これは、遠藤周作氏の二番目の戯曲です。第一作は、三年前に、やはり私の演出で、私たちの劇団が上演した「黄金の国」でした。
「黄金の国」は、切支丹《キリシタン》の話で、氏が谷崎賞を受けた小説「沈黙」の、いわば戯曲篇でしたが、今度の「薔薇の館」は、文字通りの書下ろし現代劇です。
「黄金の国」上演の直後に、私は氏に、この次はぜひ現代劇を書かれるようにとすすめました。氏は直ちに快諾され、その構想を語ってくれましたが、三年の間にその構想は少しずつ変って来て、現在の「薔薇の館」は、初めの話から見るとほとんど別の話になってしまいました。小さな黒い種が、芽を出し、双葉をひらき、枝をのばし、やがてつぼみをつけ、花をひらくのを見るようで、作品形成の過程というものは、それだけで独立した一つのドラマであるように、私には思われました。
「薔薇の館」の舞台は、軽井沢にある教会の、司祭館です。
薔薇は、愛と血のシンボルであり、純潔のシンボルでもあると作者は語っています。さしずめ前者は紅薔薇、後者は白薔薇ということになります。
薔薇が二色であるように、この劇の登場人物たちは、みな、二つの極、二つの種属、二つの立場に位置するように書かれています。
神を信じる者と、何も信じない者。
愛し合う青年と、少女。
経験の豊かな、能力のある者と、未熟な無能力者。
殺す者と、殺される者。
愛し合う者たちと、憎み合う者たち。
それらの対立から、ドラマが生れ、発展してゆきます。どの人物もみな彼自身の、あるいは彼女自身のドラマの主人公であるわけですが、このドラマ全体のほんとうの主人公は、彼らを超えた存在——姿も見えなければ声も聞えない存在であるかも知れません。
しかし私はこの「薔薇の館」を、宗教劇として演出するつもりはありません。あくまで、人間の劇として演出しようと思っています。性や、狂気や、欲望や、悪意が、なまあたたかい溶岩のようにくすぶっている舞台にしたいと思っています。そう思わせるものが、氏の「薔薇の館」にはあるのです。私たちも、作者に負けないように、私たちの薔薇を育ててゆきたいと思っています。
——一九六九年一〇月 新劇通信——