玄《げん》関《かん》のチャイムが出しぬけに鳴った。
もっとも、それは至極当然のことで、玄関のチャイムがいちいち、
「今から鳴りますよ」
と予告するはずもない。
そんなことがあったら、薄《うす》気《き》味《み》悪くて仕方あるまい。しかし、訪問を予期しているときならともかく、この金曜日の夜に——それも十時を回っているのだ——誰《だれ》かが訪ねて来ようなどと、一体誰が考えるだろうか?
おまけに僕《ぼく》はどうにも手の離《はな》せない状態にあったのだ。チャイムは、くり返し、二度、三度と鳴り続けた。
僕は放っておくことに決めた。なに、その内には諦《あきら》めて帰って行くだろう。どうせ大した用があるはずはないのだ。いや、分らないけど、緊《きん》急《きゆう》の用なら、やって来る前に、電話でもして来るはずだ。
僕は断固無視することに決めて、取っかかっていた仕事を続けた。しかし、チャイムを鳴らす方も、そう簡単には諦めないようで、少し間を置いては、二度、三度とチャイムはけたたましく鳴るのだった。
実際、あのチャイムは人の神経を逆なでするような音を出す。僕はこの家を建てるとき、美《み》奈《な》子《こ》の選んで来たあのチャイムには反対したのだ。でも、それを聞くような美奈子ではない。
全く、こういうときに聞くと、改めてあのチャイムの音は、ヒステリーを起したときの、美奈子の声とそっくりだと思う。何とも人を苛《いら》立《だ》たせる音なのである。
訪問者は、しつこくチャイムを鳴らし続けた。僕は根負けした。
それに、やっと仕事も片付いたので、出てみようかという気になったのだ。
あの調子では、出るまで何時間でもチャイムを鳴らし続けるに違《ちが》いない。
僕は寝《しん》室《しつ》を出た。寝室は二階なので、足早に階段を降りて行く。その間にも、チャイムはしつこく鳴り続けていて、玄関に近付くにつれ、一層、その刺《し》激《げき》的《てき》な響《ひび》きを強めるのだった。
「はいはい」
僕は、インタホンのスイッチを押《お》した。「どなたですか?」
「私よ」
人の家を訪問して、そりゃないでしょう。どんなに親しい相手だって、名前ぐらい名乗りゃいいじゃないか。名前を言うのに一分もかかるとか、でなきゃ、〈私〉っていうのが名前だとかいうなら別だが。
だが、その、チャイムの音に劣《おと》らず神経に突《つ》き刺《さ》さる如《ごと》きかん高い女の声には聞き憶《おぼ》えがあった。もっとも好きで憶えているわけじゃないが。
「住《すみ》谷《たに》です」
さすがに失礼だと思ったのか、ご亭《てい》主《しゆ》の方が口を添《そ》える。
しかし、一体こんな時間に何の用だ?
僕としては、インタホンだけの応対で済ませたかったが、こんな場合でもあり、美奈子と親しい住谷夫婦と気まずくなるような真似《まね》はしたくなかった。
仕方なく、僕はサンダルをつっかけると、玄関のチェーンを外し、ドアを開けた。
「何やってたの? 散々呼んだのよ」
住谷秀《ひで》子《こ》は、いつもユニークな格好をしている。実際、ユニークとでも言わないと、賞《ほ》めようがないのだ。〈ユニーク〉だって、あんまり賞め言葉じゃないかもしれないが、少なくとも当人は喜ぶ。
今夜も、秀子は頭に七色のターバンの如き布を巻きつけ、見ていると目がチカチカして来そうな原色のシャツ、入ったはいいが、一回ごとに引き裂《さ》いてるんじゃないかと思うほどピッチリしたスラックスというスタイルである。
「やあ、今晩は」
亭主の住谷がまた出来そこないのプレイボーイという男で——出来そこないでなきゃこんな女に捕《つか》まっちゃいない。
「ええと……何か?」
と、僕は極力愛想良く言った。
「あら、美奈子さんから聞いてないの?」
と、秀子がわざとらしく目を大きく見開く。
「何をですか?」
「今夜、遊びに来てくれって言われたのよ」
「美奈子がそう言ったんですか?」
全く、これだから、困っちまうんだよな! 亭主に一言の断りもなく、人を招待したりして。いや、そんなこと言っちゃいられないんだ。何とかしなくちゃ……。
「美奈子さん、いるんでしょ?」
秀子が図々しく上り込《こ》もうとする。僕はあわててその前に立ちはだかって、
「それが、美奈子、具合が悪くて寝てるんですよ」
「あら、本当? 夕方会ったときは元気だったのに」
「夕食後から、何だか熱っぽいと言い出しましてね。寝《ね》ちゃったんです」
「そりゃいけないわねえ。——ちょっと顔を見て元気付けて行こうかしら」
「いや——ありがたいんですけど、たった今眠《ねむ》ったところでしてね。そっとしておいてやった方がいいと思うので……」
「そう。残念ねえ。せっかく来たのに」
と、せっかく来てやったのに、という不服そうな顔を見せる。
これが病気の友だちに対する態度だろうか? しょせん、美奈子の友人なんて、こんなものなのだ。
「病気じゃ仕方ないよ。失礼しよう」
住谷が多少常識のあることを言い出す。
「そうね……」
秀子の方は、まだ心残りの様子だったが、渋《しぶ》々《しぶ》帰りかけて、「——あんまり具合が悪いようなら、病院へ連れて行った方がいいんじゃない?」
と言い出した。
「いや、ただの風邪《かぜ》だと思いますよ」
「油断してると大変なことになるのよ。何なら、私、病院にお友だちがいるから、電話してあげようか」
自分が入院しろ! 僕は心の中で叫《さけ》んだ。
「明日の様子をみてからにしますよ。ご心配かけてどうも」
「さあ、行こう」
と住谷が促《うなが》すと、秀子は、まだ何か言いたげな顔で出て行った。
僕はドアを閉め、息をついて、しばらくドアにもたれて立っていた。あの二人、車で来たはずだ。車の音がしない内は安心できない。
エンジンの音が遠ざかる。——やれやれ!
僕はチェーンもしっかりかけて、家の中へ戻《もど》った。二階へ上る前に、居《い》間《ま》へ入る。一仕事終ったのだ。一《いつ》杯《ぱい》やろう。
といっても、僕はまるっきりの下《げ》戸《こ》である。美奈子はいつもそのことで僕を馬《ば》鹿《か》にする。何しろ美奈子と住谷秀子の二人で、軽くボトルを一本あけてしまうのだ。
僕は、といえば一度何とかいうカクテルをグラスに半分飲んでひっくり返り、三日間頭痛に悩《なや》まされた。以来、どんなに美奈子に馬鹿にされようが、アルコール類は一切口にしないことにしている。
従って、僕の一杯というのは、サイフォンで入れた香《こう》ばしいコーヒーの一杯という意味なのだ。——一仕事終った後には、これくらい疲《つか》れをいやしてくれるものはない。
居間の奥《おく》には、ホームバーがあり、その隅《すみ》に、いかにも肩《かた》身《み》が狭《せま》そうに——まるで僕のようだ——サイフォンのセットが置いてある。
さて、コーヒーが入るまでの間に、多少自己紹《しよう》介《かい》をしておこう。
僕の名は池《いけ》沢《ざわ》瞳《ひとみ》という。瞳——この名前で子供の頃《ころ》からずいぶんからかわれたものだ。両親が不精者で、男でも女でもつけられる名前を考えておいたのだそうだが、それにしてもいい加減な話だ。これも美奈子にとってはからかいの種になる。
「瞳ちゃん」
などと亭主のことを呼ぶのだ。もう三十代も半ばになろうという男をつかまえて、「ちゃん」もないものだ。
ところで、この家だが、なかなか立派なものである。百坪《つぼ》の敷《しき》地《ち》、二階建に地下室まであって、二家族、五、六人は楽々住むことができる。
もちろん、僕自身の稼《かせ》ぎで、こんな家が建つはずはない。四つの会社の社長をやっていた父が、僕が結《けつ》婚《こん》しても一緒に住めるようにと、ここを新築したのである。父は、新築記念に、親類や友人を呼んで開いたパーティで飲みすぎ、死んでしまった。母もそのショックで一か月後に後を追い、このだだっ広い家に僕は一人で残されることになったのだ。
そのとき、僕は二十四歳《さい》だった。
あ、コーヒーが入ったようだ。——この匂《にお》いをかぐと、体の中から、疲《ひ》労《ろう》が流れ出て行くような気がする。
まあ、ともかく一杯……。
うまく入った。——なかなか、こういう味にはならないものだ。やはり今日は記念すべき日なのである。
今の僕は——まあ、取り立てて言うほどのことはない。もう三十代も半ば——これはもう言ったっけ? 父の後を継《つ》いで、四つの会社の社長である。そう大会社でもないので、却《かえ》って乗っ取られることもなく、名目上の社長で、のんびりとしていられる。
はた目には、何とも優《ゆう》雅《が》な生活と見えるに違いない。しかし、中《ちゆう》途《と》半《はん》端《ぱ》に僕の家庭を覗《のぞ》き見た人は、たいてい、僕が養子の身で、この家も財産もみんな美奈子のものだと思うようだ。そして、
「大変でしょうねえ」
と同情してくれる人までいる。
僕も、あえて訂《てい》正《せい》はしない。気が弱くて女《によう》房《ぼう》の尻《しり》に敷《し》かれている、と馬鹿にされるよりは、同情されている方が気が楽というものだ。
さて、一杯コーヒーを飲むと、少し疲れも休まる。次なる仕事に取りかかるとしようか。
実際——と僕は、階段を上りながら考える。——社長とはいえ、めったに仕事をすることのない身にとっては、こいつは大仕事だったのだ。
いや、まだまだこれからやらなきゃならないことが山積している。でも時間はたっぷりある。何しろこの家には、僕と美奈子の二人きりなのだ。
そして今日は金曜日の夜。週末の土、日曜日には掃《そう》除《じ》や料理の女も来ない。美奈子も、やらないが、それはもともとのことである。時間はたっぷりあるというものだ。
寝室のドアを、ついノックしている自分に気が付いて、僕は苦笑した。これだから美奈子に馬鹿にされるのだ。
自分の家の寝室だ。何も居候《いそうろう》しているわけじゃない。堂々と入ればいいのだ。
ドアを開いて、中へ入った。
美奈子はベッドに横になっていた。さっき出て来たときと、少し様子が違うような気がしたが、きっと気のせいだろう。
そうそう、言い忘れていたが、僕はたった今、美奈子を殺したところなのだ。