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世界の指揮者54

时间: 2018-12-14    进入日语论坛
核心提示: R・シュトラウスの指揮者としての作曲へのアプローチは、根本的に主知的なものだったろう。彼は、聴き手に、音楽作品の《形》
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  R・シュトラウスの指揮者としての作曲へのアプローチは、根本的に主知的なものだったろう。彼は、聴き手に、音楽作品の《形》、つまり構造と様式が、正確に、むだもなく、不充分でもなく、伝わるようにということを主眼として指揮をしたにちがいない。そうやってみても、作品の情緒として聴き手に伝わるべきものは、必要なだけはちゃんと伝わる。それを誇張するのは、単に余計な話であるだけでなく、むしろ作品を情感過多のものにゆがめてしまう。「ベートーヴェン自身はわが指揮者先生がたみたいに、のぼせ性じゃなかったのです〓」
 ところで、クラウスに帰ると、クラウスはR・シュトラウスのこういった態度から多くを学んだにはちがいないが、それだからといって、何も、指揮者クラウスがそのために指揮者シュトラウスに似た存在になったというわけでは、少しもないのである。
 クラウスは、シュトラウスとはまったくちがうタイプの音楽家だった。シュトラウスという人は人並みはずれた自分の能力について充分に自覚した力の意識に支えられた、そうして冴《さ》えきった知性に裏づけられた、自我中心の現実主義者だったろうが、クラウスは——初めにふれたように——教養が高く、また敏感で精緻《せいち》な感覚をもった人ではあったろうが、感情ということになると、シュトラウスのような噴出的な烈しさもなければ、強固な自信に裏づけられた力強さもない。弱くはなく、烈しくはあっても、むしろ、とかく外界に対して敏感に反応する、ゆれやすく、動きやすいタイプではなかったろうか?
 少なくとも、彼のレコードをきいていて、私は、そこに、感情の力強さ、純一さといったものは感じないのである。
 
 クラウスの特徴は、そういう点にあるのではない。貴族主義的とまではいいきれないが、もっと洗練されたものであり、力で押し切るやり方は、おそらくクラウスの内心ひそかに軽蔑《けいべつ》していたものではないかという気がする。
 
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