たとえば、ベートーヴェンの『第九』。これはレコードのジャケットによると、トスカニーニが生涯にとった五回目の録音によるのだそうで、それまでの四回の録音はどれも彼が満足できなかったのに対し、これについては、老いたる巨匠が「これは五十年の間、くり返し研究し演奏したあげく、私が『第九』の中にようやくさぐりあてたものを最もよく現わした演奏だ。私はどうやら満足した」といったと書いてある。それは一九五二年の三月のことである。
たしかに、これは尋常一様のものではない。それは、ちょっときけば、すぐわかる。テンポといい何といい、ずいぶん変わったものである。だが、どうしてこうならなければならないのかを理解するのは容易ではない。少なくとも、私には。
全体が、たいていの人にくらべて速く、たとえば、スケルツォが速く、そのうえにトリオはもっと速い感じがする。周知のように、ここは古来論争の焦点になっていたところで、ベートーヴェン自身がつけたメトロノームは、モルト・ヴィヴァーチェのスケルツォで=一一六。これに対しトリオがプレストで=一一六になっているのである。「これはおかしい。作曲家は何か勘ちがいしたのではないか」という説もあるし、トリオをおそくひくのが、現代の慣行といっていいだろう。だが、トスカニーニでは逆である。その結果、さすがの粒揃《つぶぞろ》いの名手からなるNBC交響楽団でさえ、トリオのふしが完全に歌いきれてないという印象を与えるほどである。そういうところがあるかと思うと、終楽章の提示部、例のチェロとコントラバスとがレチタティーヴォを奏する個所では、テンポの伸び縮みの変化は著しく、あとでバリトンが歌う時よりも、もっとずっと表情的だといってもよいくらいだ。ところで、ここには、楽譜には「Selon le caractore d'un r残itative, mais in tempo」(レチタティーヴォの性格によって、しかしイン・テンポでひくように)という注が——少なくとも、私の手持のオイレンブルクのポケット・スコアには——書きこんである。これは誰が書いたものか? もし、作曲者自身の注だとすると、大変おもしろいことになる。というのは、ここで、ベートーヴェンのいうところの《イン・テンポ》というのは、何も各拍が、各小節が、すべて同じテンポという意味のイン・テンポではなく、レチタティーヴォ的に演奏はするのだが、全体としては、ペダンティックで杓子《しやくし》定規なテンポでやってくれることはないという意味にとることも可能なのだから。私は、トスカニーニがどう考えたかと、いろいろ頭をひねってみたのだが、とにかく、こういう個所でこそ、こんなに自在に、しかも実に雄弁なテンポで演奏している点に、トスカニーニ本来の面目を見るのである。ことに第一楽章の冒頭の引用を終え、そのあとヴィヴァーチェのスケルツォの頭を引用する前のレチタティーヴォ(譜例1)と、そのつぎの第三楽章の前のそれ(譜例2)などは「あのトスカニーニにこんな演奏が」とびっくりするほど自由なスタイルの演奏である。
この扱いの目ざましさは、あとで、レチタティーヴォがまたバリトンで出てくる時をきいてみると一層はっきりする。バリトンのテンポと表情はお話にならないくらい、単純で平べったいのである。問題は、では、このバリトン(ノーマン・スコット)が悪いからそうなのか? それともこれがトスカニーニの考えなのかという点にある。これは、私にはむずかしくて、よく解けない謎《なぞ》である。ただ、トスカニーニという人は、声楽家を扱っても、器楽奏者と同じくらい自分の考え通りにやらせる結果、たいていの人が気に入らなくなった、したがって、彼の使った人びとはだいたい彼の思った通り歌える人に限られてきていたというのが、当時から一般に伝えられていたところだし、それがまた真相であったろう。とすれば、バリトンの歌い方は、これで悪くはなかったのではないか——少なくともトスカニーニには——と考えるのが順序だろうと思う。とすれば、トスカニーニは、歌手よりも管弦楽によるレチタティーヴォのほうで、はるかに微妙な表現を行なうことを望んだのだ。
このことはまた、そのあとで、例の〈歓喜の主題〉が出る時にも、当然、同じような問題となって出てきそうなものだが、ここになると、器楽の時も声楽(つまりバリトンと合唱)で登場する時も、そこにたいした変化は認められない。ふしは、しごく、常識的な平明さで入ってくる。そこにはベートーヴェン畢生《ひつせい》の大傑作の、そのまた中心的旋律といったもったいぶった感じは一切ない。
これを、たとえば、フルトヴェングラーと比べてみるがよい。私のいうのは、日本ではたしかエンジェルレコードとして入っている、一九五一年バイロイトで彼が演奏した時の演奏のことだが、あすこでは、このふしはきこえるかきこえないか、本当に遠くからはるかに耳に入ってくる幻のような、魅惑的なものの姿のように、小さく、そうしておそくはじまり、まるでその歓喜の幻がだんだん身近に迫り、真実の響きとなってきこえてくるかのように、しだいに大きく、そうして速くなるというふうに扱われている。あれをきいた時の感銘というものは、私には忘れられない。『第九』のあのふしをきいて、胸がいっぱいになったのは、私はあとにもさきにも、あの時だけである。
トスカニーニは、そんなことはしない。