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世界の指揮者38

时间: 2018-12-14    进入日语论坛
核心提示: だからといって、今のレチタティーヴォの例にも見たように、何もトスカニーニに芝居気がなく、何も彼もイン・テンポでせかせか
(单词翻译:双击或拖选)
  だからといって、今のレチタティーヴォの例にも見たように、何もトスカニーニに芝居気がなく、何も彼もイン・テンポでせかせかとやってのけたというわけでは、全然ないのである。
『第五交響曲』——これもベートーヴェンのである——をきいてみるがよい。その第一楽章Allegro con brioでの第一主題に属する部分のいかにもブリオのきいた、壮烈で果敢な疾走と、第二主題に属する部分のひきずるような重い足どりの歩みとの対比は、劇的な点で、ほかのどんな指揮者にくらべても、一歩もひけをとらない。ここで特に、おもしろいのは、展開部からしだいに再現に入ってゆく少し前、小節で数えると一九六小節の二分音符だけの動きになってからの個所である(譜例3)。
 ここで第二〇〇小節ぐらいから押えつけるような響きに交換しながら、こころもちテンポもおとして、重い石を押しあげながら坂を上るとでもいった、いかにも苦しそうな歩みをつくりだす。その巧妙さ、というより、表現の切実さはいくら感嘆してもしきれないほどで、そこには全面的に真実なもののみのもつ荘重な説得性とでもいった力が具《そな》わっている。
 それにしても、この交響曲の全体を通じ、何という輝かしさ、光明の力強さが支配していることだろう。
 フルトヴェングラーの、もう初めの運命が戸を叩くモティーフからして、すでに怪獣が咆哮《ほうこう》しているみたいな、不気味で重苦しい緊張とは、正反対である。これはイギリスの一批評家のいった「トスカニーニ将軍のひきいる精鋭軍団の破竹の進撃」という形容がふさわしい。さっきのあの重い足どりは、その中でのいくつかのエピソードの一つにすぎない。ただ、そういうエピソードが、また、トスカニーニのような名将の統率の下では、すごく印象的に生起するのである。
 トスカニーニの『第五』は壮大な勝利の歌であり、凱旋《がいせん》の行進である、フルトヴェングラーのように闇黒《あんこく》の力との抗争というのではなくて。私は、フルトヴェングラーのをきくたびに、悲劇というよりも、暗い血と大地の重さを感じる。それはもうやりきれないほどだ。ことにフルトヴェングラーのすごいのは、第一楽章と同じくらい終楽章であって、比較的おそいテンポでひかれてきたフィナーレが、たいていの場合、長すぎるくらい長くて退屈なコーダに入って以後、最後の追い込みにいたるまで、何段にも区切られて、つぎつぎとテンポをガッ、ガッと上げてゆく。これはもうすさまじさの限りである。
 トスカニーニには、そんな血の呪《のろ》いみたいな暗さはない。
 そういう印象が生まれるのは、テンポだけでなく、フレージングに対するトスカニーニの並外れた正確さ、というより潔癖さが、また大いにものをいっているのである。
 同じベートーヴェンの『エロイカ』をとってみよう。第一楽章の第一主題(譜例4)。
 そのフレーズが、この演奏のように、はっきり示されている例は少ないのではないか? 御承知のように、この主題はりっぱな主題にはちがいないが、旋律としては、どうも息が短く、同じことをくり返すばかりで、おのずからな発展の生命があまりないようなところがある。その欠点は、トスカニーニできくと、いちいち、ていねいに切っているので、ますますはっきりしてくる。それというのも、彼はフレーズの最後の音をやや短かに切って、そうしてつぎのフレーズの頭との切れ目をいやがうえにもはっきりさせるからでもあるが、その結果、この楽章の演奏は、非常に力強く劇的である一方で、豪快味に乏しく、少しせかせかしてきこえてくる。甘酸っぱい感傷性に抵抗する、この乾燥した様式は、第二楽章でも本質的には変わらない(譜例5)。
 こういう個所での、楽譜への忠実は極点に達し、フレージングだけでなく、レガートとスタッカートとの区別、のからfにかけてのディミヌエンド、付点音符のリズム、どれも完璧《かんぺき》である。
 第二楽章が、しかし、どこをとっても正確で見事ではあっても、あまりに彫塑的で、悲しみは大理石の中にとじこめられてしまったかのようだったのに対し、それにつづく第三、第四楽章はすばらしい。このスケルツォのように、スタッカートのイン・テンポでダイナミックに一直線に前進する音楽は、トスカニーニの独壇場といってもよかろうし、これこそ、彼の真面目を遺憾なく発揮し、まったく新しい様式を樹立した彼の土台になるものといってよかろう。
 フィナーレもそうである。これはいわば、トスカニーニにかかるとfuriosoの音楽になってしまうが、しかし、そういうものとしては最上の質だろう。そうして、アレグロ・モルトの中での、ベートーヴェン一流のスビト・ピアノの扱いは、胸が透くような的確な効果を生みだす。まるで射撃の名人の腕前をみるような……。
 そういう点で、トスカニーニがこのベートーヴェンをひっさげて、ドイツやフランス、イギリスに登場した時の、その聴衆の驚愕《きようがく》は、私にも想像できる。この演奏には、今きいても、そういう衝撃を与える緊張力がたっぷり残っている。
 だが、『エロイカ』に関する限り、私は、このトスカニーニのよりも、先年日本にきたジョージ・セルがクリーヴランド・オーケストラを指揮してやった演奏が好きである。あれは、私のナマできいた最大の『エロイカ』であった。セルのは、流儀としては、トスカニーニからそう遠くない。それにもかかわらず、あすこには的確さと劇的緊迫力とのほかに、もう一つ深い情緒があった。特に第二楽章の終わり、第二一〇小節以後、一段とピアノになってからの演奏は静かで、しかも峻烈《しゆんれつ》だった。そうして、セルもまたフレージングの扱いは正確を極めていたのに、トスカニーニの場合のように、一つ一つのフレーズの最後が寸詰りにならず、滑らかにつぎにつながるのだった。
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