九月も中旬になると、兵庫発電所の事故や海底油槽問題が飛び込んできたため、予定より十日間ほど遅れた「油減調査」も、ようやく最終の山場にさしかかっていた。小宮幸治が東京・青山にある須山家を訪れたのは、そんな頃の日曜日であった。
小宮幸治と須山寿佐美との交際は、断続的ではあったが、すでに五ヵ月以上にもなっている。当然、小宮としては�結婚�問題の決断を迫られていた。だが小宮は、その決断の前に寿佐美の父親、須山源右衛門には会って見たかった。わずかの期間に数百億円もの巨富を得たといわれる不動産屋は、小宮にとっては想像を絶する「怪物」だったからだ。
須山一家は自己所有のビルの最上階に住んでいる。住居としては変わった場所だが、そのビルの中に須山源右衛門の持ついくつかの会社の本社があるのだから便利には違いない。
ビルの脇にある通用門をくぐると、小さなエレベーターが最上階の「社長邸」に通じている。それは場違いなほどに薄汚れていて、ガタガタと音をたてて揺れた。だが、その薄よごれた小さなエレベーターが次にドアを開いた所には、純白の大理石で固められた須山家の玄関先があった。
呼鈴を押すと、飾り金具のついたドアが開いて、寿佐美が顔をのぞかせた。
「今日はあんまり遅刻しなかったわね」
寿佐美はいたずらっぽい目で笑った。
ドアを入ったところに、同じ白大理石貼りのホールがあり、正面には寄木細工の床が広がっている。その向こうの、広いガラス壁越しに、四十坪ほどの庭が見えた。この屋上庭園をコの字型に囲んで、部屋が連なっていた。
「ようおいで下さいました。いつも寿佐美がえろうお世話になっておりまして」
小柄な中年の女が、頭を下げた。黒っぽい和服に薄茶色の帯を胸高に結んだ粋な着付けや、派手な化粧に、水商売上がりの女性特有のムードが漂っている。寿佐美の継母であることはすぐわかった。
通されたのは、玄関ホールから左に入った二十帖ほどの部屋だった。南側には庭が、そして東側の大きな窓からは赤坂のビル街が望める。白と黒を基調とした部屋の造りは、和風の庭園にも、無機質なビル街の景色にも、よく調和していた。
「これ、寿佐美がデザインしましたんで。なんでも北欧風とかドイツ風とかに和風のセンスを入れたんやと申してますけど、どんなもんやら」
そういって継母は笑った。口許に当てた左手の指に、五、六カラットもありそうなダイヤが光った。
寿佐美は、料理とブランデーをテーブルに並べていた。
父親の源右衛門は日曜の今日も朝から出かけていた。彼の帰りを待って、三人はレコードを鳴らしたり、美術本を見たりして時間を過ごした。
須山源右衛門が帰ってきたのは、八時近くになってからだった。
「やあ、小宮はん、よう来とくなはったなあ」
派手なスポーツシャツにダブダブのズボンを着けた源右衛門は、大黒天のような顔に人懐っこい笑いを浮かべた。
「今日はゴルフですか」
「ゴルフ……。あんなもん、わしゃしまへんわ。他人の土地歩き回って何がおもしろおますねん。今日は土地見に行って来ましてん、買う土地だす」
源右衛門は哄笑した。
「小宮はん、あんたら頭がええよって、よう研究したはるやろけど、どうだす、これからまた土地上がりますやろ。なにしろこの好景気や、もっぺん、土地に来るん違いまっか」
「はあ……」
小宮は答えに窮し、息のもれたような声を出した。
寸尺の土地も持たず、また持てそうにもない小宮に、不動産屋のコンサルタントは全く不向きな役回りだ。
「いややわお父さん、いきなりそんなこと聞いて」
寿佐美が関西弁で助け舟を出した。
「いやこらどうも失礼」
源右衛門ははげ頭をなでて、楽しそうに笑った。
「この家、百五十三・四坪だったけどな、これ貸事務所にしたら、月八十万は取れまっしゃろな」
源右衛門はそんなこともいった。
源右衛門の語るところでは、彼の生家は大阪府のはずれ、南河内の田舎であった。祖父は村の有力者だったが、その後没落し彼の少年時代は貧しかった。それでも彼は、商業学校卒業後、夜間大学にも通った。その後、短い軍隊生活を経て、商事会社や証券会社に勤め、やがて不動産業界に入り、独立した、という。
「わしゃいつも一生懸命やりましたけど、四十五までは何してもあきまへなんだ。これを……」
源右衛門は太い指で寿佐美を指さした。
「これを無理して有名校に入れたもんやから、中学の時にはクラスで一番貧乏や、といわれましてな」
彼は、遠い苦闘時代を懐しむような目つきをした。
「そやけどあきらめしまへなんだ。それがよかったんですわ。人間誰でも一生に一回か二回、運は来ま。それを把《つか》めるかどうかは、努力と勇気だ。ただ運ちゅう奴はいつ来るかわからん。大抵の人は一回か二回、運がつかなんだらもうあきらめる、それであかんのですわ」
須山源右衛門は、多くの成功者がそうであるように、楽天的であり、かつ努力と実力の信奉者であった。小宮は源右衛門の話に引き込まれ、この男に魅力を感じだした。それは、小宮の知らなかった男っぽい生き方であった。おそらくそれは、初期の資本主義が理想とした人間像に違いない、と小宮は思った。