第三の餌食
最愛の雪子さんを失った川手氏の悲歎が、どれほど深いものであったかは、それから四日の後、雪子さんの葬儀の日に、あのよく肥っていた人が、げっそりと痩せて、半白の髪が、更に一層白さを増していたことによっても、十分察することが出来た。
盛んな通夜が二晩、今日は午前から邸内最後の読経と焼香が行われ、正午頃には雪子さんの骸を納めた金ピカの葬儀車が、川手家の門内に火葬場への出発を待ち構えていた。玄関前の広場を、モーニングや羽織袴の人々が右往左往する中に、宗像博士と小池助手の姿が見えた。雪子さんの保護を依頼されながらこのような結果となったお詫び心に、二人は親戚旧知に混って、火葬場まで見送りをするつもりなのだ。
小池助手はその後、例のアトランチスの奇怪な客の捜索をつづけていたが、今日までのところ、まだその行方をつきとめることは出来ないのだ。
宗像博士は、集っている人々に知合いもなく、手持不沙汰なままに、金ピカ葬儀車のすぐうしろに佇んで、見るともなくその観音開きの扉を眺めていたが、やがて、何を見つけたのか、博士の顔が俄かに緊張の色をたたえ、葬儀車の扉に顔を着けんばかりに接近して、その黒塗りの表面を凝視し始めた。
「小池君、この漆の表面にハッキリ一つの指紋が現われているんだよ。見たまえ、これだ。君はどう思うね」
博士が囁くと、小池助手は、指さされた箇所をまじまじと見ていたが、見る見るその顔色が変って行った。
「先生、なんだかあれらしいじゃありませんか。渦巻きが三つあるようですぜ」
「僕にもそう見えるんだ。一つ調べて見よう」
博士はモーニングの内ポケットから、常に身辺を離さぬ探偵七つ道具の革サックを取出し、その中の小型拡大鏡を開いて、扉の表面に当てた。
艶々とした黒漆の表面に薄白く淀んでいる指紋が五倍程に拡大されて、覗き込む二人の目の前に浮上った。
「やっぱりそうだ。靴箆のと全く同じです」
小池助手が思わず声高に呟いた。
アア、又してもあのえたいの知れぬお化けの顔が現われたのだ。復讐鬼の執念は、どこまでも離れようとはしないのだ。
「この会葬者の中に、あいつがまぎれ込んでいるんじゃないでしょうか。なんだか、すぐ身辺にあいつがいるような気がして仕方がありません」
小池助手はキョロキョロと、あたりの人群を見廻しながら、青ざめた顔で囁いた。
「そうかも知れない。だが、あいつがこの中に混っているとしても、僕等には迚も見分けられやしないよ。まさかあの目印になる黒眼鏡なんかかけてはいないだろうからね。それに、この指紋は、車がここへ来るまでに着いたと考える方が自然だ。そうだとすると、迚も調べはつきやしないよ。街路で信号待ちの停車をしている間に、自転車乗りの小僧が、うしろから手を触れることだって、度々あるだろうし、誰にも見とがめられぬように、ここへ指紋をつけることなど、訳はないんだからね」
「そう云えばそうですね。しかし、あいつ何の為に、こんなところへ指紋をつけたんでしょう。まさかもう一度死体を盗み出そうというんじゃないでしょうね」
「そんなことが出来るもんか。僕達がこうして見張っているじゃないか。そうじゃないよ。犯人の目的は、ただ僕への挑戦さ。僕が葬儀車の扉に目をつけるだろうと察して、僕に見せつける為に、指紋を捺して置いたのさ。なんて芝居気たっぷりな奴だろう」
宗像博士は事もなげに笑ったが、あとになって考えて見ると、犯人の真意は必ずしもそんな単純なものではなかった。この葬儀車の指紋は、同じ日の午後に起るべき、ある奇怪事の不気味な前兆を意味していたのであった。
それはさて置き、当日の葬儀は、極めて盛大に滞りなく行われて行った。葬儀車とそれに従う見送りの人々の十数台の自動車が、川手邸を出発したのが午後一時、電気炉による火葬、骨上げと順序よく運んで、午後三時には、雪子さんの御霊は、もう告別式会場のA斎場に安置されていた。
事業界に名を知られた川手氏のこと故、告別式参拝者の数も夥しく、予定の一時間では礼拝しきれない程の混雑であったが、斎場の内陣に整列して、参拝者達に挨拶を返している家族や親戚旧知の人々の中に、一際参拝者の注意を惹いたのは、最愛の妹に死別して涙も止めあえぬ川手妙子さんの可憐な姿であった。
妙子さんは故人とは一つ違いのお姉さん、川手氏にとって、今ではたった一人の愛嬢である。顔立ちも雪子さんにそっくりの美人、帽子から、靴下から、何から何まで黒一色の洋装で、ハンカチを目に当てながら、今にもくずおれんばかりの姿は、参拝者達の涙をそそらないではおかなかった。
予定の四時を過ぎる三十分、やっと参拝者が途切れたので、愈々引上げようと、人々がざわめき始めた頃、妙子さんも歩き出そうとして一歩前に進んだとき、悲しみに心も乱れていたためか、ヨロヨロとよろめいたかと思うと、バッタリそこへ倒れてしまった。
それを見ると、人々は彼女が脳貧血を起したものと思い込み、我先に側へ駈け寄って、介抱しようとしたが、妙子さんは、傍らにいた親戚の婦人に抱き起され、そのまま自動車に連れ込まれて、別段の事もなく自宅に帰ることができた。
自宅に帰ると、彼女は何よりも独りきりになって、思う存分泣きたいと思ったので、挨拶もそこそこに、自分の部屋に駈け込んだが、そこに備えてある大きな化粧鏡の前を通りかかる時、ふと我が姿を見ると、右の頬に黒い煤のようなものが着いているのに気づいた。
「アラ、こんな顔で、あたし、あの多勢の方に御挨拶していたのかしら」
と思うと、俄かに恥かしく、そんな際ながら、つい鏡の前に腰かけて見ないではいられなかった。
鏡に顔を近寄せて、よく見ると、それはただの汚れではなくて、何か人の指の痕らしく、細かい指紋が、まるで黒いインキで印刷でもしたように、クッキリと浮き上っていた。
「マア、こんなにハッキリと指の痕がつくなんて、妙だわ」
と思いながら、つくづくその指紋を眺め入っている内に、妙子さんの顔は、見る見る青ざめて行った。唇からは全く血の気が失せ、二重瞼の両眼が、飛び出すのではないかと見開かれた。そして「アアア……」という、訳の分らぬ甲高い悲鳴を上げたかと思うと、彼女はそのまま、椅子からくずれ落ちて、絨毯の上に倒れ伏してしまった。
その指紋には、三つの渦がお化けのように笑っていたのである。復讐鬼の恐るべき三重渦状紋は、遂に人の顔にまで、そのいやらしい呪いの紋を現わしたのである。
妙子さんの部屋からの、ただならぬ叫び声に、人々が駈けつけて見ると、彼女は気を失って倒れていた。そして、その頬には、まだ拭われもせず、悪魔の紋章がまざまざと浮上っていたのである。
だが、騒ぎはそればかりではなかった。丁度その頃、父の川手氏は、まだ居残っている旧知の人達と、客間で話をしていたのだが、シガレット・ケースを出そうとして、モーニングの内ポケットに手を入れると、そこに全く記憶のない封筒が入っていた。
オヤッと思って、取出して見ると、どうやら見覚えのある安封筒、封はしてあるが、表には宛名も何もない。それを見たばかりで、もう川手氏の顔色は変っていた。しかし中には手紙が入っているらしい様子、恐ろしいからと云って、見ない訳には行かぬ。
思い切って封を開けば、案の定、いつもの用紙、態と下手に書いたらしい鉛筆の筆蹟。あいつだ。あいつがまだ執念深くつき纒っているのだ。文面には左のような恐ろしい文句が認めてあった。
川手君、どうだね。復讐者の腕前思い知ったかね。だが、本当の復讐はまだこれからだぜ。序幕が開いたばかりさ。ところで二幕目だがね、それももう舞台監督の準備はすっかり整っている。さて、二幕目は姉娘の番だ。はっきり期日を通告して置こう。本月四日の夜だ。その夜、姉娘は妹娘と同じ目に遭うのだ。今度の背景はすばらしいぜ。指折り数えて待っているがいい。
それが済むと三幕目だ。三幕目の主役を知っているかね。云うまでもない、君自身さ。真打ちの出番は最後に極っているじゃないか。
復讐者より
この二つの椿事が重なり合って、川手邸は葬儀の夕べとも思われぬ、一方ならぬ騒ぎとなった。
妙子さんは、人々の介抱によって、間もなく意識を取戻したけれど、感情の激動のために発熱して、医師を呼ばなければならなかったし、それに引続いて、葬儀から帰ったばかりの宗像博士が、川手氏の急報を受けて再び駈けつける、警視庁からは中村捜査係長がやって来る。それから川手氏と三人鼎座して、善後策の密議に耽るという騒ぎであった。
犯人は恐らくA斎場の式場にまぎれ込んでいたものに違いない。そして、一方では妙子さんの頬に怪指紋の烙印を捺し、一方では川手氏に接近して、その内ポケットに、掏摸のような手早さで、あの封筒を辷り込ませたものに違いない。
しかし、妙子さんの頬に指型を押しつけるなんて、いくら何でも普通の場合にできる業ではない。これはきっと、告別式が終って、妙子さんが倒れた時のどさくさまぎれに、素早く行われたものであろう。すると、その時、場内に居合せたものは、川手氏の親戚旧知の限られた人々のみではなかったか。
中村警部はそこへ気がつくと、川手氏の記憶や名簿をたよりに、忽ち四十何人の人名表を作り上げ、部下に命じて、その一人一人を訪問し、指紋を取らせることに成功した。それには主人の川手氏は勿論、同家の召使達は漏れなく入っていたし、宗像博士や小池助手の指紋まで集めたのであったが、その中には、三重渦状紋など一つもないことが確められた。
一方カフェ・アトランチスに現われた怪人物については、引きつづき宗像研究室の手で捜査が行われていたが、最初小池助手が探り出した事実の外には、何の手掛りも発見されぬままに、一日一日と日がたって行った。