「ホルムス海峡封鎖解除」
「中東大戦終結へ」
この見出しが、各新聞のトップを飾ったのは、小宮幸治が東京へ戻ってから八日目の、六月二十九日だった。ホルムス海峡の封鎖は百九十八日間で終わったわけだ。それは、鬼登沙和子の予測の前提よりも二日間だけ短かった。
七ヵ月間にわたる戦闘で、交戦諸国の受けた被害は、もちろん小さくなかった。国家間の戦闘と各地の内乱、革命を合わせて、軍民の死者は四十万人にも及び、負傷者はその三倍に達した。そのうえ、この一連の戦乱により新たに二百万人の難民が発生した。中東地区の石油施設の四割が被災し、長期操業停止による施設の破損も少なくなかった。戦闘期間とその後の操業低下によって五十億キロリットルの石油供給が減少したと推定された。それは少なくとも三千億ドルの外貨収入をこの地域にもたらしたはずの量であった。中東大戦は、わずか七ヵ月の間に、二十年間にわたったインドシナ戦争の数倍の損失を生み出したわけである。
だが、この巨大な数字でさえも、この戦争が全世界に及ぼした間接的損失に比べれば、数十分の一に過ぎなかっただろう。全世界的な生産の停滞と食糧不足によって、何億人もの人びとが生命の危機にさらされていたからである。なかでも甚大な被害を受けたのは、日本であった。この経済大国は、こうした非常の危機に備える用意を著しく欠いていたからである。
しかし、日本が蒙った被害を算出するのはまだ早過ぎた。この石油危機がもたらした損害はその後も長く続いた。
日本における人命の喪失の大半は七月以降に生じた。米穀の端境期に当たる夏場に至って、食糧不足はいよいよ深刻になったからである。治安の回復も意外なほどに手間取った。きびしい食糧難はその後も各地に小規模な暴動や食料品輸送車襲撃事件を引き起こした。そしてこのことが、物資の流通と経済の安定を妨げ、一層長く人びとを苦しめた。
日本の治安がある程度回復したのは、この年の秋からであった。石油供給の回復で、警察や自衛隊が機動力を取り戻したことや夜間照明が復活したこと、そして幾分生産が再開され、失業者が減少したことなどのためであった。
しかし日本の苦難はなお続いた。この年の米作収穫は、六、七月に予想された五百万トン内外を大きく上回り、八百万トンにまで伸びた。その限りでは、日本の農民は大いに頑張ったといえる。だがそれでも平年作に比べて四、五百万トンも少なく、翌年にもまた多くの人びとが飢えに苦しんだ。
政府は食糧輸入に全力を上げたが、期待通りには行かなかった。中東大戦による石油不足は世界的な肥料不足を生み、全世界的凶作をもたらしていた。そのうえ、日本には大量の食糧を輸入するに足る外貨も残っていなかった。このため国際機関や外国の援助に頼る食糧輸入を、アジア諸国と競いつつ細々と行うのが関の山だったのである。
日本経済の回復はさらにはるかに遅れた。政府の役人や経済学者の多くは、生産施設は全く無傷なのだから石油輸入さえ回復すれば経済復興は比較的短期間に可能だ、と考えていたが、それは間違っていた。一年後の夏においても、日本の鉱工業生産は、石油危機以前のピークの五五%、国民総生産は六五%にしかなっていなかったのである。
その原因は、当初、工業原材料の入手難にあった。日本にはそれを買い入れる外貨が乏しかったからだ。だがその後は需要不足が長期停滞をもたらした。生産施設も住宅も公共施設も無傷のまま残ったため、およそ設備投資や公共投資が行われなかったのだ。消費の面でも食料品などの値上がりで、耐久消費財は売れなかった。そして各国とも同じような状況にあったために輸出もまた容易に伸びなかったのだ。この結果、かつては高度成長─大量投資─新鋭設備─国際競争力強化という好循環を誇っていた日本は、古い施設をかかえた病める国になりつつあったのである。
日本経済の復興を遅らせたもう一つの重要な原因は、産業組織の崩壊であった。石油危機解消後も膨大な財政赤字が凄まじいインフレを生み、二度のデノミネーションを無意味にした。多くの人びとは、生涯をかけて貯えた資産がほとんど無価値になったことを知って失望した。人びとが身につけた繁栄時代の知識や技術の大部分も意味を失っていた。日本国民が生気を取り戻し、日本経済が正常な生産や流通、金融のシステムを確立するのには、相当に長い期間を要したのである。
だが、失望したのは、真面目な大衆だけではなかった。この機を利用しようとした政治的投機家もまた失望させられた。この大危機は、日本の政治や社会にも多くの変革を招きはしたが、それらはすべて平和的に民主主義のルールにおいて行われ、基本的な体制崩壊にまでは、ついに至らなかったからである。日本の歴史が常にそうであるように、こんどの場合も国民のほとんどは、自己の生活防衛に専念したのであった。
数年前、いくつかの分野の研究者有志が集まって、日本の将来を考える気ままな会合を持ったことがある。その調査対象の一つに、�石油輸入が大幅に減少した場合、日本が受ける影響�というテーマがあった。つまり本書でいう「油減調査」だ。
調査方法としては、マルコフ過程という数学理論を適用した。つまり、一つの事態が発生した場合、次にどのような事態が生じるかを、確率論的に積み上げて行く手法である。それは非常に手間のかかる仕事だったが、幸い電算機なども使用でき、かなり精密な計算によって予測をしぼることができた。
それはあの第四次中東戦争によって先の石油危機が起こる以前のことだったが、その予測結果には参加者すべてが息を呑むほどに驚いた。被害の大きさが全員の想像をはるかに上回ったからである。そしてこの時から、この「絶対にあり得ないとはいえない危険」に対する認識を世に訴えることが、われわれの義務と考えられるようになった。
この発表の形にはいろんな意見があった。当初は、調査レポートのような形が考えられていたが、そのうちに小説の方がよいという意向が強まった。予測についての解説や説明は不十分になろうが、できるだけ多くの人に読んでもらえるようにしたい、と考えたからである。
この小説の第一稿は、一九七三年の秋に一応書き上げることができた。だがちょうどその時本物の石油危機が発生したので、出版は一時見合わせた。当時の日本社会をおおっていた不安感を助長することを恐れたからである。
それを今回、再びこうした形で書き上げたのは、石油危機解消後、石油・エネルギー問題に対する世間の関心を、もう一度喚起する必要がある、と考えたからだ。
一時的な石油危機は消え去ったが、石油・エネルギー問題は少しも解決されていないことを、忘れてはなるまい。わが国のエネルギー供給構造は全く変わっていないし、石油が政治的にも地域的にも著しく偏在した資源であることも変わりないのである。
今回、改めてこの小説を執筆するに当たり、先の調査研究会の有志に再び大変お世話になった。石油危機以後の情勢を全面的に取り入れて、より正確な予測を行う必要があったからである。わがままな中断にもかかわらず、この労多い作業を再度行っていただいた十二名の方々には、改めて感謝の言葉を捧げねばなるまい。
以上のようないきさつと目的で書かれたこの小説は、通常のフィクションとは多少異なる性格を持つ、と思う。ここに登場する人物はもちろん、架空のものであり、特定のモデルはない。だが、ここに示されている客観データは入手し得る限り正確なものを使用した。また、現時点(一九七五年)以前の年次の入った事件、制度あるいは情勢については、ほとんどすべて事実通りとした。ただ、この小説の主題事件の発生は、「今年」ではないので、文中の�今の�石油の種類別構成比や自給率などの数字は、科学的予測または各国の計画値に変えている。このためこれらの数値の中には現在のものとはわずかながら差があるものがある。
本書の主題事件の契機となる�ホルムス海峡の封鎖�とその�二百日間の継続�という事態は、内外の専門家が�蓋然性がある�としている事件の中ではごく深刻なものの部類に属するだろう。だが、それ以外のこと、特に日本における影響については、先の調査によって、�最もありうる確率の高い状況�として算出されたもののみを集めた。つまり、事件をことさらに深刻化させ、被害を大きく表現することはしなかった。実際に、石油輸入減少が生じれば、これ以下の被害になることもあるが、それ以上になることも十分にある、ということである。その意味で、この小説は�空想�であるよりは�予測�である、といいたい。
これを書き終えて改めて思うのは、�現にあるもの�が欠如することの恐しさだ。豊かな社会に住みなれたわれわれは、常に�不必要なもの��あるべきでないもの�の過剰を恐れる習慣がある。一酸化炭素の過剰累積から宇宙人の侵入に至るまで、科学的・空想的な各種の恐怖は、ほとんどこの点から語られている。だが、われわれが本当に恐れなければならないのは、�あるべきもの�の欠如ではないだろうか。日本はあまりにも多くのものを海外に依存しているからである。