夜遅く、眠れぬままにテレビを見ていたら、古いフランス映画「犯罪河岸」がはじまった。人生到る処挫折ありとでも言いたげな、探偵も容疑者も失敗ばかりしているへんな推理映画である。
故ルイ・ジュヴェが、主役の、うだつの上らぬ老警部補を演じている。故シャルル・デュランが、まことに打ってつけの役だが、偏執的な金持の老人を演じている。ただしこれは、出てくるとすぐに殺されてしまう。見ていて私は不思議な気分になった。
テレビだから、むろん声は贋物《にせもの》である。しかしそれにしても、二人とも如何にも幽霊じみて見える。死んだ役者が幽霊じみて見えるのは当り前だと言ってしまえばそれまでだが、私としては、デュランはともかく、ずいぶん長い間その人について、その人の仕事や藝について、あれこれ思い廻《めぐ》らしてきた他ならぬジュヴェが、幽霊じみて見えては困るのであった。
映画はもともと幻の藝術で、映画館で私たちが見るのは役者ではなく、役者の幻に過ぎない。しかし、この現実よりも現実的な幻は、セルロイドの帯に定着されて、生身の役者よりも長生きをするから、「想い出の名画祭」というような企ても可能になるのである。芝居ではそうは行かない。「想い出の名舞台」というのは、大抵グラヴィア写真か何かである。
すぐれた映画は古くならない、昔のように今も新鮮であるというのは、ある意味ではその通りで、私も昔の映画を見て大いに感心した覚えがたびたびある。例えば「女だけの都」や「孔雀夫人」や「人情紙風船」は、今見てもきっと面白いに違いない。
しかし、そういう一流の映画でも、死んだ役者の出ている場面だけは、血肉を具えた彼や彼女の肉体が克明に再生されていればいる程、何となく空虚な感じが漂う。これは私の感傷であろうか。仮に、出ている役者が皆死んでしまっている映画があるとすると、それがどんなに「名画」であるにせよ私たちの見るのは、映画というよりも、映画の生々しい記憶というようなものになっているのではあるまいか。
映画は生きている役者を、役者の藝を、呑みこんでしまう。彼や彼女の表情や身振りや行動は、余す所なく捉えられ、定着され、記録されてしまう。そうなれば、もはや現実の役者は不要である。彼の広い額、こめかみに怒張する血管、ある時は呆けたように見ひらかれ、ある時は人の心の奥底まで見通すかのように鋭く輝く大きな眼、大きな官能的な口、低く重く際限もなくつづく声、妙に緩慢な身のこなし、ゆっくり大地を踏みしめて行くようにも見え、雲の上を歩いて行くようにも見える独特の足取り、そういうものを隈《くま》なく記録したみごとな幻が生きていれば、生きたジュヴェは不要である。せむしのような奇妙な身体、よく動く、いたちのような小さな目、冷酷な感じのする細い高い鼻梁《びりよう》と薄い唇、響きのわるい声が、そっくりそのまま生きていれば、生きたデュランは不要である。生きたチャールズ・ロートンは不要である。生きたジェラール・フィリップ、生きた小堀誠、生きたマリリン・モンローは不要である……しかし、果してそうであろうか。
映画という「現実の幻」は、役者が生きているというごく当り前の事実に裏打ちされていないと言えるだろうか。観客の愛惜する役者の死によって、映画は変質しないと言い切れるであろうか。暗い幕の上に、最初のタイトルがうつし出される時、これから始まる物語が、もう決定的に過去の出来事であり、もう決して見ることの出来ぬ役者の幻であることを知っている私たちは、ひたすら画面に注目するだろう。だが、最後の字幕が出た時、私たちは、ほんとうに、十分に、解放されるであろうか。「現実の幻」そのものがどんなに完璧であったとしても、その裏にある役者の死という動かし難い事実、あるいは事実の欠落が、その映画の本来もっていた濃度を薄め、弾力を弱め、充実を損ねて、観客はそこから自分の現実の世界へ戻って来るのに必要な、しっかりした手ごたえを感じなくなるのではあるまいか。そう思うのは、私の身びいきであろうか。
映画のおかげで私たちは死んだ役者たちの藝を見ることが出来るのだが、芝居は、役者が死んでしまえば、お終いである。
死は、芝居の世界では禁句である。死んだ役者は忘れられる。と言うよりも、忘れられなければならないのである。舞台に死の痕跡を残してはならない。生きた役者たちが、たちまち賑やかに彼や彼女の明けていった穴を埋める。役者はすべて、溌溂と生きていなければならぬ。一晩の芝居は、血肉を具えた生きた存在である役者と共に始まり、役者と共に終る。芝居そのものが、一種の生の儀式なのである。
役者は自分自身の生きた肉体という頼りない、移ろい易い、始末に負えない材料を使って仕事をする。役者は、役をつかんだり、つかみ損ねたりする。日によって調子が良かったり悪かったりする。あがる日があるかと思うと、落ちつきすぎて気持が鈍くなり、弾まなくなる日がある。役者はその日その日の化粧の出来上りの些細な変化に気をとられたり、いつまでも文句を言う演出家に腹を立てたりして、せりふを忘れたり、椅子にぶつかったりするかと思うと、高まってくる感情に揺り動かされて本物の涙を流し、心から笑い、相手役と呼吸が合えばこの世ならぬ愛や友情の喜びが身内を走るのを感じる。疲れ、声を涸《か》らし、汗を流しながら、客席に反応が起ると有頂天になって羽目を外し、また忽ち危ない難かしい意識の細い流れを見失うまいとして、真暗闇の中を行くような孤独とたたかい、震え、不安になり、興奮し、動揺する。そしてふとしたきっかけで立直ると、自分を自由に動かし得るという自信が溢れてくるのを感じ、堂々と振舞い、小さな溜息をついてもそれが客席の一番奥まで届いていることが分って安心する。刃物を投げ合う曲藝師のように、自分と相手役の間をとびかう科《しぐさ》や白《せりふ》、感情や意識がはっきり見え、しっかりつかまえられる。自分に酔い、酔いながらますます冷静になり、大胆になり、恥も外聞もなく醜い自分をさらけ出して見せるかと思うと、美しい一行のせりふをまだうまく喋れぬことをひそかに歎き、すぐ気を取り直して微妙な場面を慎重に切り抜け、やがて、最後の幕の降りる時、今夜自分たちの演じた芝居が観客の共感を得たと感じると、全世界の祝福をうけているような気がして、無上の恍惚感にひたり、我を忘れ、すべての労苦を忘れ去るのである。役者はずいぶん危なっかしい、脆《もろ》い存在だが、劇とは、そんな存在を通してだけ出現する、確固とした、強い、美しい世界であるように思われる。
役者の仕事は残らない。役者の仕事は肉体と共に滅びてしまう。その代り、庇《ひさし》を借りて母屋をとる図々しい男のように、傑《すぐ》れた役者たちは役を作者から取り上げる。傑れた役者たちは役を、時には芝居をまるごと、墓場へ持って行ってしまう。ジュヴェは「クノック」を、デュランは「ヴォルポーヌ」を、二代目左団次は「室町御所」を、菊五郎と吉右衛門は「宇都谷峠」を。
もし彼等のそういう芝居を、映画で見たら、彼等は決して幽霊じみては見えないだろう。現に、「モスクワ藝術座の巨匠たち」という記録映画の中で、故カチャーロフはどんな現存の役者よりも溌溂と「どん底」の男爵を演じていた。並みの映画の中では役者の死は欠落として感じられるが、彼等の舞台の記録は、生に捧げられた讃歌であり、生きた記念碑なのである。
深夜の「犯罪河岸」は、こちらの思惑とは全く無関係にどんどん進行して、ラストシーンになった。黒人の少年の肩を抱いたジュヴェの後姿が、雪の凍《い》てついた町の石畳の上を、例のゆっくりした足取りで遠ざかってゆく、その全景に字幕が白く浮び上る、と同時に画面は消えはじめた。私は首を伸ばして、Fという字の縦の棒にかくれたジュヴェの後姿を、横からのぞこうとしたが、極めて当然なことに、ジュヴェの姿は字幕に隠れたまま、消えた。
——一九六四年七月 雲——