「先生、遅くなってごめん!」
と、弾《はじ》けるような声と共に谷山《たにやま》助教授の研究室に飛び込んだ亜由美《あゆみ》は、思いもよらない場面を目にして足を止めてしまった。
で——後からついて歩いていた、親友の神田聡子《かんださとこ》は、亜由美に追突してしまったのである。
「亜由美! 急に立ち止んないでよ」
と、文句を言って、「どうしたって——」
肩越しに中を覗《のぞ》き込んで、聡子もびっくりした。
といって、谷山助教授が女子大生と抱き合っていたというわけではないので、亜由美が失恋するのかと心配された方はご安心いただきたい。
しかし、やはり、大の大人が床に這《は》いつくばるようにして手を突き、頭を下げているという光景は、そうざらに見られるものではない。谷山が頭を下げているのではなく、下げているのは、どう見ても五十になろうかという禿《は》げたおじさん。谷山の方は困り切った表情で椅子《いす》にかけている。
「後で来る?」
と、亜由美は訊《き》いた。
「いや、いいんだ。入ってくれ。神田君も一緒か」
と、谷山は言った。
この大学の二年生、十九歳の塚川《つかがわ》亜由美は、目下谷山と「交際中」。とはいえ、何かと事件に巻き込まれることの多い亜由美と付合うのは「命がけ」のことなので、二人の間はなかなかロマンチックに展開してくれないのだ……。
「どうしたんですか?」
と、聡子が訊く。
「いや、このお客はもうお帰りだから」
「帰らん!」
と、その客[#「客」に傍点]は床に座り込んだまま、言った。「君にウンと言わせるまでは、死んでも社へ帰らん。そう決心して来たのだ」
「じゃ、死んで下さい」
と、谷山は冷たく言った。「運び出しはやりますから。その窓から投げ捨てるだけですけど」
「君……。谷山君! それが恩師に向って言うことか!」
と、男は大げさに天井を仰ぎ、「師弟の情《じよう》は失われてしまったのか! それならいっそ、君の手を煩《わずら》わすまでもなく、俺《おれ》自ら飛び下りて果てよう!」
と立ち上り、窓の方へ大股《おおまた》に進んで行く。
亜由美は仰天して、
「ちょっと——。先生、止めて!」
「放っとけ」
と、谷山は手を振った。
「では、さらば!」
と、男は窓を大きく開け放つと、片足を窓枠にかけた。
「やめて下さい!」
亜由美は駆けて行くと、男を後ろからがっしと羽交いじめにした。
「離してくれ! 武士の情《なさけ》!」
忠臣蔵じゃあるまいし、なんて思ったが、
「あ、そうですか」
と離すと、弾みで本当に落っこちそうなので、
「ともかく落ちて——いえ、落ちついて!」
と、中へ引き戻す。
「ドラマチック!」
と、聡子はのんびり見物している。
「全くもう! ——どうしたっていうんです?」
「よく訊いてくれた。私は木下将治《きのしたまさはる》。かつて、この谷山の恩師だった」
自分のことを「恩師」って言うか? 亜由美は首をかしげた。
「この私のごく簡単な頼みを、谷山は拒んだのだ! 神も仏もないのか! ここで断られたら、私は生きて明日を迎えることはできんのだ!」
芝居がかった人だわ、と亜由美は思ったが、といって、死ぬというのを黙って見ているわけにもいかない。
「こんなに頼んでるんだから、聞いてあげれば?」
と、亜由美は言った。
「君はやさしい人だ!」
と、木下と名のった男は、亜由美の手を固く握り、「これに指を」
「え?」
何か、親指にペタッとついたと思うと、いつの間にか木下の取り出した書類らしきものにグイッと拇印《ぼいん》を押していた。
「あの……」
「ありがとう! これで私は救われた!」
と、木下は、早速ティシュペーパーを取り出し、亜由美の親指の朱肉を拭《ふ》く。「君の名前は?」
「塚川……亜由美ですけど」
谷山は呆気《あつけ》に取られていたが、
「——おい! だめだ、そんなもの、無効ですよ!」
と、あわてて言った。
「なに、ちゃんと契約は成立さ。いや、亜由美君、明日は待ってるからね」
「明日?」
「大したことじゃない。我がS新聞の主催するイベントに、ちょっと出てもらうだけなんだ! じゃ、いいね。待ってるよ!」
木下は、大股に出て行ってしまった。
「——何なの、あれ?」
と、聡子が言った。「S新聞の人って、本当ですか?」
指折りの大新聞だ。
「——君、何てことをしたんだ」
と、谷山が頭を抱える。
「先生……」
「僕はこの大学の陸上部の顧問をしてる。知ってるだろ?」
「ええ。女の子の足が見たいからでしょ」
「そうじゃない!」
と、谷山は赤くなっている。
「どうせその辺を、ちょこちょこ駆けてるだけじゃないですか、うちの陸上部なんて」
と、聡子が言った。
「その中から、何とか女の子を一人、出場させてくれと頼みに来たんだ」
と、谷山は言った。「あの人はS新聞のスポーツ企画部って所にいて、明日の大会の責任者だ。ところが、参加選手が急に何人か出場を取り消して来て、TV中継のスポンサーから文句を言って来た。三十人を切ったら、スポンサーを下りると言うんだ。それが今、参加二十九人。あと一人、格好だけでもふやさないと、責任問題になる。それで、僕の所へやって来たんだ。昔、僕の家庭教師[#「家庭教師」に傍点]だった、ってだけでね」
「家庭教師で『恩師』?」
「だから放っとけって言ったじゃないか」
亜由美は我が身の早とちりを呪《のろ》った。——いつものことだが。
「でも、亜由美、契約しちゃったんだよ。出なかったら、訴えられるかも」
と、聡子がおどかす。
「そんな……」
と、亜由美がむくれて、「出りゃ文句ないんでしょ、出りゃ」
「いいさ、放っときゃ」
「いやよ! 自分で契約書に拇印を押した以上、その責任は潔くとるわ」
と、亜由美は言った。「で、何の大会? パン食い競走か何か?」
「そんなもの、TV中継する?」
「それじゃ——」
「〈S新聞 秋の女子マラソン大会〉だよ」
と、谷山が言った。
「マラソン[#「マラソン」に傍点]?」
「うん。——国際大会への出場権をかけた、フルマラソンだ。四十二・一九五キロ、走るんだよ」
亜由美は愕然《がくぜん》とした。
「——四十二メートルじゃだめ?」
「——お待たせして」
と、息を切らしながらやって来た女性が言った。
そして、信子と中里コーチの間の不自然な沈黙に気付くと、
「あの……シューズができたのでお持ちしたんですけど……」
「いいんだ」
と、中里が肯《うなず》く。「後で」
その言葉は、信子に向けられたものだった。
「——ええ」
信子は、少し間を置いて言った。「後で、ね」
中里は、グラウンドから足早に立ち去って行った。ナイター照明の青白い光が、その後ろ姿を昼間以上にくっきりと浮き上らせている。
「多田さん……」
と、植田英子《うえだえいこ》は言った。
「いいの。——助かったわ。明日が本番ですものね」
「すみません。何回もテストを繰り返してたものですから、遅くなって。もう大丈夫。決してテープ部分がはがれることはありません」
「はいてみるわ。明日はいて、問題あると困るものね」
と、信子は新しいシューズを受け取って、「軽いわ。——いい感じ」
「ぜひ、勝って下さい」
と、植田英子は言った。「これ、〈Gスポーツ〉の社員として言ってるんじゃありません。あなたのファンとして言ってるんです」
信子は微笑《ほほえ》んだ。
トレーナー姿の信子は、実際よりふっくらとして見える。
そのまま人工芝の上に腰をおろして、新しいシューズにはきかえる。
植田英子は、胃の辺りが刺すように痛むのを感じた。
考えてみたら、昼食も忘れている。もう、夜の八時だ。
とても、そんな余裕がなかったのである。
多田信子は、今〈Gスポーツ〉の靴を宣伝してくれるトップの選手だ。その靴が故障[#「故障」に傍点]した。——これは、営業のベテラン、英子にとって最大の問題だったのである。
欠陥を直し、更にいい靴を。——今、スポーツシューズの業界は激しい競争の中にいる。
優勝選手がどこのシューズをはいていたか、が大きく売行きを左右するからだ。
しかし、言葉だけではない。英子は心から信子を応援していた。信子の「担当」としてもう五年、ピッタリとそばに付いている。
信子は、決して無理を言わなかった。中にはメーカーに対して「スター気どり」のわがままを言う選手もいるが、信子はあくまで「K食品の社員」という立場を忘れない。
英子は、信子が新しいシューズで軽くその辺を走り回るのを、ホッとしながら眺めていた。
「——いいわね」
と、信子は肯いた。「ぴっちり締って、それでいて圧迫感がないわ。一番の出来じゃない?」
「そう言って下さると……」
英子はホッとして——お腹《なか》がグーッと鳴った。信子が笑って、
「飢え死にしない内に何か食べた方がいいわ。——私も付合うわよ」
「もう、トレーニングは?」
「後は本番。今夜、ゆっくり眠るだけよ」
二人は、ロッカールームの方へ歩いて行った。
英子は、信子に中里と何かあったのか、訊いてみたかった。——野次馬《やじうま》的な好奇心も全くないわけではなかったが、中里との仲についてはむろん知っていたし、このところ市原ミキの方に中里が力を入れていることも耳にしていたからだ。
だが、明日が大きな大会というとき、そんな話でわざわざ信子の気持を乱すのは、英子のしてはならないことである。
「そういえば、ミキさんの担当が心配してました。連絡がつかないって。シューズ、問題ないといいんですけど」
英子の言葉に、信子は目を見開いて、
「知らないの?」
と言った。
「何かあったんですか?」
「中里さん、あなたの所へ何も言わなかったのね」
「というと……」
英子が思わず足を止める。そこへ、聞き憶《おぼ》えのある、高い笑い声が聞こえて来た。
「——市原さん。〈Gスポーツ〉の植田です」
と、英子が挨拶《あいさつ》して、「あら……」
市原ミキは、スラリとした足を出したミニのドレス姿だった。
「今夜はパーティだったの。信子さん、走ってたの?」
「少しね」
「真面目《まじめ》だなあ。私はパーッと遊んで、ドッと寝て。明日は気分を切り換えて走るわ」
と、ミキはグラウンドを眺めて、「コーチは?」
「さっき出て行ったけど」
「そう。じゃ、ロッカールームかな。いいわ、別に会えなくっても」
ミキの傍《そば》に、三十くらいのスラリと長身の男が立っていた。スーツ姿が、グラウンドには似合わない。
「植田さんでしたね。どうも」
と、男の方から会釈して来た。
「あなた、確か、〈Nシューズ〉の方ね」
英子の言葉に、ミキが代って答えた。
「市原|和樹《かずき》。兄ですの」
「お兄様? ——そうですか」
英子の顔色が少し変った。
「そういうわけで、私、明日からは〈Nシューズ〉をはくの。よろしくね」
英子は何か言いかけて、やめた。
「そうですか……。残念ですわ」
「じゃ、信子さん、明日ね」
市原ミキは、兄を促してさっさと戻って行く。
「——言わなくて良かったわ」
と、信子が言った。「あの人には通じないわよ、言っても」
「そう思ったんで、やめました」
〈Gスポーツ〉は、ミキとの間にも、一応契約というほど正式なものではないが、〈覚書〉を交わしている。何の通告もなしに他メーカーのシューズをはかれては困るのだが、ミキにそう言っても、怒るだけだろうと思ったのだ。
「でも、変ね」
と、信子は言った。「中里さんが、あなたの所へちゃんと話をしたはずよ。そう言ってたのに」
「何も聞いてません」
英子は四十歳で、今、主任の肩書を持っている。話が通っていれば、英子の耳に入らないはずはないのだ。
「人間の世界は色々ね」
と、信子は言って、英子の肩を軽く叩《たた》いた。
「さ、何か食べて帰りましょ。今日は私がおごるわ」
「とんでもない!」
英子は、明るい口調に戻って、「いいものを少し食べて。変なもの食べて、明日お腹でも痛くなったら大変!」
「はいはい。あなたの方がコーチみたいね」
と、信子は笑って言った。
二人は、長年の友だち同士という様子で、ロッカールームへと歩いて行った。