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世界の指揮者04

时间: 2018-12-14    进入日语论坛
核心提示: 世界の管弦楽団をきいていると、ベルリン・フィルやヴィーン・フィルといったドイツ・オーストリア系の名門交響楽団では、コン
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  世界の管弦楽団をきいていると、ベルリン・フィルやヴィーン・フィルといったドイツ・オーストリア系の名門交響楽団では、コントラバス、それに金管木管の低音楽器の音に、ほかの楽団とくらべて、一段と幅と厚みのあることに気づくだろう。フランスの管弦楽団の木管の美しさ、アメリカの交響楽団のトランペットとか、弦楽器の音楽での目ざましいばかりの輝かしさ等々、話を簡単にするため、まずは、こういった誰の耳にも、一度きけばすぐ気がつく特徴を拾いながらいえば、ヴァルターの《音楽》は、まぎれもなく、ドイツ・オーストリアの管弦楽の響きを土台として築かれたものである。それによって養われ、またそれを追求したものである。
 その人がアメリカに行った。彼がどんな夢をアメリカに託したか、それがどこで満たされ、どこで破れたか? ことわっておくが、ここでは、私は音楽について、演奏について、いっているのである。
 ヴァルターのレコードをきいて、あまりにもバスの強調が耳につくので、私は、初め、これはレコードの録音技術、あるいはプロデューサーの好みででもあるかととまどったこともある。しかし、ヴァルターに関する限り、これはほぼどこでもきかれる。とすると、ヴァルターがそれを望んだと考えて、ほぼまちがいはなかろう。ヴァルターは、アメリカの管弦楽団を指揮する時、バスの重要性について特に注意をうながしたに相違ない。
 それが、私には、彼のアメリカに渡ってからのモーツァルトのレコードをきくうえで、耳ざわりになる時もある原因になる。先にあげたレコードには、ト短調のほかにハ長調の『ジュピター交響曲』が入っている。『ジュピター』のフィナーレは、対位法的に書かれている。ヴァルターのさばきに狂いはない。それにアンダンテでの、あの言語に絶して見事な主題と、それにおくれて来てからみつく対位線とのバランスも、黄金の均衡をつくりあげている。だが、そういう中で、何でもないピッツィカートやコル・レーニョのバスの音、つまり和音の根音となっているバスの音は、ときどき、あまりにも強調されすぎていて、音の織地全体の色彩に、ややうっとうしい曇りを与える。全体に、ヴァルターのモーツァルトは、優雅であると同じくらい明朗であり、柔和甘美であるに劣らず堅実な姿をしているのだが、響きそれ自体としては、何というか、カラッと晴れ上がった爽やかさとはやや趣がちがう。それが、私に、ときによると、少し物足りない思いを抱かせるもととなる。穏和であって、切れ味の鋭さにやや欠ける、とでもいうか。
 私は今思い出そうとして(私が彼を実演できいた時は、モーツァルトばかりの演奏会だったのだから)、どうしてもできず、はがゆい思いをしているのだが、彼はモーツァルトを演奏する時、管弦楽の編成を今日ある人びとがするようには、小さくしなかったような気がする(現在でも、たとえば、ベームは『ジュピター交響曲』を、大管弦楽をフルに用いて指揮する)。
 だとすれば、それはマーラー以来の伝統とどう結びつくのか?
 マーラー。これは、ヴァルターの耳と精神がモーツァルトできいたものと、どのくらいちがうべき音楽であったか? 私は、彼がヴィーン・フィルを指揮しキャサリン・フェリア、ユリウス・パツァークを独唱者とした『大地の歌』をきく。ここでは、あの異常に耳につくバスの強調は、ほとんどみとめられない。バスはもちろん強いが、それはいわば作品の自然に則して、強いのである(マーラーは「ハーモニーなどというものはない。音楽のすべては対位線の組合わせから織られたものだ」といった人である)。バスの独立性は、モーツァルトはもちろん、シューベルトやブラームスにくらべてもずっと強化されている。何しろ、彼の交響音楽では、コントラバスの声部はやたらと独立性をもって活躍することを強制される。実によい響きであり、音楽の全体も、申しぶんない。しかも、ここでも、局部局部で、表現の柔らかさがやや過度なのではないかという気が、忘れたころになると、また、思いださせるような恰好で舞いもどってきて、私の陶酔を破るのである(それにフェリアは、一世紀に何人とは出ないだろうようなすばらしい声と知性の歌手だが、ドイツ語の発音はよほど苦手だと見えて、きいていて、はっきりわかることはほとんどない。また、〈秋に孤独なもの〉の中では、der s殱se Duftをdas s殱se Duftと歌っている。くり返しきいたが、私にはそうとしかきこえない。名詞の性をまちがえるなどということは、私たち外国人には始終あることだが、ドイツ人にとってはさぞ聞きぐるしかろう。これを指揮していて、ヴァルターはどういう思いがしたことだろう? あるいは諦念《ていねん》をもって受容していたのだろうか)。それにしても、ヴァルターの指揮した『大地の歌』、ことにミルドレット・ミラーのメゾ・ソプラノによる終曲〈告別〉の演奏の美しさは、まったく二度とあるまいと思われるすばらしさだ。
 だが、マーラーの『第五交響曲』の第一楽章、あの葬送行進曲の途中で、音楽が突然変わるところ(ピーター出版のスコアの第二〇ページ。七という番号のあるところで、変ロ短調ののトゥッティがある)、マーラーが、「突如としてより速く。情熱的に。兇暴《きようぼう》に」と書きこんだところで、ヴァルターがあまりにも柔らかく、愛撫《あいぶ》するように演奏しているのをきくと、私はびっくりし、かつ、打たれる。もしかしたら、これはモーツァルトのほうをむきながら、涙の中で追憶されたマーラーなのかもしれない。
「音楽はどこまでも美しくなければならないのだから……」とモーツァルトは書いた。これは「真実をいうために破ってはならない美の法則などはない」といったベートーヴェンとは別の世界から生まれた言葉であり、その境界が、十八世紀の音楽を十九世紀のそれと隔てることになる。私はいずれまたこの対極について戻るつもりだが、今はヴァルターについて、彼の演奏は彼がこのモーツァルトの側に立つ人間だったことを示していると書いておく。ただこの人にとっては、美はすなわち真実であり善なのであり、だから彼は音楽を説く時、いつもそのエトスとしての力にふれさえすればよいことになるのだった。
 ヴァルターのマーラーは、あの神経質で爆発的な歓喜と絶望の交錯の中でさまようバーンスタインのそれとは、ひどくちがう。また、それは草いきれのむんむんするような野趣にみちたクーベリックのそれともちがい、洗練された都雅を失わない。同じ『第五交響曲』の第三楽章に出てくる三拍子がもの憂いレントラーではなくて、第二拍に重みのかけられたヴィーン・ワルツのリズムになっているのが、その最もわかりやすい証拠である。ユダヤ系の芸術家や知識人の中には、往々にして想像を絶するほどの洗練の高みに達した柔和と敏感をあわせもつ精神の持ち主がいるものである。ヴァルターはその一人だった。
 
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