「ありがとうございました!」
と、円谷沙恵子は言った。
もうじき勤務時間が終ると思うと、声に元気がこもる。
「沙恵子さんは、まるで真昼間の声ですね」
と、一緒の夜間にバイトをしている大学生の男の子が笑って言った。
「あら、それって私のことを単純だって言ってるの?」
「違いますよ」
と、大学生は言った。「沙恵子さんにはぴったりだと思って」
「お世辞はむだよ」
「分ってます。人の奥さんには手を出さない主義ですから」
「子供のくせに!」
と、にらんで、沙恵子は笑った。
「——お疲れさま」
と、交替の女の子が、エプロンをつけて奥から出てくる。
「あ、おはよう」
と、沙恵子は言った。「これ、在庫の表ね」
「はい。——いいですよ、もう後はやりますから」
「じゃ、お願い」
と、沙恵子はエプロンを外して言った。
二十四時間営業、年中無休のコンビニエンスストアは、暗くなることがない。
沙恵子は 夜の十時から翌朝七時までの勤務だった。終ると、もちろん外はもう明るい。
ふしぎなもので、一応制服になっているエプロンを外すと、決って欠伸《あくび》が出るのだった。
「あ、そうだ。パンがなかったわ」
いくつか、ちょっとしたおかずになるものも買って、沙恵子は店の裏から出た。
「——沙恵子さん、ご主人も夜中のお仕事なんですか?」
と、続いて出てきた大学生が訊いた。
「ええ、ガードマンなの」
と、沙恵子は言った。「だから私も、主人の勤めに合せて働いてるのよ」
「ガードマンか。じゃ、きっと逞《たくま》しい、すてきな人なんでしょうね」
「当然でしょ。私が惚れた人よ」
「言われた!」
と、大学生は笑って、「じゃ、また明日!」
と、元気に駆け出して行って、ちょうどやって来たバスに乗る。
沙恵子は、バスに乗るほどの距離でもないので、少しのんびりと歩いて行った。秋も大分深まって、こんな朝の時間は少し冷える。——寝不足のせいもあるかもしれない。
少し足を早める沙恵子の後ろ姿を、路上に駐車した車の中からじっと見送っている人影があった……。
沙恵子はアパートのドアをそっと開けた。
「ああ、お帰り」
金倉正巳が、あぐらをかいてカップラーメンを食べているところだった。スープの匂《にお》いがする。
「おかず、買って来たのよ。そんなものだけじゃ……」
「うん、そうだろうと思ったけど、ちょっと腹へ入れとこうと思ったのさ」
と、正巳は新聞を見ながら、「忙しかったかい?」
「まあまあね。あなたの方は?」
「今は谷間の時期なんだってさ。忘年会のシーズンになると、目が回るほど忙しいよ、って言われた」
沙恵子は台所に立つと、
「待ってね。ご飯もあたためればあるのよ」
「いや、後でいい。今は軽く食べて寝るから」
正巳はカップラーメンを食べてしまうと、
「お茶、くれるかい」
「はい!」
沙恵子は急いでお茶をいれた。「——ね、忘年会のころまでには、もう少し普通の仕事に就けるわ、きっと」
「うん……。しかし、今の仕事だって、そうきつくもないし、何とかやれるよ。ただ、給料は安いけど」
「そんなこと……。私だって働いてるんだし、あなたにいつまでもカラオケのお店の仕事なんかさせておきたくないのよ」
と、沙恵子は言った。
「しかし……何しろ身《み》許《もと》がね。——もちろん、求人広告も見てるけど」
沙恵子は、自分もお茶を一杯飲みながら、
「何だか……あなたに申しわけなくて。こんなことさせるつもりじゃなかったのに」
「おいおい」
と、正巳は微《ほほ》笑《え》んで、「僕だって子供じゃない。君に食べさせてもらうつもりなんかなかったさ」
「ええ、分ってる。——だから辛《つら》いの」
沙恵子は、少し迷って、「思い切って、ホステスにとも思うけど……。今はあんまり景気も良くないし、あの仕事をしてると連中に見付かるかもしれないわ」
「うん。いいんだよ。それより、君も体をこわさないようにしてくれよ」
「ええ……」
「何か食べたら? 僕は寝るよ」
「布団、敷くわ」
沙恵子は立ち上った。「——私、働きながらちょくちょく食べてたから。お腹空いてないの。あなた、お風《ふ》呂《ろ》は?」
「シャワーだけ浴びるよ」
と、正巳は立って、思い切り伸びをした……。
沙恵子は、二人の布団をくっつけて敷いた。
正巳の後、沙恵子もシャワーを浴びて出て来ると、もう正巳は軽いいびきをかきながら眠り込んでいた。
もちろん、外は明るいのでカーテンを閉めていても、室内は充分に見分けられるほどである。
ここに住んだ初めの内は、明るくてなかなか寝つかれず、眠い目をこすりながら仕事に行っていた正巳だが、今はすぐに眠ってしまう。それだけ疲れてもいるのかもしれないが。
沙恵子は布団へ入って、それから少しためらって、正巳の布団の方へ体を滑り込ませた。
正巳は少し身動きしたが、目を覚ますことはなく眠り続けている。
沙恵子は正巳を起さないように、そっと寄り添って、自分も目を閉じた。
立ちっ放しの仕事なので足がだるく、しびれたようになっている。——自分では張り切っているつもりだし、実際、店長に気に入られてもいるのだが、やはり深夜から朝までの勤務は疲れるのだろう。
いつしか沙恵子も眠りに入っていた。
ふと目を開けると、沙恵子は布団で一人、寝ていた。
「——あなた?」
起き上ってびっくりした。もう午後の三時である。
ぐっすり眠ってしまったものだ。正巳はもう起きたのだろう。
テーブルに、メモがあった。
〈ちょっと良さそうな求人があったので、早めに出て寄ってみる。よく寝てたから、起さなかったよ。
正巳〉
沙恵子は、正巳のやさしさが胸にしみて、そのメモ用紙をそっと胸に押し当てた。
——起き出すと、さすがにお腹が空いていて、軽く食事をし、それから掃除、洗濯。これは音がするので、夜中にはやれないのだ。
コンビニの勤めは夜からなので、一《いつ》旦《たん》近くのスーパーへ買物に出た。日用品を買って帰り、正巳が帰ったときの食事を用意して冷蔵庫へしまう。
正巳あてのメモに、そのことを書いて、さて、そろそろ仕度だ。
コンビニに慣れて来たら、何かもう一つ仕事を捜そうかと思っていた。何といっても、二人とも「日当いくら」の仕事で、いかにも不安定だ。
こういう暮しは覚悟の上だが、そう分っていても、あまり続くと何かのときに不満が爆発するかもしれない。
貧しさが人間を変える、ということ。沙恵子はよくそれを知っていた。
夜中の十二時前後、コンビニは一つのピークになる。
実際、沙恵子も決して「早寝早起き」の生活をしていたわけではないが、こうして働いていると、夜昼逆の暮しをしている人の多いことに驚く。
「ありがとうございました」
いつも同じ時間に現われる男の子。——たぶん、大学を受験しようとしているのだと思うが、いつも半分トロンと眠ったような目をしていて、とても勉強している風には見えない。
その様子と、決った時間に、一分と狂わず現われるというところが、何とも奇妙なのだった。
「——少し落ちつきましたね」
と、バイトの大学生が言った。「すみません、沙恵子さん——」
「タバコ一本、でしょ。どうぞどうぞ」
いつもの習慣みたいなものである。
「すみません、それじゃ」
と、奥へ入って行く。
大丈夫。今は店の中もほんの二、三人の客。
沙恵子は、ちょっと体を伸ばして、拳《こぶし》で腰を叩《たた》いてみたりした。——ずっと立っているというのは、腰や背骨に無理がかかるものなのだろう。
「あら、忘れ物?」
傘が一本、カウンターの端に置かれていた。
——降りそうな天気というわけでもないが、夜は空模様がよく分らないので、傘を持っている客が多い。
誰か、忘れた人が取りにきたときのために、沙恵子はその傘をカウンターの中へ置いた。
「お願いします」
と、声がして、
「はい! いらっしゃいませ」
反射的に答えて、手はクッキーの袋をつかんでいた。バーコードを機械が読み取る、ピッという音。
しかし、そこで沙恵子の手は止ってしまった。
レジの前に立っていたのは、浅香八重子だった。
「——他にもあるわよ」
と、八重子は言った。「早く会計を」
沙恵子は震える手で他の物をつかんだが、何を手にしているのか分らなかった。
「千八百二十三円です」
機械的に言って、手さげの袋に入れようとする。
「袋はいいわ。自分で持って来てるから」
と、浅香八重子は微《ほほ》笑《え》んで、「少しでも、資源のむだづかいを避けたいわよね」
沙恵子は、品物を八重子の方へ押しやった。
「ありがとうございました」
八重子の支払いは、きちんと一円玉まで額面通りだった。
浅香八重子は、チラッと他の客を振り向いて見た。
「——買いたい物もないのに来ているお客さんもいるのね」
と、面白そうに言って、「大分捜したわよ。でも、分ってたでしょう。どうせいつかは見付かるのよ」
「放っといて下さい。——お願いですから」
沙恵子は、抑えた声で言った。「もう私に用なんかないでしょう」
八重子は鋭い目で沙恵子を見つめて、
「間違っちゃいけないわ。あんたはもう『汚れてる』のよ。普通の汚れじゃない。洗っても、決して落ちない汚れなの」
「私は——」
「自分だって分ってるでしょう」
と、八重子は遮って、「本気であの男に惚《ほ》れたって、本当のことが分りゃ、どうなるか……」
沙恵子は、一瞬よろけた。カウンターにつかまって、何とか立っていられた。
「——どうしろって言うんです」
「後がなかなか手こずっててね」
と、八重子は言った。「あの奥さんと娘が、結構しぶとく頑張ってるの。落合なんか、あの鼻っ柱の強い娘に惚れてるんだけど、手ひどい目に遭ってるわ」
沙恵子は、初めて少しゆとりを持って八重子を眺めた。
「それはお気の毒ですこと」
「他《ひ》人《と》事《ごと》みたいなことを言うわね」
「他人事ですもの」
「そうはいかないよ」
と、凄《すご》味《み》のある声で、「あんたも同罪だよ。いざってときはね」
沙恵子は唇をかみしめた。そうしないと、叫び出してしまいそうだ。
「——父親をエサにして、あの娘を誘い出して」
と、八重子が言った。
「私にそんな——」
「力を貸してくれりゃ、あんたたちの邪魔はしないよ」
と、八重子は言った。「何があっても、知らなきゃ気にならないだろ? あの男にゃ黙ってればいいんだから」
沙恵子は、少しの間黙っていた。
「——信じられません」
「そうだろうね」
と、八重子は笑って、「明日、また来るよ。考えときなさい」
そして、バッグから封筒を出すと、ポンとカウンターに投げ出して、
「ラブレターだよ」
と言って、店を出て行った。
沙恵子は、膝《ひざ》が震えて立っているのがやっとだった。そこへ、タバコを喫《す》いに出ていた大学生が戻って来る。
「やあ、すみませんでした」
と、大学生は戻って来て、「沙恵子さん、どうしたんですか? 真青ですよ」
と、びっくりする。
「ちょっと……貧血気味なの」
とっさに、沙恵子は言った。「少し休んでていいかしら」
「ええ、もちろん。帰った方がいいんじゃないですか?」
「いえ、少し休めば良くなるわ」
沙恵子は店の奥へと入って行った。
コンビニは、狭いから、休憩する場所などあるわけではない。沙恵子は、積まれた段ボールに腰をおろして、何度も息をついた。
手が、浅香八重子の置いて行った封筒を握りしめている。
何だろう? ——恐る恐る、沙恵子は封筒を開けてみた。
フワリと一枚、紙が落ちた。足下に落ちたのを拾い上げてみる。
——小切手だった。額面は、百万円。
沙恵子は呆《ぼう》然《ぜん》としてそれを眺めていた。
「そんな……」
と、呟《つぶや》く。「そんなこと、できないわ」
引き裂いてしまおう。こんな小切手なんか!
百万円。たかが百万円で、どうしようというのだろう?
お金さえ出せば言うなりになると思っているのだ。あの女は……。
沙恵子は、じっと小切手を見つめていた。
明日。——明日、また来る、と八重子は言っていた。
そのとき破ればいい。破って、叩《たた》きつけてやればいい。何も、今破らなくたって……。
沙恵子は、小切手を二つに折ると、エプロンのポケットへ押し込んだ。
それから店へ戻ろうとしたが、思い直して、ロッカーの扉を開け、小切手を自分のバッグへしまう。
使うつもりじゃないのよ。——そうよ。
明日まで、失くさないようにしなくちゃいけないから。エプロンのポケットに入れたまま忘れちゃったら大変だから……。
「——もう大丈夫」
レジに戻って、沙恵子は言った。
男が一人、サンドイッチの包みをレジに置いた。
「いらっしゃいませ」
沙恵子は、いつもの通りに応対し、男はサンドイッチを手に出て行った。
——何となく、気になる男だった。
見かけたことがない。少なくとも、記憶に残るほど来てはないはずだ。
それなのに……。沙恵子は、どうして今の男のことが気になったか、気付いた。
男は、沙恵子のことを、一回も見ようとしなかったのである。
わざと目をそらしていたのだろうか?
沙恵子は、その男の客のことが、どうしてか気になってならなかった……。
——その日は、朝までがひどく長く感じられた。
コンビニを出てアパートへと帰る足どりも、いつになく重い。その理由が浅香八重子にあるのは確かだったが、それだけではない。
どうしてもそれを正巳に話すことができないということ。そのことを、浅香八重子も承知している。それがいっそう沙恵子の足どりを重くしていた。
アパートへやっと辿《たど》り着いた(本当にそんな気分だった)沙恵子は、玄関のドアを開けてびっくりした。
鍵《かぎ》をかけてない! ——正巳が帰っているのは分っていたが、鍵をかけ忘れるなんて、あの人らしくない……。
「あなた……。ただいま」
と、沙恵子は言った。「寝てるの?」
薄暗い部屋の中から、
「うん……」
と、低い声がした。
「ごめんなさい。眠ってたのね」
沙恵子は上ると、「——何も食べてないの? 体に悪いわ」
と言った。
正巳は何も言わず、布団をひっかぶるようにして寝ている。
よほど疲れたのだろうか。
沙恵子は、ともかくそっと寝かせておこうと思った。
しかし——沙恵子は戸惑った。正巳の脱いだ服が見当らない。
ズボンも、ワイシャツも。
「あなた……。ズボンとか……。どこにあるの?」
正巳は答えなかった。沙恵子は初めて不安を覚えた。様子が変だ。
「どうかしたの? ——ね」
そっと膝をついて、正巳の方を覗《のぞ》き込む。
「ちょっと……転んで」
かすれた声を出し、正巳は咳《せ》き込んだ。
「まあ! けがしたの? 見せて」
「いや……大丈夫……」
苦しげにむせる。
普通じゃない。沙恵子は明りを点《つ》けると、布団をめくった。
沙恵子は青ざめた。——正巳はズボンもワイシャツも泥だらけで、すり切れている。
「何があったの!」
と、仰向けにして、さらに息をのむことになった。
正巳の顔が、唇が切れ、青くはれ上っていたのである。
「客の……ケンカを止めようとしたら、こっちが殴られてね……」
正巳は笑おうとして、咳き込んだ。