では、どういうふうなのかということは、ちょっと書きにくいのだが、次のようにいったら、正しいかもしれない。
今度、彼のことを書くについて、私は何枚かのレコードをきいてみたりしたのだが、結論からいうと、レコードできけば、もちろん、いろんな点が細かく、精密にきけてくるわけだが、だからといって、かつて実際に彼をきいた時の印象が、全体として、力強く再び蘇《よみがえ》ってきて、ああ、そうだったっけ! という具合にはならないのである。
私は、クリュイタンスがベルリン・フィルを指揮したベートーヴェンの『第七交響曲』をきく。実に整った演奏である。だが、ちっともおもしろくない。それに、これは最後まで、きき終わらないうちにわかってきたことだが、この演奏の最大の弱点は、ダイナミックのうえでの変化、つまり強くなったり弱くなったりすることと、テンポのうえでの動き、つまり速くなったりおそくなったりすることとの間に、何のつながりもない点にあるのである。第一楽章の導入部から終楽章にいたるまで、ベートーヴェン特有の、主観的な強烈なクレッシェンド、ディミヌエンドの変化とか、爆発的なフォルテとまったく意外なピアノとの対比とか、そういったダイナミックのうえでの劇的な動きは正確に、明快に捉《とら》えられ、見事に音になって生きているのだが、テンポはまるで動かない。どの楽章をとってみても、基本の速さというものが、がっちり全楽章を支配している。はねまわるダイナミックの小悪魔どもを力強い巨人が、がっちり両足でふまえて、確固不抜の力強さで抑えつけている。というか——いや、同じ比喩《ひゆ》的にいうなら、こういったほうがよいかもしれない。汽車が遠くから近寄ってくるとする。当然、近づくにつれ、音が大きくなる。それにつれて、汽車の姿も、大きくなるわけだが、どういうわけか、私たちの目には、その汽車の動きがちっとも速くなるようには映じないのである。
第一楽章のあの展開部から再現部に入る時の、クレッシェンド、から、また長いクレッシェンドを経て、ピウ・フォルテにゆく個所でも、音楽のテンポは動かない。
第二楽章のアレグレットの最後が、少しも力まず、さっと終わるのは嫌味がなくて見事だが、しかし音楽の性格からいうと、あっけなくて拍子抜けする。
終楽章での第九二小節から一〇四小節にかけての(同じ個所は当然第三〇八小節から三一九小節にかけても出てくる)長い長いクレッシェンド・ポコ・ア・ポコからにいたる個所はもちろん、あのジョージ・セルでさえアッチェレランドしてきかせるこの『第七』のフィナーレのコーダでも、同じ確固不抜の動かないテンポが支配して、微塵《みじん》のゆるぎもない。
手短に本質だけを指摘すると、こうなるのである。
ただし、クリュイタンスの独特のところは、以上だけでいうと、まるでトスカニーニ流のイン・テンポのスタイル、あるいは冷たい即物的な様式のように思われるかもしれないが、そうではなくて、この不抜のテンポの持続性から一種の威圧感が生まれてくるのだ。重苦しさといっても、よいかもしれない。トスカニーニでは、表面には鋼鉄の意志が支配しているにもかかわらず、それに挑戦する強い表現的衝撃の突きあげがあり、この両者の矛盾と確執の間から生まれる緊張があった。それが彼の最上の演奏に、彼の亜流たちのそれとは比較を絶した強い輝きを与えた所以《ゆえん》なのだ。あれは、地中海的ラテン的古典芸術の厳しい緊張のもり上がりに支えられたものだった。
もしクリュイタンスのベートーヴェンを、古典的と呼ぶとすれば、それは動的であるよりも静的な様式のそれであろう。