた様子で、改めて君原に挨《あい》拶《さつ》した。
「——ご主人の居所について、何か手がかりはないんですか」
と、佐伯が言った。
陽子が、伊東真子からもらったメモを取り出して、「ここをまず当ってみようと思うんですけど」
「大阪ですね。この辺なら知ってる。前に少しいたことがあるんです」
「大阪か……」
と、亜紀は思い付いて、「お父さんの電話で、聞こえて来た声、関西の人みたいだった」
「奥さん、この近所に知り合いがいます。僕の方から訊《き》いてみてもいいでしょうか」
佐伯の言葉に、陽子は、
「お願いします!」
と頭を下げていた。