首相執しつ務む室しつの窓に垂たれ込めていた冷たい霧きりは、そこから何キロも離れた場所の、汚れた川面かわもに漂ただよっていた。草ぼうぼうでゴミの散らかった土手の間を縫ぬうように、川が流れている。廃墟はいきょになった製せい糸し工こう場じょうの名残なごりの巨大な煙突が、黒々と不吉にそそり立っていた。暗い川の囁ささやくような流れのほかには物音もせず、あわよくば丈高たけだかの草に埋もれたフィッシュ・アンド・チップスのおこぼれでも嗅かぎ当てたいと、足音を忍ばせて土手を下っていく痩やせた狐きつねのほかは、生き物の気配けはいもない。
そのとき、ポンと軽い音がして、フードをかぶったすらりとした姿が、忽然こつぜんと川辺に現れた。狐はその場に凍こおりつき、この不思議な現象をじっと油断ゆだんなく見つめた。そのフード姿は、しばらくの間方向を確かめている様子だったが、やがて軽かろやかにすばやい足取りで、草むらに長いマントを滑すべらせながら歩き出した。
二度目の、少し大きいポンという音とともに、またしてもフードをかぶった姿が現れた。
「お待ち!」
鋭するどい声に驚いて、それまで下草したくさにぴたりと身を伏ふせていた狐は、隠かくれ場所から飛び出して土手を駆かけ上がった。緑の閃光せんこうが走った。キャンという鳴き声。狐は川辺に落ち、絶命ぜつめいしていた。
二人目の人影ひとかげが狐の骸むくろを爪先つまさきで引っくり返した。
「ただの狐か」フードの下で、軽蔑けいべつしたような女の声がした。
「闇やみ祓ばらいかと思えば――シシー、お待ち!」
しかし、二人目の女が追う獲物えものは、一いっ瞬しゅん立ち止まり、振ふり返って閃光を見はしたが、たったいま狐が転ころがり落ちたばかりの土手をすでに登り出していた。
「シシー――ナルシッサ――話を聞きなさい――」
二人目の女が追いついて、もう一人の腕をつかんだが、一人目はそれを振り解ほどいた。
「帰って、ベラ!」
「私の話を聞きなさい!」
「もう聞いたわ。もう決めたんだから。ほっといてちょうだい!」
ナルシッサと呼ばれた女は、土手を登りきった。古い鉄柵てっさくが、川と狭い石いし畳だたみの道とを仕切っていた。二人目の女、ベラもすぐに追いついた。二人は並んで、通りの向こう側を見た。荒れ果てたレンガ建ての家が、闇やみの中にどんよりと暗い窓を見せて、何列も並んで建っていた。