三重渦状紋
小池助手を見送ると、宗像博士は死体の上に屈んで、その手を調べた。小さな紙包を握っている。死んでもこれだけは手放すまいとするかの如く、固く固く握りしめている。博士は死人の指を一本一本引きはなして、やっとそれをもぎ取ることが出来た。
何か小さな板切れのようなものが、丁寧に幾重にも紙を巻いて、紐でくくってある。博士は隣りの実験室から、一枚のガラス板を持って来て、紙包をその上に乗せ、なるべくそれに手をふれないように、ナイフとピンセットを使って、紐を切り、紙を解いて行った。
博士も無言、それをじっと見つめている捜査係長も無言、ただ時々ナイフやピンセットがガラス板に触れて、カチカチと小さな音を立てるばかり、まるで、手術室のような薄気味悪い静けさであった。
「なあんだ、靴箆じゃありませんか」
中村係長が頓狂な声を出した。如何にも紙包の品物は、一枚の小型の象牙色をしたセルロイド製のありふれた靴箆である。
木島助手は気でも違ったのであろうか。封筒の中へ大切そうに白紙の束を入れていたかと思うと、今度は御丁寧な靴箆の紙包だ。一体こんなものに何の意味があるというのだろう。
しかし、博士は別に意外らしい様子もなく、さも大切そうに、その靴箆の端をソッと摘むと、窓からの光線にすかして見たが、その時分にはもう、窓の外に夕闇が迫っていて、十分調べることが出来なかったので、部屋の隅のスイッチを押して電燈をつけ、その光の下で、靴箆を入念に検査した。
「指紋ですか」
中村係長が、やっとそこへ気がついて訊ねた。
「そうです。しかし……」
博士は吸いつけられたように靴箆の表面に見入って、振り向こうともしないのである。
「外側の指紋は皆重なり合っていて、はっきりしないが、内側に一つだけ、非常に明瞭な奴がある。拇指の指紋らしい。オヤ、これは不思議だ。中村君、実に妙な指紋ですよ。僕はこんな不思議な指紋を見たことがない。まるでお化けだ。それとも僕の目がどうかしているのかしら」
「どれです」
中村氏が近づいて、博士の手元を覗き込んだ。
「ホラ、こいつですよ。すかしてごらんなさい。完全な指紋でしょう。別に重なり合ってはいない。しかし、ホラ、渦が三つもあるじゃありませんか」
「そういえば、なる程、妙な指紋らしいが、このままじゃ、よく見分けられませんね」
「拡大して見ましょう。こちらへ来て下さい」
博士は靴箆を持って、先に立って隣りの実験室へ入って行った。中村係長もそのあとにつづく。
十坪程の部屋である。一方の窓に面して大きな白木の化学実験台があり、その上に大小様々のガラス器具、顕微鏡などが置かれ、一方には夥しい瓶の並んだ薬品棚が立っている、化学実験室と調剤室とを一緒にしたような眺めだ。
又別の隅には、大型写真器、紫外線、赤外線、レントゲンの機械まで揃っている。それらの間に、黒い幻燈器械の箱が、頑丈な三脚にのせて置いてある。実物幻燈器械なのだ。これによって指紋は元より、あらゆる微細な品物を拡大して、スクリーン上に映し出すことが出来る。指紋は紙や板に捺されたものと限らない。ガラス瓶であろうが、ドアの把手であろうが、コップであろうが、ピストルであろうが、それらの実物の指紋の部分を、直ちに拡大して映写することが出来る。博士自慢の装置である。
中村捜査係長は、この部屋へは度々入ったことがあるのだが、入る度毎に、まるで警視庁の鑑識課をそのまま縮小したようだと感じないではいられなかった。イヤ、この部屋には鑑識課にもないような、宗像博士創案の奇妙な器械も少くはないのだ。
博士は先ず靴箆を実験台の上に置いて、指紋の部分に黒色粉末を塗り、隆線を黒く染めてから、窓の紐を引いて厚い黒繻子のカーテンを閉め、部屋を暗室にすると、幻燈内の電燈を点火し、靴箆を器械に挿入して、ピントを合せた。
忽ち部屋の一方の壁のスクリーン上に、巨大な指紋の幻燈が映し出された。五分にも足らぬ拇指の指紋が、三尺四方程に拡大され、指紋の隆線の一本一本が黒い紐のように渦巻いている。
博士も係長も、暗闇の中でじっとそれを見つめたまま、暫くは口を利くことさえ出来なかった。二人とも、指紋ではなくて、何かしらえたいの知れぬ化物に睨みつけられているような、不思議な気味悪さを感じたからだ。
アア、何という奇怪な指紋であろう。一箇の指紋に三つの渦巻があるのだ。大小二つの渦巻が上部に並び、その下に横に長い渦巻がある。じっと見ていると、異様な生きものの顔のように見えて来る。上部の二つの渦巻は怪物の目玉、その下の渦巻はニヤニヤと笑った口である。
「中村君、こんな指紋を見たことがありますか」
闇の中から、博士の低い声が訊ねた。
「ありませんね。僕も相当色々な指紋を見ていますが、こんな変な奴には出くわしたことがありません。指紋の分類では変態紋に属するのでしょうね。渦巻が二つ抱き合っているのは、たまに出くわしますが、渦巻が三つもあって、こんなお化みたいな顔をしている奴は、全く例がありません。三重渦状紋とでも云うのでしょうか」
「如何にも、三重渦状紋に違いない。これはもう隆線を数えるまでもありませんよ。一目で分る。広い世間に、こんな妙な指紋を持った人間は、二人とあるまいからね」
「拵えたものじゃないでしょうね」
「イヤ、拵えたものでは、こんなにうまく行きませんよ。この位に拡大して見れば、拵えものなれば、どこか不自然なところがあって、じき見破ることが出来るのですが、これには少しも不自然な点がない」
そして、闇の中の二人は、目と口のある巨大な指紋に圧迫されたかの如く、又黙り込んでしまった。
暫らくして、中村係長の声。
「それにしても、木島君は、この妙な指紋をどうして手に入れたのでしょう。この靴箆が犯人の持物とすれば、木島君は犯人に会っている訳ですね。直接犯人から掠めて来たものじゃないでしょうか」
「そうとしか考えられません」
「残念なことをしたなア。木島君さえ生きていてくれたら、易々と犯人を捉えることが出来たかも知れないのに」
「犯人はそれを恐れたから、先手を打って毒を呑ませ、その上、報告書まで抜き取ってしまったのです。実に抜け目のない奴だ。中村君、これは余程大物ですよ」
「あの強情な木島君が、恐ろしい恐ろしいと云いつづけていたそうですからね」
「そうです。木島君は、そんな弱音を吐くような男じゃなかった。それだけに、僕らは余程用心しなけりゃいけない。……川手の家は、あなたの方から手配がしてありますか」
博士は心配らしく、せかせかと訊ねた。
「イヤ、何もして居りません。今日までは川手の訴えを本気に受取っていなかったのです。しかし、こうなれば、捨てては置けません」
「すぐ手配をして下さい。木島君をこんな目に合せたからは、犯人の方でも事を急ぐに違いない。一刻を争う問題です」
「おっしゃるまでもありません。今からすぐ帰って手配をします。今夜は川手の家へ三人ばかり私服をやって、厳重に警戒させましょう」
「是非そうして下さい。僕も行くといいんだけれど、死骸を抛って置く訳に行きません。僕は明日の朝、川手氏を訪問して見ることにしましょう」
「じゃ、急ぎますから、これで」
中村係長は云い捨てて、あたふたと夕闇の街路へ駈け出して行った。
あとに残った宗像博士は、幻燈の始末をすると、指紋の靴箆をガラスの容器に入れて、鋼鉄製の書類入れの抽斗に納め、厳重に鍵をかけた。次の間には、部下の無残な死体が、元のままの姿で横たわっている。今に家族のものが駈けつけて来るであろう。又検事局から検視の一行も来るであろう。しかし、それを待つ間、このままの姿では可哀想だ。
博士は奥の部屋から一枚の白布を探し出して来て、黙祷しながら、それをフワリと死体の上に着せてやった。