黒眼鏡の男
三人は暫くの間言葉もなく茫然と顔見合せていた。死体をガラス箱に入れて、衆人の目に曝すという、余りにも奇怪な着想に、流石の犯罪専門家達もあっけにとられてしまったのだ。
「ごらんなさい。この死体には全身に化粧が施してある。唇なんかも念入りにルージュが塗ってある。蝋人形らしくするのに、こんな手数をかけたのですね」
中村係長が感に堪えたように口を切った。
如何にもそれは死体とは考えられぬ程艶めかしい色艶であった。犯人は死体化粧によって、そこに一つの芸術品を創造したのだ。彼が人なき部屋、ほの暗き燈火の下で、死体とたった二人のさし向い、ギラギラと目を光らせ、唇をなめずりながら、絵筆を執って、悪魔の美術品製作に余念のない有様が、まざまざと瞼の裏に浮かんで来るように感じられた。
博士も警部も、川手雪子の顔を知らなかったけれど、種々の事情を考え合せて、この艶めかしい死体こそ、捜索中の雪子さんであることは明かであった。何よりの証拠は、ガラス箱の表面に残されていた悪魔の指紋である。あの怪物の顔のように見える三重渦状紋である。こんな気違いめいた怪指紋を持った奴が、外にある筈はないからだ。
「恐ろしい犯罪だ。僕は永年犯罪を手がけて来たけれど、こんなのは初めてですよ。気違い沙汰だ。この犯人は復讐にこり固まって、精神に異状を来たしているとしか考えられませんね」
中村警部が沈痛な面持で呟いた。
「イヤ、気違いというよりも寧ろ天才です。邪悪の天才です。これほど効果的な復讐があるでしょうか。自分の娘が惨殺されたばかりか、その死体が、しかも裸体の死体が、展覧会に陳列されているのを見る父親の心持はどんなでしょう。こんなずば抜けた復讐が、並々の犯罪者なんかに思いつけるものじゃありません」
宗像博士は、犯人を讃美するような口調でさえあった。博士は今、この稀代の大悪人、絶好の敵手を見出して、武者震いを禁じ得ない体であった。鋭い両眼は、まだ見ぬ大敵への闘志に、爛々と輝き初めたかと見えた。
「ところで、この死体は雪子さんに違いないと思いますが、尚念のために川手氏にここへ来て貰ってはどうでしょうか。僕が電話をかけましょう。それから、僕としては直様検死の手続きをしなければなりません。それも一緒に電話をかけましょう」
中村警部はそう云って、係員に電話の所在を訊ねた。
「それと、もう一つ大切なことがあります。この死体を出品した人形製作者を取調べることです。事務所の帳簿を調べて、すぐそこへ人をやるのですね」
博士が注意すると、警部は肯いて、
「如何にもそうでした。よろしい。電話の序に刑事を呼んで、すぐ調査に着手させましょう」
と云い捨て、そそくさと階下の電話室へ降りて行った。
科学陳列館は、直ちに一般観衆の入場を禁止して、現場保存に力め、博士と捜査係長と数名の係員とが、ボソボソと小声に囁き交しながら待つうちに、やがて、真青になった川手氏が自家用車を飛ばして駈けつけたのを先頭に、警視庁捜査課、鑑識課の人々、裁判所の一行、所轄警察署の人々と次々に来着し、それにつづいて、耳の早い新聞記者の一団が、陳列館の玄関に押しかけるという騒ぎとなった。
川手氏は、死体を一目見ると、目をしばたたきながら、雪子さんに相違ないことを証言した。それから警察医の検死、鑑識課員の指紋検出、訊問と、取調べは型通りに進んで行ったが、雪子さんの死因が毒殺らしいこと、死後八九時間しか経過していないことなどが推定された外は、別段の発見もなかった。例の怪指紋は宗像博士が発見したものの外には一つも検出されなかった。
その取調べの最中、現場に立合っていた宗像博士のところに、惶しく一枚の名刺がとりつがれた。博士はそれをチラッと見ると、すぐさま傍らにいた中村捜査係長に囁いた。
「助手の小池君がやって来たのですよ。例のカフェ・アトランチスの件で至急に会いたいというのです。態々こんなところまで追っかけてくる程だから、恐らく何か大きな手掛りを掴んだのでしょう。別室を借りて報告を聞こうと思いますが、あなたも来ませんか」
「アトランチスというと、木島君が手紙を書いたカフェですね」
「そうです。あの手紙を白紙とすり換えた奴が分ったかも知れません」
「それは耳よりだ。是非僕も立合わせて下さい」
警部はそこにいた係員に耳打ちして、階下の応接室を借り受けることにし、小池助手をそこに通すように頼んだ。
二人が急いで応接室に入って行くと、背広姿の小池助手が、緊張に青ざめて待ちうけていた。
「先生、又大変なことが起ったらしいですね。……川手さんのお宅ではないかと思って、電話をかけますと、川手さんは先生に呼ばれてここへ来られたという返事でしょう。それで、先生のお出先がやっと分ったのです」
「ウン、突然ここへ来るようなことになったものだからね。事務所へ知らせて置く暇がなくて……ところで、用件は?」
博士が訊ねると、小池はグッと声を落して、
「犯人の風体が分ったのです」
と、得意らしく囁いた。
「ホウ、それは早かったね。で、どんな奴だね」
「昨夜あれからアトランチスへ行ったところが、ひどく客が込んでいて、ゆっくり話も出来なかったものですから、今日もう一度出掛けて見たのです。女給達がやっと目を覚ましたばかりのところへ飛び込んで行ったのです。
すると、丁度木島君のお馴染の女給が居合せて、昨日のことをよく覚えていてくれました。木島君は午後三時頃あのカフェへ行って、飲物も命じないで、用箋と封筒を借りて、しきりと何か書いていたそうです。それを書き終ると、ホッとしたように女給を呼んで、好きな洋酒を命じ、それから二十分ばかりいて、プイと出て行ってしまったというのです」
「それで、その時木島君の近くに、怪しい奴はいなかったのかね」
「いたのですよ。女給はよく覚えていて、その男の風采を教えてくれましたが、何でも年は三十五六位、小柄な華奢な男で、青白い顔に大きな黒眼鏡をかけていたといいます。髭はなかったそうです。服装は、黒っぽい背広で、カフェにいる間、まぶかに冠った鳥打帽を一度も脱がなかったといいます。
その男が、木島君が手紙を書き終った頃、隣の席へ移って来て、何だか慣れなれしく木島君に話しかけ、別にシェリー酒を命じて、木島君に勧めたりしていたそうです。恐らくそのシェリー酒の中へ毒薬を混ぜたのではないでしょうか」
「ウン、どうやらそいつが疑わしいね。しかし女給の漠然とした話だけでは、そのまま信じる訳にも行かぬが……」
「イヤ、女給の話だけじゃありません。僕は動かすことの出来ない証拠品を手に入れたのです」
「エッ、証拠品だって?」
博士も中村警部も、思わず膝を乗り出して、相手の顔を見つめた。
「そうです。ごらん下さい。このステッキです」
小池はそう云いながら、部屋の隅に立てかけてあった黒檀のステッキを持って来て、二人の前にさし出した。見れば、その握りの部分全体に、厚紙を丸くして被せてある。
「指紋だね」
「そうです。消えないように、十分用心して来ました」
丸めた厚紙をとると、下から銀の握りが現われて来た。
「ここです。ここをごらん下さい」
小池は握りの内側を指さしながら、ポケットから拡大鏡を取出して博士に渡した。博士はそれを受取って、示された部分に当てて見る。警部が無言で横からそれを覗き込む。
「オオ、三重渦状紋だ!」
木島助手が持帰った靴箆に残っていたのと、寸分違わぬお化けの顔が笑っていた。
「このステッキは?」
「その黒眼鏡の男が忘れて行ったのです」
「そいつはアトランチスの定連かね」
「イイエ、全く初めての客だったそうです。木島君が帰ると、間もなくそいつも店を出て行ったそうですが、今朝になっても、ステッキを取りに来ないということです。多分永久に取りに来ないかも知れません」
アア、小柄で華奢な黒眼鏡の男。そいつこそ稀代の復讐鬼なのだ。お化けのような三重渦巻の怪指紋を持った悪魔なのだ。
「とりあえず、それだけ御報告しようと思って。それから、このステッキを先生にお調べ願いたいと思いまして、急いでやって来たのです。もう風采が分ったからには、何としてでも、そいつの足取りを調べて見ます。そして、悪魔の巣窟を突きとめないで置くものですか。では、僕、これで失礼します」
「ウン、抜け目なくやってくれ給え」
博士に励まされて、若い小池助手はいそいそと陳列館を出て行った。
それから間もなく、死体陳列事件の取調べも終り、そこに集っていた人々は、それぞれ引取ることになったが、宗像博士は中村係長の承諾を得て、黒檀のステッキを研究室に持帰り、拡大鏡によって綿密な検査をしたけれど、ごくありふれた安物のステッキで、製造所のマークもなく、例の怪指紋の外にはこれという手掛りも得られなかった。
雪子さんの死体は直ちに大学に運ばれ、翌日解剖に附されたが、その結果をここに記して置くと、彼女の死因は、やはり毒物の嚥下によることが明かとなった。のみならず、丁度その前日、木島助手の死体も同じ場所で解剖されたのだが、その内臓から検出された毒物と、雪子さんのそれとが、全く同じ性質のものであったことも判明した。これによって、雪子さんと木島助手の殺害犯人が同一人であることは、一層明瞭になった訳である。
なお、雪子さんの死体を蝋人形として出品した人形工場については、中村係長自身その工場に出向いて、厳重に取り調べたところ、工場主は、そういう形のガラス箱はまったく覚えがない、恐らく何者かが工場の名を騙って納入したのであろうと主張した。そして、それには一々確かな拠り所があったので、係長もたちまち疑念をはらし、犯人の用意周到さに驚くばかりであった。
死体入りのガラス箱を陳列館に運び入れた運送店が調べられたことは云うまでもない。しかし、それも何等得る所なくして終った。やはりある運送店の名が騙られていた。それを受取った陳列館員の記憶によると、人夫は都合三人で、似たような汚らしい男であったが、中でも親分らしい送状に判を取って行った人夫は、左の目が悪いらしく、四角く畳んだガーゼに紐をつけて、そこに当てていたということであった。手掛りといえば、それが唯一の手掛りであった。