運転台の怪物
小林君と広田青年が、地下室で、こんな話をしていたころ、一方、高橋さんのおうちの玄関に、ひとりの紳士が、おとずれていました。もうひとりの書生の青木が、とりつぎに出ますと、
「ぼくは明智小五郎です。おつかいがあったので、おじゃましました。」
というのでした。青木が、奥へそれをつたえますと、主人の高橋さんは、大よろこびで、明智となのる紳士を応接室にとおしました。
「やあ、よくおいでくださいました。新聞などの写真で、お顔はよく知っています。つかいのものからおききくださったでしょうが、わたしの次男の小学校四年生の子どもが、カブトムシにねらわれているのです。先生のお知恵で、なんとか、子どもを助けていただきたいと思いまして。」
「それは、うかがいました。ぼくのところへ、つかいにみえた書生さんは、もう帰っているのでしょうね。ちょっと、ここへよんでくれませんか。」
明智探偵は、ソファーにゆったりともたれて、タバコに火をつけながら、いうのでした。
「いいえ、書生の広田は、まだ帰りません。先生といっしょじゃなかったのですか。」
「いや、書生さんは、ぼくが、じきにおうかがいするというと、よろこんで、いそいで帰ったのです。自動車で帰るといっていましたから、まだつかぬというのは、へんですね。」
高橋さんは、書生の青木をよんで、広田をさがさせましたが、どこにもいないことがわかりました。
「へんだなあ。まさか、こんなさいに、より道なんかしているはずはないが。先生よりも、よほどまえに、おたくを出たのですか。」
「そうですね。ぼくよりも三十分ほどまえにです。電車にのったとしても、とっくに、ついているはずです。これは、ひょっとしたら……。」
「え、なんとおっしゃるのです?」
「カブトムシの怪物団のために、さらわれたのかもしれませんよ。大カブトムシが、賢二君の部屋へしのびこむのを、さいしょに発見して、さわぎたてたのは広田君でしたね。そのふくしゅうかもしれませんよ。」
あのがんじょうな広田が、くもなく、さらわれたとすると、かよわい賢二少年など、いつさらわれるかしれたものではありません。高橋さんは、もう心配でたまらなくなってきました。
「先生、広田がさらわれたとすると、いよいよ、すててはおけません。賢二をたすけてください。なんとか、うまい方法はないでしょうか。」
「そうですね。ともかく、賢二君を、ここへよんでみてくれませんか。」
高橋さんは、また書生の青木をよんで、賢二君を応接室へ、つれてこさせました。
「やあ、きみが賢二君ですか。おじさんが来たから、もうだいじょうぶですよ。さあ、もっとこちらへいらっしゃい。」
明智はニコニコしながら、賢二少年をまねいて、その肩へ手をかけました。しかし、手をかけたかとおもうと、探偵は、はっとしたように、きびしい顔になりました。
「賢二君、ちょっと、そちらを、むいてごらんなさい。きみの背中に、なんだか、はっている。」
賢二少年が、きみわるそうにして、うしろをむくと、その学生服の背中に、黒い大きな虫が、モゾモゾと、うごめいていました。
「あっ、ドクロのもようだ。」
書生の青木が、とんきょうな声をたてました。それはドクロもようの、一ぴきのカブトムシだったのです。
明智が、サッと手ではらうと、カタンという音をたてて、妖虫は、床に落ち、あおむけになって、ぶきみな足をモガモガやっていましたが、そのうちに、クルッと、ひっくりかえって、そのまま、部屋のすみのほうへ、かけだしていくのでした。
賢二少年はもちろん、おとうさんの高橋さんも、顔色をかえていました。
「まえぶれだ。あいつが、やってくるというまえぶれだ。明智さん、もうぐずぐずしてはいられません。はやく、なんとかしなければ……。」
高橋さんは、いまにも、あのおそろしい大カブトムシが、窓からしのびこんでくるのではないかと、うしろを見ながら、おびえたように、いうのでした。
「広田君が、帰ってこないことといい、いまのカブトムシといい、どうも、このまますててはおけませんね。」
明智はそういって、しばらく考えていましたが、
「高橋さん、東京都内に、ごしんせきがあるでしょう。いちじ、賢二君を、しんせきにでも、おあずけになっては、どうでしょうか。さいわい、ぼくの自動車がおもてに待たせてありますから、あなたと賢二君とが、人目につかぬように、いそいで、それにのりこむのです。ぼくも、いっしょにのります。そして、あなたのさしずなさるところへ、車を走らせるのです。」
高橋さんは、賢二君を、ここのうちにおくのも心配だし、といって、外へつれだすのも、なんとなく、気味がわるいとおもいましたが、こういうことには、なれている名探偵が、くりかえしすすめるので、ついその気になりました。そこで、高橋さんは、奥さん(賢二君のおかあさん)とも、相談したうえ、賢二君を、下谷のしんせきにあずける決心をしたのです。
書生の青木に見はらせておいて、高橋さんと賢二君と明智探偵は、すばやくおもての自動車にのりこみました。高橋さんが、小声で、行くさきをいいますと、自動車はすぐに走りだしました。
高橋さんは、自動車のうしろの窓から、しばらく、町をながめていましたが、だれも、あとをつけてくるようすはありません。あとから、走ってくる自動車もありません。このぶんなら、まず安心だと、そっと、胸をなでおろすのでした。
しばらくすると、高橋さんは、タバコが吸いたくなりました。和服の両方のたもとをさがしましたが、たしかに入れておいたはずのピースの箱がありません。賢二君を、まんなかにはさんで、むこうのはしに、こしかけていた明智探偵が、そのようすに気づいて声をかけました。
「高橋さん、タバコならここにあります。さあ、ごえんりょなく。」
それは西洋の葉巻きタバコでした。高橋さんはタバコずきで、ことに葉巻きは大好物でしたから、それをうけとって、火をつけると、スパスパとやりはじめました。
「いかがですか、その味は? ぼくはタバコだけは、ぜいたくをしているのですよ。」
「いや、けっこうです。ひさしぶりに、うまいタバコを吸いました。ありがとう。」
走る自動車の中には、むらさきの煙が、もやのように、ただよい、葉巻きのさきが、だんだん白い灰になっていきました。
それから五分ほど自動車が走ったころ、高橋さんの口から、半分ほどになった葉巻きが、ポロッと、座席の床に落ちました。となりの賢二君が、びっくりして、おとうさんの顔を見ますと、おとうさんは、うしろのクッションに頭をグッタリとよせかけて、かすかに、いびきをたてて、眠っているのでした。
「おとうさん、おとうさん。」
賢二君が、いくらゆり起こしても、目をさますようすがありません。なんだか変です。こんな場合に眠ってしまうなんて、日ごろのおとうさんらしくもありません。
「賢二君、いくらよんだって、おとうさんは、起きやしないよ。」
明智探偵が、いままでとは、ちがった、らんぼうなことばでいいました。
「なぜです。なぜ起きないのです。」
賢二君は、なんだかギョッとして、ききかえしました。
「葉巻きをのんだからさ。あの葉巻きにはね、麻酔薬が、しこんであったのだよ。ハハハハハ。」
「だれです? おじさんは、だれです?」
賢二君は、むちゅうになって、さけびました。
「わからんかね。賢二君、ほら、ちょっと、前を見てごらん。」
ぶきみな声に、おもわず、まえの運転席を見ました。
「あっ……。」
賢二君は、おそろしいさけび声をたてたかとおもうと、いきなり、眠っているおとうさんにしがみついて、そのひざに、顔をかくしてしまいました。
運転席には、なにがいたのでしょう。いままで人間だとばかりおもっていた運転手が、いつのまにかおそろしい姿に、かわっていたのです。
そいつには、おそろしく長いツノがありました。まっ黒な背中には、大きながい骨の顔が、こちらを、にらみつけていました。ああ、この自動車は、あのおそろしい妖虫が運転していたのです。
そいつが、長いツノをふりたてて、グッと、こちらへ、ふりむきました。おさらほどもある、大きな二つの目が、怪光をはなって、賢二君を、じっと、みつめました。