それにもかかわらず、今私たちの視界に入ってくるところで考えてみると、よそはともかく、このハンガリーとチェコスロヴァキアの両国出身の指揮者たちの間には、かなりの程度まで、はっきりした性格の分類ができるように見られるのである。
何しろ、この両国からは驚くほどの数の指揮者が輩出し、国際的に華々しく活躍している。ハンガリーからはじめると、フリッチャイ、ライナー、セルの三巨頭は亡くなったが、オーマンディとドラティは健在だし、何といっても、現在おそらく世界中で最大の売れっ子の筆頭に数えてもおかしくないだろうショルティがいるし、それに続いて若いところではイストヴァン・ケルテシュがいる。丹念に調べている人なら、もっといくつもの名をあげられるだろう。それから、チェコスロヴァキアに目を転じると、ここにも何人かがすぐ思い浮かぶ。ターリッヒは故人となったが、アンチェルル、ノイマン、スメターチェク、それから、早くから国外に出てしまったがラファエル・クーベリック。いや、セルはブダペスト生まれではあっても、両親はチェコ人ではなかったかしら?
ところで、こうして、かつては一つの国家の下にいた二つの民族——いや民族ということになると、おそらく以上にあげた名をおさめるには二つぐらいではすまなくなるのではなかろうか。やはり、国とよんでおこう——の出身者たちの間には、際立って対照的なものがあるように思われるのである。
もちろん、ショルティとセル、ケルテシュとオーマンディを一つにひっくくるのは大雑把《おおざつぱ》すぎる話だが、それでも、これらの名指揮者のさまざまの美徳と品質の間を縫って、一本の赤い糸のように共通するものが認められる。それを、技術の完璧《かんぺき》と合奏の正確、それからリズミックな要素の重視といったふうに定義づけることもできるだろうが、私はむしろ、その合奏の正確、リズムの生命的躍動の重視等々の底にあるもの、つまり理想とか目標とかに対する熱狂的で一切の妥協をうけつけない追求の烈しさに目を見張るのである。作曲家でいえばバルトークのあの殉教者といっても誇張でない純潔さ、燃えるような自主独立の精神が、これと同じ源泉から由来する。
それに比べ、つい隣りにあるチェコスロヴァキア出身の指揮者たちは、何とちがうことだろう! あちらの烈しさに対し、こちらには和やかさがあり、あちらのいまにもはりさけそうな緊張に対し、こちらには穏和と中庸がある。ここにあるのは殉教者であるよりも、むしろ寛大と柔軟を尊ぶ精神である。怒号よりむしろ寸鉄人を刺す諷刺《ふうし》をとる精神である。
こんなふうに書いてゆくと、いや、それは皮相な見方で、チェコスロヴァキア人の口もとに浮かべられた微笑は、その底に氷より冷たい機智の刃を隠しもっているのだといわれるだろう。それは、私も気づいたところだ。だが、少なくとも、この国の人びとは、烈しい感情の動きをナマの形で外界にぶつけるという行き方を、あまり評価しないように見えるのである。
そういう点が、この国の指揮者にも——一般化していえる限界の中での話だが、うかがわれはしないだろうか?