魔術師
そして、間もなく、復讐鬼のいわゆる第二幕目の幕開きの日がやって来た。四日の夜がすぐ目の前に近づいて来た。
川手氏の邸宅は、妖雲に包まれたように、不気味な静寂に閉されていた。妙子さんはあれ以来ベッドについたきりで、日夜底知れぬ恐怖に打震えていたし、川手氏も一切の交際を絶って、妙子さんを慰めることと、仏間にこもって、なき雪子さんの冥福を祈ることにかかり果てていた。
さて、当日の四日には、予め川手氏の依頼もあって、同邸の内外には、十二分の警戒陣が敷かれた。
先ず警視庁からは六名の私服刑事が派遣され、川手邸の表門と裏門と塀外とを固めることになったし、邸内妙子さんの部屋の外には、宗像博士自ら、小池助手を引きつれて、徹宵見張りを続けることにした。
妙子さんの部屋は、屋敷の奥まった箇所にあり、二つの窓が庭に面して開いている外には、たった一つの出入口しかなかった。博士はそのドアの外の廊下に安楽椅子を据えて夜を明かし、小池助手は二つの窓の外の庭に椅子を置いて、この方面からの侵入者を防ぐという手筈であった。
早い夕食を済ませて、一同部署についたが、川手氏はそれでもまだ安心しきれぬ体で、妙子さんの部屋に入ったり出たりしながら、廊下の宗像博士の前を通りかかる度に、何かと不安らしく話しかけた。
博士は笑いながら、妙子さんの安全を保証するのであった。
「御主人、決して御心配には及びませんよ。お嬢さんは、謂わば二重の鉄の箱に包まれているのも同然ですからね。お邸のまわりには事に慣れた六人の刑事が見張っています。その目をごまかして、ここまで入って来るなんて殆んど不可能なことですよ。若し仮りにあいつが邸内に入り得たとしてもですね、ここに第二の関門があります。たった一つのドアの外には、こうして僕が頑張っていますし、窓の外には、小池君が見張りをしている。しかも窓は全部内側から掛金がかけてあるのです。このドアもそのうち僕が鍵をかけてしまう積りですよ」
「併し、若し隠れた通路があるとすれば……」
川手氏の猜疑は果てしがないのである。
「イヤ、そんなものはありやしません。さい前僕と小池君とで、お嬢さんの部屋を隅から隅まで調べましたが、壁にも天井にも床板にも、少しの異状もなかったのです。ここはあなたのお建てになった家じゃありませんか。抜穴なんかあってたまるものですか」
「アア、それも調べて下すったのですか。流石に抜目がありませんね。イヤ、あなたのお話を聞いて、いくらか気分が落ちつきましたよ。しかし、わたしは、今夜だけはどうしても娘の傍を離れる気になれません。この部屋の長椅子で夜を明かす積りです」
「それはいいお考えです。そうなされば、お嬢さんには三重の守りがつく訳ですからね。あなたがこの部屋の中にいて下されば、僕達も一層心丈夫ですよ」
そこで川手氏は、そのまま妙子さんの部屋に入って、寝室につづく控えの間の長椅子に腰をおろし、暫くの間は、ドアを開いたままにして博士と話し合っていたが、この際会話のはずむ筈もなく、やがて、川手氏は長椅子の上に横になったまま黙りこんでしまったので、博士は預って置いた鍵を取出して、ドアに締りをした。
夜が更けるに従って、邸内は墓場のように静まり返って行った。町の騒音ももう聞えては来なかった。女中達も寝静まった様子である。
宗像博士は、強い葉巻煙草をふかしながら、安楽椅子に沈み込んで、ギロギロと、鋭い目を光らしていた。庭では小池助手が、これも煙草を吸いつつ、椅子にかけたり、椅子の前を歩哨のように行きつ戻りつしたり、睡気を追っぱらうのに一生懸命であった。
十二時、一時、二時、三時、長い長い夜が更けて、そして、夜が明けて行った。
午前五時、廊下の窓に清々しい朝の光がさしはじめると、宗像博士は安楽椅子からヌッと立上って、大きな伸びをした。とうとう何事もなかったらしい。流石の復讐鬼も、二重三重の警戒陣に辟易して、第二幕目の開幕を延期したものらしい。
博士はドアに近づくと、軽くノックしながら川手氏に声をかけた。
「もう夜が明けましたよ。とうとう奴は来なかったじゃありませんか」
返事がないので、今度は少し強くノックして、川手氏を呼んだ。それでも返事がない。
「おかしいぞ」
博士は冗談のように呟きながら、手早く鍵を取出し、それでドアを開けて、室内に入って行った。
すると、アアこれはどうしたというのだ。川手氏は長椅子に横たわったまま、身体中をグルグル巻きにされて、固く長椅子に縛りつけられていた。その上、口には厳重な猿轡だ。
博士はいきなり飛びついて行って、先ず猿轡をはずし、川手氏の身体をゆすぶりながら叫んだ。
「ど、どうしたんです。いつの間に、誰が、こんな目に合せたのです。そして、お嬢さんは?」
川手氏は絶望の余り、物を云う力もなかった。ただ目で次の間をさし示すばかりだ。
博士はその方を振り返った。間のドアが開いたままになっているので、妙子さんのベッドがよく見える。だが、そのベッドの上には、誰も寝てはいないのだ。
博士は寝室へ駈け込んで行った。余程慌てていたと見え、大きな音を立てて椅子の倒れるのが聞えた。
「お嬢さん、お嬢さん…………」
だが、いない人が答える筈はない。寝室は全くの空っぽだったのである。
博士は青ざめた顔で再び控えの間に戻って来た。そして手早く川手氏の縛めを解くと、
「一体これはどうしたというのです」
と叱責するように訊ねた。
「何が何だか少しも分りません。ウトウトと眠ったかとおもうと、突然息苦しくなったのです。あれが麻酔剤だったのでしょう。口と鼻の上を何かで圧えつけられているなと思ううちに、気が遠くなってしまいました。それからあとは何も知りません。妙子は? 妙子は攫われてしまったのですか」
川手氏は無論それを知っていた。だが、聞かずにはいられないのだ。
「申訳ありません。しかし、僕の持場には少しも異状はなかったのです。あいつは窓から入ったのかも知れません」
博士は云い捨てて、窓のところへ飛んで行くと、サッとカーテンを開き、掛金をはずして、すりガラスの戸を上に押し上げ、庭を覗いた。
「小池君、小池君」
「ハア、お早うございます」
何としたことだ。小池助手は別状もなく、そこにいたのである。そして何も知らぬらしく、間の抜けた挨拶をしたのである。
「君は眠りやしなかったか」
「イイエ、一睡も」
「それで、何も見なかったのか」
「何もって、何をですか」
「馬鹿ッ、妙子さんが攫われてしまったんだ」
博士はとうとう癇癪玉を破裂させた。
だが、よく考えて見ると、小池助手に落度のある筈はなかった。彼が犯人を見逃したのではない証拠には、窓は二つとも、ちゃんと内側から掛金がかけられ、少しの異状もなかったからである。
とすると、あいつは一体全体、どこから入って、どこから出て行ったのであろう。室内に抜け穴なんかないことは十分調べて確めてある。ドアには外から鍵がかかっていた。窓の締りにも別条はない。アア、愈々お化けだ。お化けか幽霊ででもない限り、密閉された部屋に忍び込んだり、抜け出したり出来る筈がないではないか。
しかし、幽霊が麻酔薬を嗅がしたり、人を縛ったりするものであろうか。イヤ、それよりも、曲者自身は幽霊のように一分か二分の隙間から抜け出たとしても、妙子さんをどうして運び出すことが出来たのだ。妙子さんは血の通った人間だ、隙間などから抜け出せるものではない。
流石の名探偵宗像博士も、これには全く途方に暮れてしまった様子であった。だが、徒らに途方に暮れている場合ではない。あらん限りの智恵を絞って、このお化じみた謎を解かなければならぬ。
博士はふと思いついたように、慌しく女中を呼んで、玄関と門とを開かせると、気違いのように門の外へ飛び出して行った。云うまでもなく、外部を固めている六人の刑事に、昨夜の様子を訊ねるためだ。
だが、その結果判明したのは、表門にも裏門にも、その外邸を取りまく高塀のどの部分にも、全く何の異状もなかったということである。彼等は異口同音に、外からも内からも、門や塀を越えたものは決してなかったと確信に満ちて答えたのであった。