今年私は、演出者として二つの芝居を上演し、役者として四つの芝居に出演した。
芝居は、よく言われるように手工業的な仕事で、幕が上るまでにずいぶん時間がかかり、幕が明いてからも毎晩、いわば一品生産をつづけなければならないのだから、これだけでも精いっぱいなのである。
演出と演技と、どちらが面白いかときかれると、両方とも面白いと答える。演出をする時には一人一人の役者の中に自分がいて演技をしている気分になるし、演技をする時には戯曲の主題、構成や、他の人物たちとの関係や、装置や照明などを考えに入れる。演出と演技とは、私の場合、原理的には同一の、二つの仕事である。
どちらの場合も、いちばん楽しいのは、台本を受け取ってから稽古の始まる前日までで、いったん稽古が始まってしまえば、毎日が煉獄の苦しみの連続となる点も共通している。
ただ、役者の場合は、台本をもらうことは役をもらうことで、稽古が始まるまでの楽しみは、どうしても自分の役が中心になる。そこから遠心的にひろがり、そこへ求心的に戻ってくる。
演出者となると、そうはいかない。同じ楽しみでもこちらの方は、私にとってははるかに忙しい楽しみで、しなければならないことが山ほどある。台本を読み、配役を考え、装置や衣裳や照明や音楽や音響効果を思案する。戯曲の主題や構成や質を生かすための現実的行動、空間、色彩、リズムなどをあれこれと工夫する。
配役通りの役者の一人一人を想像しながら台本を読む。うまく行かない。配役を変えてまた読む。稽古が始まる前は毎日大抵二回半ほど読む。稽古は私の場合、六週間ぐらいだが、この間も二回半がつづく。幕が上るまでに、一つの戯曲を二百回近く読む計算になる。そんなに読んで、あの程度のことしか出来ないのかと、笑われるかも知れないが、私は自分の演出した戯曲のまめな愛読者であったことを後悔したことは一度もない。
配役は芯の疲れる仕事であり、決断のいる仕事である。配役がうまくゆくか、ゆかないかで、その芝居の出来の良し悪しが、半分は決ってしまう。出場やせりふの多い役はむろんのこと、せりふのない通り抜けの役まで、みな大事に、はっきりと考えなければならない。こんなことは演出のABCで、いまさら何をと、言われるかも知れないが、実際にやってみると、これがなかなか容易なことではない。私は全配役をはっきりと考え切っておかないと、先へ進めないたちである。せりふのない役者でも、稽古の途中で急病になられたりすると、私はまったく途方に暮れてしまう。
稽古の初日、最初の本読みの日には、装置、衣裳、音響効果のプランがちゃんと出来上っている。大体の動きも決っている。せっかちなようだが、まず全体像を作っておいてから稽古に入るのが正しいやり方だと、私は思っている。
そんな次第で、台本の完成が遅れたりすると、稽古の始まる前に半徹夜がつづく。これは、ほんとうにつらい。
役者で出る時には、そんなことはしない。体調を整えなければならないから、半徹夜などは大禁物である。
稽古が始まるまでは、役のイメージを作ることに専念する。調べ物もしないではないが、役へのアプローチを理論的、分析的、科学的にしようと努めたことはない。稽古の始まるのを待つ楽しさは、半ば以上、想像する楽しさである。
さて稽古が始まってしまえば、前に書いたように、苦しみの連続である。
今年は「トロイアの女たち」の海神ポセイドン、「わが命つくるとも」のトーマス・モアと、外国人役がつづいた。「薔薇の館」では、折角の日本の現代劇なのに、ベルギー人神父を演じる羽目になってしまった。もっともこれは、私自身の演出だったから、誰を恨むべき筋合のものでもない。
演技をしていても、演出をしていても、私はわれながら突拍子もないことを思いつく癖があり、どうしてそうなるのか、なぜそんなことをするのか、自分でもわけが分らず、これはクレッチマー氏とやらの分類による分裂型とやらいう体質、気質のなせるわざではあるまいかなどと、考え込んでしまったりする。それともことによると、少年時代から馴染んだ歌舞伎や、寄席の藝、ことに落語の発想の突拍子のなさと関係があるのか。それとも、昔大学生時代に熱中したシュールリアリズムの文学や美術の、それらの理論の、消えがてに残っている影響のなせるわざか。あるいは、在り来たりを排し、理屈で固めた演技や演出を排し、想像力と感受性とを強調した岩田豊雄、故岸田国士両先生の「学校」出身であるせいなのか。どれとも関係があるような気がするし、ないような気もする。
いずれにしても、こういう癖を生かしたり、抑えたりしてくれるのは、いつも自分の中にいる他人、あるいは文字通りの他人で、役者をしている時には、演出家や共演者たちが、演出をしている時には、演出スタッフや役者たちや、大道具、小道具、光線、音響その他もろもろの「物」たちが、私の突拍子もない考えを支持したり、否定したりしてくれる。
目下稽古中の「棒になった男」では、作・演出の安部公房氏が、その信頼すべき他人を代表している。突拍子もないことを思いつく点にかけては、向うの方が上手《うわて》だから、支持されても否定されても、私は安心して、その通りにしている。なるほど、突拍子の方向が違うのだなと、思ったりもするが、そんなことも含めて、これは自分の仕事を進めてゆく上でのいい機会だったと思っている。
いや、そもそも、自分の演出や演技について、こんなに長いおしゃべりをするということ自体が、下手《へた》に突拍子もないことなのであろう。昔、ある席で、司会者から、役の工夫をする上での苦心を問われた折の、故三代目市川左団次丈の洒脱《しやだつ》な、簡潔な、憎い受けこたえを、その声や表情を、私はなつかしく思い出す。
「台本《ほん》を持つと、眠くなりますな」
——一九六九年一〇月 毎日新聞——