このところ、私は現代作家の書き下ろし戯曲ばかりを演出している。
遠藤周作氏の「黄金の国」、安部公房氏の「榎本武揚」、今年は安岡章太郎氏の「ブリストヴィルの午後」、遠藤氏の「薔薇の館」と二本続いた。
べつに日本の現代戯曲だけを演出しようと一念発起したわけではなく、むろん外国の芝居を毛ぎらいしているわけでもない。半分は、めぐり合せである。
安部さんや遠藤さんに戯曲を書いてもらいたいという気持は、十数年前から持っていた。当時私は文学座に所属し、レパートリー委員をやっていたが、その委員会の作ったガリ版の報告書にも、書き下ろし委嘱作家として、安部さん、遠藤さんの名前が上っている。いろいろな事情で、実現が遅れただけである。
しかし、現代作家の戯曲の演出には、外国劇の演出とはくらべものにならない強烈なたのしみのあることも事実である。
そのたのしみは、作者と観客と俳優とが、共通の国語を持ち、同じ時代に生きているという、ごく当り前な事実に裏打ちされているようである。
外国の戯曲も、しっかりと日本語に翻訳されれば、本質的にはいわゆる創作とかわりはない。古典劇の作者も、これをわれらの同時代人と見ることが出来れば、現代作家とまったく同じである。なるほど、そうかも知れないが、観客や俳優にとっては、なかなかそうは行きかねる場合が多いのである。
現代作家の戯曲の演出はいわば表も裏も見通しのところでする仕事である。羽根飾りのついた帽子をかぶり、メダルのついた金の鎖を首にかけて、公爵。外国劇はそれでも通る場合がある。創作劇はそれではすまない。着物の生地、色合、柄、仕立て、着こなしがちゃんとそろわないと、おかみさんは出来上らない。衣裳や小道具ばかりの話ではない。せりふも身振りも動きも、さらに舞台装置も、照明も、音響効果も、すべてがそうである。写実にしても、反写実にしても、厳密でなければならない。能、狂言の生きている国である。
西洋で、西洋の芝居を見ると、当然のことだが、そういう所がいかにも厳密に、きちんと出来上っていることがわかる。表も裏も見通しの所で作りあげた芝居の、色や形やリズムの確かさがわかる。
演出者は、作者の意のあるところ、表現しようとしているものを知り、それを観客に伝えなければならぬ。ただ単に、作者の思想を理解するというようなことにとどまらず、もっと内側へ、いわば作者の呼吸や体温のようなものまで感じ取れるようなところまで、入ってゆかなければならない。
そのために、私はその作者の他の作品を出来るだけたくさん読むことを心掛けている。これはいつの間にか演出をはなれた、ほとんど独立した別のたのしみになってくるのが常だが、そういうことの出来るのも、これが現代日本の作家なればこそで、外国の作家では、いつもそううまく問屋がおろすとは限らないのである。
その作家について書かれた批評や注釈の類に目を通すのにも、外国の作家の場合は一と通りの苦労ではない。その他の参考書類に至っては、なおさらで、日本の戯曲を演出している限りは、よほど込み入った調べ物をするのにも、気分ははなはだ楽しい。
私もそのうち大奮発をして、外国の戯曲を演出する気をおこすかも知れないが、目下のところは、現代作家の戯曲さえ演出していられれば、冥利《みようり》につきると思っている。演出家とは一種の恋人のようなものだ、とルイ・ジュヴェは言った。シェイクスピアよりも遠藤を、チェーホフよりも安岡を、ブレヒトよりも安部をえらぶ演出家が、一人ぐらいいても悪くはないだろうと思っている。
——一九六九年一〇月 読売新聞——